空の涯に消ゆ | ナノ



 遠く、雷が鳴っていた。雲はまだ薄い。光は燦然と輝いている。
 石畳を歩いていた。ふらふらと柄でもなく花を持って、自分でも似合わないと思った。夏はむしろ、来たばかりだ。
 何日か夕立が続いた。午前は風が吹いて、昼から雲が圧し掛かる。来ると直感するのは午後で、空が白くなる頃には降る。驟雨が走った直後には雲間から光がなだれ落ちた。それが収まったかと思えば、この暑さだ。
 木漏れ日のざわめくこの石畳に、銀時の靴が先日のなごりである水溜りを踏みしめる。かつての曇り空の下の血溜りはとうに消え、澄んだ波の広がったそれは、何も映さない。ピチャンと、軽い音が蝉のかわりに鼓膜を打った。
 風があかい傘を翻す。
 めにみえる。めにみえない。その境目を教えてほしかった。半透明に浮く、男。嘘なら嘘だと言ってくれ。頼むから。酒に焼かれた囁きは舌先で溶け、彼に届くことはたぶん、ない。

「てめえ、まだ逝ってねーのかよ」
 どれだけ未練があるんだ。墓石の上にドンと陣取った幽霊、じゃなかった、スタンドに銀時は呆れと感服を含ませた溜息を上げた。死に顔こそ穏やかだったというのに、見下ろしてくるのは相変わらず眉間に深く皺を刻み込んだ、何かを耐えているような顔。
「儂みたいな無法者がテメェの仁義見失っちゃあしめェじゃろう言ったのはお前じゃ」
「仁義通すというか、立派なスタンドじゃねーか」
 京次郎。儂ぁ狛犬じゃあ。生きていた時も、今も、彼はそう言う。狛犬が主守って何が悪いんじゃ。狛犬ならちゃんとあるだろうが。墓前に構えた小さな犬二匹を見遣る。なんじゃあ悪いかと男は反論するので別に悪かねーけど、お前はどっち。流し尾、立て尾、どっちだよ。けらけら笑ってやったら、お前、酔っとるな。ますます眉を顰められた。
「飲むか?」
 白日のもと、徳利を揺らすと怪訝な表情で、
「毒入りじゃろ、それ」
「冗談きついなぁ。日本酒ぶっかけたら消えるかと思っただけだってこっちは」
 そっちこそ冗談がきつい、儂ぁ悪霊か。え、違うの? 息を吐き出すついでにとでも言うような、静かな悪巧みの笑みどちらともなく浮かべた。
 なぜここにだとか、驚かないのかだとか、そんな野暮な問いは、この場にはいらない。墓場であるというのに憚りもなく、まるで互いが暇をしている時に偶然会った旧友のように言葉を交わす。そこには花も草木も酒も傘も情もある。あまりにも短い付き合いだったというのに。
「この状態じゃけぇ酒は飲めん」
「一人酒に付き合えよコノヤロー」
 呑めないと拒んだ割には音もなく墓石より降りてくる京次郎に銀時は徳利と二つ置く。自分の分と、相手の分。熱気に歪められたような鈍い音が二回鳴った。

