三、一 逝く夏 | ナノ



 ふうわりと鼻腔をくすぐる匂いを追っている。髪結いの家の夕餉の心まで暖めるような優しさ。鬢付け油と白粉の生々しさ。それらを運んでくる晩夏の風が不意に遠い昔、荷を背負ってこの街に来た幼子の幻影を作り出す。古ぼけた写真のような淡く懐かしい黄色と碧と白も相まってそれは夏の終わりゆく報せを告げる熱風に溶け、酷く懐かしい郷愁を誘ったが実際、郷愁に沈むほどの郷里などとうにない。心の奥にある、色褪せ掠れてしまった一片の残骸を貼り合わせることも、もう試そうともしない。
 ふと肩に感じた温もりと馴染んだ香の薫に目を擦る。瞼を閉じていたことももしや寝入ってしまっていたことも記憶にはなかった。起き上がった勢いで滑り落ちたのは先ほど肩に掛けられただろう薄紗だ。
「母ちゃん、起きたの」
 夏だと言っても寝る時は特に冷やしちゃだめだよ。それ、と指差された生成りの柔らかい色を纏った紗は息を飲むほど透明な空より溢れる光を受けて目映かった。もくもくと湧く綿雲の代わりに空高くこぼれ落ちる鱗雲が過ぎ往く夏と来る秋の証で、しかし茹だるような暑さに境目の季節は地熱を跳ね返している。
「あら晴太、おかえりなさい」
 いつ帰ったのと向けられた背中に呼びかければ結構前、言いながらお茶を手渡される。そんでおいらはこれだ、と満面の笑みと大粒の汗を浮かべてかぶりつくのは削ったばかりのカキ氷。
「冷やすのは悪いんじゃなかった?」
「おいらはいいんだ、若いから」
 あらあらと困ったように見せかけて隠しきれぬ幸せを滲ませて上がりそうだった口角がピキリと固まった。
「ふふ、……そんな遠回りに人をおばさん呼ばわりするのはどの口かしら」
 頬を軽くつねればふにゃりと妙に間の抜けた表情が出来上がり、思わず笑ってしまう。わかったそんな悪戯して面白がる母ちゃんは十分若いよ。わざとらしく頬を擦り恨めしく見上げる晴太は、けれど目の奥を輝かせている。
 苺シロップに浸されていく氷に、彼の従業員の子供達曰くクーラーのような気の利いたものなんてない部屋で今頃惰眠を貪っているだろう男の影響かしらと思い巡らせた。床机に鎮座する色の所々剥げた取っ手付きの青いペンギンに、滑稽なほどこの街は馴染んでしまっている。
 空の低い場所で蜻蛉が飛んでいて、近くきっと雨になるとそこはかとなしに思った。


 


 お兄さん、と知らず呼び止めていた。
 眠らぬ街は、夜になってその本性を現す。ネオンと灯篭に照らされたその男の、右往左往する姿は夜遊びを知らない者の風体を彷彿とさせたが、好奇よりは戸惑いを、怯えよりは躊躇いを感じさせる佇まいは単なる素人と片付けることを難しくさせた。何より、整った容姿は一介の遊女ならば一生の思い出にするかもしれない。それが、絶えず声を掛けられているのに関わらず彷徨い歩いているだけだ。疑心は少なからずあった。
「吉原は初めて?お兄さん」
 背中に声を掛ければ、ふとすれば僧衣の色を思わせる墨染めの着流しの男は、わずかに固まった後に無言で振り向いた。藍鼠の目が広い背中から想像したものより幾らか鋭い。
 沈黙が、彼に似ていると思った。
「初めてではない」
 男は掲げた「ひのや」の看板を一瞥し、少し考える素振りをして長椅子に腰かけた。
 団子二本との注文に奥へ戻る。
 日中の熱さの余韻は地表のみに留まり、厨房の開け放った窓に吹き入る風はほのかに涼しかった。皿と、懐紙と、団子と、お茶。カタコト鳴る音に入り混じって寒蝉の声が遠く近くから悄然と伝わってくる。客引きの誘いやら一気飲みの掛け声やらは茫然と遠い。いや、オラ散歩に行くぞ豚野郎って、プレイは店内限定でお願いしますと今度町内会議の時に議題に挙げなくては、とは思ったが。盆に載せた湯呑の水面が和紙越しの柔らかい光を映してぐらりと揺らいだ。
「この街も大分変わったから驚いたんじゃないのかい?」
 はい団子お待ちどうさまと床机に置く。いや、と男が口角をわずかに上げた。そういうわけではない、と頭を振る。
「いつのまにどこかの街に似てきてやがると思っただけだ」
 ここよりも随分と薄汚れたきったねぇ街だけどよ。
 そう零して、男は湯呑を啜る。うまい、と呟いた。
 変化の良し悪しも、望むべきなのか畏れるべきなのかも、わからない内に既に変わっている。けれども喜ぶべきか嘆くべきかさえ時として戸惑ってしまう。あの笑顔と泣顔は嘘だったのかと問われれば胸を張って本当だと言い切れるのに。
 四角に区切った空の、高い位置にある鋼鉄の水平線から陽が沈み、代わりに行燈提灯に火が燈った時、赤格子より菓子屋の似合うようになった街は、またあの頃に戻る。そんな気がした。
 鳳仙、鳳仙。
 望むことなど決してないが、今は少しだけ懐かしかった。どこにあるかももう、定かではない、けれどこの街では決してない故郷のように。記録では苦海しか広がっていなかったはずなのに、記憶は優しく甘く改竄する。
「随分と長いこと訪れてなかったのね」
「通ってた時期もあったが、避けてたかもしれねェ。いや、今もしてるかもな。……煙草吸ってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
 全く近頃はどこに行っても禁煙だ副流煙だ騒がれて喫煙者の居場所があったもんじゃねェと吐き捨てながら男は流れるような手つきでカートンから一本引き出し、浅く咥えた。一緒に懐より取り出したライターは、あれ、マヨネーズ?マヨネーズ型ライター?と一瞬目を疑う。これはマヨを崇めているのだろうか。それとも祟っているのだろうか。
 しかし月影と浮世の灯篭の元、青煙を燻らせる姿はライターの些か奇抜な形を考えても、あまりに様になっていた。