 時折唐突に吹く風が水とは違ったうねりを持って揺れるみなもを撫ぜる。そこに涼しさはなく、けれども妙に安心感をもたらす人の体温にも似た温かさに包まれたようにも思えた。
 ゴロゴロと、また遠くどこかで雷が鳴る。閃光も見えない、雲も見えない、どこか。いっそ落ちてくれれば涼しくなるのにと墓の前に胡坐をかきながら銀時が手の甲で影を作る。額に浮かんだ汗の玉を拭い取りながら、あーと呻いた。
「それにしても暑ちィな」
 仰ぎ見れば、はっとするほど鮮やかな浅縹が頭上に広がっている。水晶を彷彿させる硬質な輝きは夏だと思い知らされる色だ。
「暑ッちぃ」
 袷を開いてぱたぱたと扇ぎながら、誰に伝えるわけでもなく、銀時は一人ごちた。歩いてきた墓場の入り口へと繋がる石畳も車の走る道路も陽炎で揺らめいている。
「広げ過ぎじゃ、やめい」
 通報されるぞと、京次郎が着流しの袷を指した。
「お前は暑くねーの」
「儂ぁ幻影じゃ」
 京次郎は手を、いつか己が引いた引き金により鉛弾が貫いた銀時の腹部に当てたが触れることはなく、身体をそのまま通りぬけていく。ぶるりと震えた銀時にこれで涼しくなったかと問えば何かすみませんと言った。
「……というか、なに見てんの」
「いや、随分とこさえとるな思うて」
 京次郎の視線の先には、銀時の開けた袷より覗く傷痕がある。それはお前もだろうと、一瞥すればスタンドになれども案の定、その腹や胸や肩にはあかい盛り上がった線が縦横に走っていた。左目を縦に裂いたものを筆頭にうすく鍛えられたはがねで負ったそれらはいくつもいくつも重なっているのに、持ち主である彼が自分の刃物によるものだけではない痛みの成れの果てに、驚いたことに驚いた。
「そりゃ銀さんも若ェときにはヤンチャしてましたから」
「今も、じゃろう」
 それには思わず苦笑をこぼした。一つこさえた奴が言うんじゃねーよ。酔っ払いのように徳利からそのまま酒を呷り呑む。腕で口元を拭いながら横目でちらりと見て、銀時はわずかに目を見張った。テメェの命取ろうとした者にそんな顔を向けるのか。眉間の皺こそ緩めてはいないものの、ゆるく口角が弧を描いた優しげな表情を。
「間違っても憐れむんじゃねーぞ」
 向けられるのが醜悪な感情でも罵言でもどれでもよかった。ただ、憐みだけは、いらない。
「誰がするんじゃ、気持ち悪い」
「そこまで言わなくてもよかったんだけどね」
 それから少しの間、風が止んだ。真夏の真昼間から外で酒を飲むというのはどこか倒錯的だった。同じことを思っていたのか何でもう出来上がっとるんかと聞かれ、ガキどもが笹取りに山に行ったからと理由にならない応えを返す。
 耳に響く虫の劈くような音と、肌に浮く汗だけが現実だと告げていた。
 石畳の熱さも木漏れ日の光を溶かしたような影も、生ぬるい酒が舌を滑る感覚も、ふとすれば白昼夢の一つへとでも誘いそうであった。心地悪くはないぐらつきを感じながら、京次郎を窺った。自分ばかり酒を飲んで酔って、しかも墓場で寝るわけにはいかなかった。
 銀時を見透かすように、京次郎はどこか遠くを見ている。ものを眺めているのではないのかもしれなかった。もっと抽象的でもっと慈しむべき、平穏な生活や、人との関わりや、そういった類のものを見据えていた。思い出したように蝉が鳴く。
「つくづく、数奇な人生じゃったと思うて」
 感慨を含んだ吐息と共に流れ落ちた心は、響きにしてしまえばあまりにも軽い。
「儂も、お前も、じゃ」
「わかるのか?」
「匂いでわかるんじゃよ」
 お前は犬かと口にしそうになるが喉元で呑みこんだ。狛犬じゃけぇ。そう言うに決まっていた。
「こんなに長生きするつもりなんざこれっぽっちもなかったんだけどなぁ」
 思い浸るようにして回顧すれば、それこそ埃が被ったままの記憶に、そのような時期もあったはずだ。胡乱な目付きをよこしてくる京次郎を見て、今の自分は生き急いでいるようにも死に急いでるようにも、あまり見えないようだとわかり、銀時は少しばかりの安堵を覚える。
「墓場でそんな縁起でもない話はやめぇ」
「そりゃあ悪かった」
 笑ったら、蝉が止まった。
 蒸し暑くなりすぎれば反対に虫も鳴く気力をなくすかもしれない。
 昔話を、してもいいか?大したことはないんだけどさ。徳利をコトリ、石畳に置く。

 幼き記憶の色濃く残るは、決まって苦く、酷く渋い。
 生きるためなら殺し以外なんでもやっただなんて、それさえも望めなかったのか、望まなかったのか、生きていく上で殺しは基盤だった。
 墓場の裏山に銀時はその幼子の幻を見た気がした。大の大人でさえ尻込みかねない深い山中の闇の中にあって、ひとりきりでいるこどもが何より怯えたのは人間である。ひとでなんかあるものか。恨む相手もなく感情も知らずにそのしろいこどもはこちらを見る。屋根があると知っては彷徨い食べ物があると嗅ぎ付けては流れた。人が来れば身構え息を潜め、耐えるか抗うかの他にはなかった、のかもしれない。
 身一つの餓えたガキに、なにができたというのだ。
 雑言や痛打の記録は痣となり跡となり、今でも皮膚を引き攣らせている。戦に出ていたことを知るひとは少なくないが、戦に出る前よりこの身体が傷にまみれ死の恐怖に喘いでいたことを知るひとは少ない。
 今となっては、わからなくなる。飛びかかってしまったその刃に、なにか理由があったのかと。人は何故殺し合う。そう問われれば、かつては簡単にその答えが言えたのに。
 嫌な臭いと鴉の飛び交うあの場所で、随分と長いこと沈んでいた気がする。
 銀時は白いこどもを、かつての自分の残像を呼ぶことはできず、目を逸らすこともできず、帰れと一つ、手を振った。帰る場所などないことは分かりきっているのに。お前は強いからと、それ以外の生き方など知らぬこどもを山へと返した。
 さて、自分が根無し草よろしく漂っていた時に、目の前で眉間の皺を捨てないスタンドは何をしていたか、わかりきったものではないか。
 なぁお前もそうだったんだろう?京次郎。野良犬、か。
「まぁ、そうじゃのう」
 簡単に言ってくれることが簡単などでは全くないことは、互いにわかりきっている。
 日がじわじわと水を搾り取るかのように照っていた。光は粒子であり波であるらしい。その一つ一つまで見えそうな輝きに、砂のような匂いに、ちぎれ雲の白と緑と青と赤。影と光の濃さと眩さとの際立った対比にめまいがする。薄目で見やった極彩色で彩られた世界に、半透明の輪郭は気おされているようだった。
「誰に言うつもりもなかったんだが」
 お前も生きていたら、言わなかった。それは本当だった。幼馴染だと言える二人にさえ喋ったこともない上、宙にいる馬鹿やこの地で築いた人脈の中の誰にも、銀時は自分にも言い聞かせるつもりはない。今更、何を結ぼうか。殊更、何を言えるわけでもなかった。彼人の墓前以外では。
「死んでるから口がきけるってのもあるよな」
 だから縁起でもない話はやめぇ。半ば苦笑いを浮かべて京次郎は諌めた。銀時が彼の前に置いた徳利は動いていない。
「似てるんじゃろうか、儂と、お前は」
「どっちでもいいんだよ、それは。自分で名乗る馬鹿はいないだろうけど、俺らみたいのなんてあんなご時世には掃いて捨てるほどあったろ」
「名乗る馬鹿はきっと生き残れんじゃろうから、もう死んどるな」
それが何だか素っ頓狂なくせに理にかなっているようで、「それもそうだ」と鼻で笑った。
 生き残れたのは一重に頭が悪くはなかったのと、身体が異常に丈夫だったのと、なにより運だ。なんだ、パチンコで中々勝てないのは運を使い果たしたからかと別のところで銀時は納得する。
 時代に揉まれそれでものた打ち回った結果無様に生き残ってしまった、その果て未だにここにいる。
「無法者の話は、だからあれはお前だけじゃなくて俺もお前もって言ったんだよ」
 せっかく冷蔵庫で冷やした酒がもう熱燗じゃねーか。愚痴をこぼすのも忘れずに、それでもさも旨そうに銀時はそれを喉に通す。
 根無し草だったはずが、いつのまにこんなに根を張ることとなったのだろう。
 未来だけはわからんのうと京次郎が笑った。

 水底のように、木漏れ日はやわらかく透明に揺蕩っていた。
 盆が遠いせいか、暑さのせいか、都会の真っ只中に立つ墓場に銀時と、あとは見える人の限られているスタンド以外人影は見当たらない。風が笹を揺する音を遮るものは何もなかった。
 よく見れば御影石はどれも少しくすんでいる。
「極道ってのは結局、そんなに面白いものだったのかね」
 組長の墓だというのに近頃誰も訪れていないではないかと口には出さないが、銀時は言い募る。
「儂も志願して踏み込んだわけじゃあないんじゃが」
 どこが面白かったんかのう。困ったように京次郎は腕を組み、指が順に腕を叩いた。
「オジキがおったけぇ」
 真っ直ぐ銀時を見た京次郎は表情には欠けていたが、多分どこかに墓の中で眠る人の面影を探っている。居心地悪そうに姿勢を正し、裾を引っ張り更に咳払いをする行動を銀時はよく知っていた。
「暑いこって、バカヤロー」
 まるで鏡を見ているようで、こちらが少しくすぐったくなる。誤魔化すように銀時は滴る汗を乱雑に拭った。熱風が縫っていく。実際、遠かった雷の音は近づいていた。また降るのかと、舌打ちは隠せない。
 じゃが、と見据えられたまま静かな声が発せられた。興味をなくした平坦なものではない、落ち着いた穏やかなものだった。
「お前にもおったじゃろう、そんな人が」
 胡坐の足を投げ出し、目を細めながら京次郎は徳利の縁を撫でる。のう、と半ば慈しむように触れてから弾いた。音はない。揺らぐ視界の中、気を抜いてしまえば消してしまったはずの匂いが鼻腔の奥に届きそうで、銀時はあわてて振り払った。夕陽に嗅いだ薫は、忘れてなどいない。
 彼人がいなくなっても、世界の秩序は保たれたままだった。
「死んだよ」
 とっくの昔に。
 目を閉じれば、今度は歩いてきた石畳の方に幼い銀時が立っている。松陽がいて、高杉がいて、桂がいて、蛍を見に、蜻蛉を捕まえに田んぼを駆けた、い草の匂いにうたたねした、あの遥か西に残してきた故郷と呼べるものが、あの時のままそこにまだあるのなら、――。
「あの人はいずれ乗り越えなければいけない峠だし、いずれ消えていかなければならない光なんだよ」
 銀時の胸の奥の、決して汚れることのないページにそれはあった。あの人に敵うはずなんて、ねーのにな。くるりと振り向いた幼子が自分を見て困り顔で笑ってくる。
 見えないように、花を放った。花を放れば、花が散る。空を仰げば、雲が散る。ならばこの風と共に、いらない感情はどうすれば散っていくのだろう。与えられた愛は情は、典型的なものとは言い難かったが、嘘だとは誰にも言わせない。
「救いなんてほれ、あの遠雷みたいなもんじゃろ。どこか遠くにあって、儂らには関係がない」
 石畳に手をつき、京次郎は天を睨んだ。雲の向こう、どこか遠くで閃いている雷に耳を傾け、嘆息をこぼす。道端に転がされた地蔵はいつか瓦礫となり、いつか石となり、いつか砂となって風となる。救いなんてそんなものだろうと、吐き出された二酸化炭素と一緒に逃げてしまうそんなものを求め伸ばす手など、ずっと昔に下ろした。
「それでも、生きてさえいりゃ、先がある」
 銀時。そうじゃろ。凪いだ湖面のような平淡な視線には、やはり見慣れない優しさがある。引き攣る片目の傷はけれどそれさえも彼を彩る装飾のように似合っていた。なにかを覚悟したような、諦めたような笑いを一つこぼし、銀時が手をひらひらと振る。
「死んだ奴に言われたかねーよ」

 日がゆっくりと傾いていくにつれ、空気の透明度が増したようだった。陽の光が強すぎて見えないが、東の低空には月が昇っている。雲と雲の隙間からはこがね色の光が燦然と洩れ輝き、西から南にかけた空は玻璃が反射したかのように暖かく染まっていた。
 変わりゆく空を、風に耳を寄せながら眺めていた。
「会いにいってやればいいのに」
 抜け落ちた誰にだとか、どこへだとかを補うように空の徳利が句読点を打つ。
「大団円を邪魔できるわけがないじゃろ」
「お前なしに大団円なんてあるか。息子に会えますようにってきっと爺さん、短冊に書いてる」
 あの強面の癖に息子たちが大好きな人だから手に負えない。息子にとっては頼れる兄だろう。はっと耐えた末に絞り出された笑みが顔に浮かび、頷きとは反対にお前こそ、と紡がれる。
「お前こそ、会いにいっちゃればええ」
 人生のほとんどが息抜きみたいなもんで、身体のほとんどが糖分とだめな汁でできてるけど。中村くんちょっとそれ誰からどこで聞いたのか訊ねてもいいかな。焦る銀時を面白そうに傍目で見やり、だけど、焦る上に怒るけど、
「家族も同然なんじゃろ」
 願いだなんて書かなくてもいい。短冊の一つでも、掛けてやれ。
 ひょうと、穏やかな風が吹く。つられるように、蝉の鳴き声も一瞬、止まった。笹の葉と目にはみえない何か。そして銀時の髪を撫ぜていく。境界の時間は優しい濁りと透き通った風とが同化して、底知れない畏れと、それ以上にひどく愛しい空気を纏っていた。
「いってやれよ、京次郎」
「言ったじゃろ。儂ぁ幻影じゃ」
「スタンドだろ」
 陽炎の如く翳む輪郭を縫いとめるように、手を通す。心臓であるはずのそこは虚に空いている。
 ゴロゴロ、ピシャーン。最終警告のように雷がついに落ちる。
 来る途中、踏みしめたはずの雨の名残を探してみれば、水たまりはもうすっかり消えてなくなっていた。



 




2013・7/7


――――――
始まりの始まりこそが同じだった……。
個人的に京次郎と銀時の共通点がすごく好きです。
あと似非広島弁、広島の方はすみませんでしたスルーしてください(笑)
最後に昨日は右之さん、今日はお登勢さんに陸奥さん、
そして明日は沖田くん。おめでとうございます!





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