「あら、」
 視線を戻す途中、目元を掠って飛んでいったものに瞬きをした。日暮れた後は草むらの葉にぶら下がっているはずの虫なのに。
「夜なのに」
「蜻蛉、か?」
 ゆるりと男は手を空に向かって伸ばし、人差し指を立てた。つられて、空を見上げる。不夜城の光に薄められ、喧噪に掻き消され煙に遮られた天空に星は見えず、十三夜の未だ満ちぬ月が玲瓏と浮かんでいる。漂い彷徨い浮かぶ煙の原点に、赤く煌めく火元と灰がある。ふぅ、と男は心を鎮めるように息を吐いた。
「好いた女が死んだんだ」
 随分と前に。男はさらりと言う。
 何の話か一瞬わかりかねて、先程の続きかとようやく繋げる。
 許されただとかもう十分だだとか思ったわけじゃない。その弟に脅されて来たんだ、今日は。男は自嘲するように苦笑すると、それきり何も言わなかった。
 対応は慣れているはずなのに、何も応えないのが正しいことのように、摂理のように思えた。
 また、彼を思い出した。男のせいだろうか、夏が終わるせいだろうか、秋が来るせいだろうか。
 生きている時は何でも欲しがったくせに、去る時は何も持ってはいけない。最期になって気付いた男は崩れる時、何を思ったのだろう。己が涙を浮かべている時に微かに笑ったように見えた彼は遺憾だけでない何かを持っていけただろうか。
 けれどもし持っていけたならば、生き物の心はきっとずっとずっと醜くなる。不死な上に持っていけたら、どうなるのかわかったものではない。
 逝く者への慰めに、残った者への穴埋めには果たして何が必要なのだろうか。
 どちらにしろ光には差し伸べられる手などないと思った。
 前来た時よりもいい街だと言って男は団子も茶も何も残さず腰を上げた。結局掛ける言葉は何もない。亡くなった彼女よりも、消えたもう一人を考えている。
 俺が一方的に想いを寄せていただけかもしれねー。どうだろうな。わかんね。
 灯を昼間の日照と間違えて群がる蜻蛉が彼の指に止まることは終ぞなかった。

 煙草の匂いが濃く残っている。
 片付けを終わらせ店先に戻る。今夜は客が少ない。
 銘柄は何だろうかと、知っている数少ない紙煙草の名前を一つ一つ当て嵌めていったがどれとどの匂いが対応するかもわからないので、知識を復唱するに留まった。今も昔も、ここでは煙草より煙管を吸う者の方が断然として多い。天人か人間かという酷く自分本位な二括りに分けるとすれば、かつての夜王は紛うことなき天人のはずなのに、彼は頑なに伝来の新しいものを拒んだ。伝来の新しい技術の全てを使ってこの街を地下に沈めたのに、皮肉だった。同時に強靭な肉体を持って生まれた自分を疎んでいるようで、それが痛々しくもあった。
 憎んでいたのだろうかと、今更ながら考える。
 ただ不器用なだけなのに、意地を張って道をずれるのを憎んだ。誰にも心を許さないことを嘆いた。背中に掛ける声も、掛けられる声もいつだって脆く、跡形もなく消えることを前提としていた。
 おじちゃん、おじちゃん。
 嫌ってなどいなかった。拒んでなどいなかった。
 彼の死あってこその解放は、故に同時に共存することを望めない。
 その通りにこの街はずっとしたたかにずっと美しく変容している。彼の死あってこその結果は、反対に彼の死なくてはならなかった。年老い、己の道を振り返った時、あなたの道には何もなかったかもしれない。けれどあなたはいずれ知ろう。あなたが何百もの女の故郷と呼べる場所を、結果的には築いていたことを。
 恋い焦がれた光に、救いなどないのだ。だから今は安らかに穏やかにあなたの創りあげたものの行く末を見守って欲しい。そう願うほどには、憎んでいたかもしれない。
 人とは不可解な生き物だ。そう思って、自分が言うかと笑った。
「あら、今度は片目のお兄さん。お店の紹介?」
「いや、吉原一の女を拝みに来ただけだ」
「それはいい冗談」
 最後の煙は、秋の訪れと共に持っていかれた。
 夏が傷付く。夏が逝く。
 夜が深めば、いよいよ吉原は賑やかになる。




2013・8/19


――――――
救いなどない。今はただ穏やかにあなたの愛した世を見守って。
鳳仙。
彼以外の名前は、晴太以外、日輪も頑張って控えました。
そしてナチュラルに土ミツ。






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -