焼失点 二十 | ナノ



 二十


 眇の猫を見ました。涼しげな青灰に残った目が空よりも透き通った水の色なんです。凍てた泡の色。孤高で脆弱なんです。見入ってしまいました。で、誰かに似てるなって。誰だと思います、銀さん?

 新八は寝息を立てる神楽を横目に自分もそろそろ寝るかと目を閉じた。その神楽の反対側には松陽がさきほどまで子守唄を口ずさんでいたが今はそれも鎮まり、布団の掠れる音に彼が寝返りを打ったのがわかる。
「銀時は寝付きが悪かったものですから、よく唄ってたんですよ」
 相槌を打つ新八をよそに居間にいた銀時が障子から頭を突き入れ、人の恥ずかしい思い出ばらすなと言ったのは一刻も前の話で、あの人にもそんな繊細な時期が、と眠い頭で想像したら笑いが込み上げてきた。
 新八は泊りだった。非番の妙と晩御飯は姉弟水入らずと思いきやキャバクラ仲間を家に呼んで何かの接待の打ち上げ会と来たので、それでは水入らずというか、水を差すことになるので泊まってくると朝、断ってきた。
 そして左目のない猫を見る。
 銀さん、誰でしたっけ、猫。
 わからねーよ、んなもん。すぐさまジャンプに目を戻した銀時に実は僕もよくわからないんですと応え新八が神楽にじゃあ聞くなヨと頭を叩かれたのは昼間のことである。つか、やけに詩的だな新八のくせに。難癖も一つ、思いだしたように付け加えられる。松陽は最近、本人が探索と銘打った一人の散歩が多くなっていた。路地裏の名残雪と黒と灰の縞模様を思い浮かべる。その中心に一つだけある瞳を描いた。誰に似ているかなんて、思い出せないのではなく、思い出したくなかったのかもしれない。
 柔らかい雨が冴えた月に照らされている。
 雪を融かす春の雨が、暖かさを呼び込むほどやさしいわけがなかった。
 部屋に薄く差し込む街路の蛍光灯と、そことなく漂う月光のさやけさが相まって、布団の中で身を縮めた新八は片目の猫の引き込まれる蒼が瞼の裏をよぎるのを追う。

「入って来いよテロリスト」
 月の傾きからして、日付が変わる時分らしい。無関心さを気取った声が夜の空気にさらされたのを聞き取ったのは、浅い眠りからの偶然的な覚醒だった。松陽の向こう、新八から最も遠い布団は未だに空っぽだ。
 乾いた呻きを上げた引き戸が今度はコトリと、不思議と潔く閉じられる。障子の隙間から洩れ入った風と光に布団を引き上げながら、新八の視線は自然とわずかに開かれた隙間のその向こうを覗いていた。
「ガキ、いるんじゃねェか。そう簡単に入れるなよ。腑抜けただけじゃなくて警戒心も消えちまったのかァ?」
「ほざけ。堂々と入ってきた奴が言う台詞かよ…それよか、次会ったら斬るつったろうが」
「街中でばったりじゃねェよ」
「もうこの子は人の揚げ足ばっかり取って!」
 クッと喉を鳴らすような笑いに、この人かと驚きよりも納得が先回ったのは背後に松陽がいるからだろうか。まるで殺伐とした部屋に用途もない置物が一つ増えたように、彼らに対する認識は何か薄らと変わったような、変わってないような、朧げで優しい靄を纏っていた。
 とりあえず入れよ、灯りつけるから。
 気さくな呼びかけも、勝手知ったると無遠慮に上がってきながらも足音を隠す人影も、そこから滲み出るのは斬る斬られるの陰険な雰囲気ではないことだけは確かだった。
 ゆらりと障子に映ったやわらかな輪郭に、蝋燭が灯されたことを知る。青白い月を遮るように、夕焼けにも似た、夕焼けより淡い影が新八と、神楽と松陽と空の布団の待つ寝室にも落ちた。
「というかさぁ、ヅラがおめーのこと呼んだんだろ。そっち行けよバカヤロー」
 寝室に背を向けあーとオヤジ臭さを隠しもせずに座り込んだ銀時の対面に、高杉が腰を落とす。何気なしに室内を見渡す視線が障子の隙間で止まった。窺っているのがばれたかと射竦められたように身を堅くする新八はしかしどうしても目を逸らすことができず、それ故に高杉が目を見開いたのがよく見えた。明るみから暗がりはよく見えないはずなのに、彼は何を見、何を感じたのか純粋な驚愕だけが表情を彩る。
 見計らったように風が吹き抜け、蝋燭の焔が妖しくぶれた。歪に動いた口は何か言いたげで、しかしついぞそれは音となることはなく、代わりに切羽詰ったように、
「おい、銀時ィ」
 呼びかける。
 ちらりと寝室を一瞥した銀時はすぐに高杉に振り返る。顔が見えなくとも新八にはそこに笑みを張り付けているのがわかる。そしてその裏には更に牽制があると知っていた。自分の口から答えは告げられないという遠回しの警告。
「オメェがそんな無粋なことするとは思わねーんだけどなぁ…夜はまだ長いんだぜ?それはさっきから外でストーカー紛いに屯してるもう一人に後々聞けばいい」
「嗚呼…そうだったな。テメェに粋か無粋か言われる日が来るたァ思ってなかったが」
 コンコンと鳴らされるのは煙管だろうか。そういえば吸うんだっけ、高杉さん。明日消臭剤かけないと。
「つーかもう一人、もうこれだけ振ってんだからいい加減入って来いよ」
 翌日の算段を立て始めた新八の耳に、今度はあからさまに配慮の欠けた声が張り上げられる。
 はっとして寝室の奥へ耳を立てれば神楽が一言ぐずっただけで、あとは静かだった。あんたも何狸寝入りしてるんですか。苦笑いが零れそうなのを押えて、人のことは言えたものじゃないなと何だか新八は楽しくなった。
「スタンバッてました」
「うるせーよもう飽きたよ」
 古ぼけた軋みと共にもう一人が現れる。邪魔をするぞ。
「いや、匂いを嗅ぎ付けてだな。今夜あたりに来るかと思ったのだ」
「お前は犬か」
「狗は寝ておるだろう」
 それもそうだと賛同した凶悪面のテロリストに今の俺の状況やばくね?マジやばくね?指名手配犯二人と一緒だったってどう説明つければいいんだよ、と銀時が滔々と愚痴をこぼす。そう言いながらも酒は一献な、などと嘯いているわけだから満更でもない。
「なんだ?斬らねェのかァ?」
「道端でばったりではない」
「屁理屈だな」
「さっきそれと全く同じこと言った人が当たり前みたいに言わないでくれますー?」
「というか、いよいよ電気止められたか、銀時?」
 三叉路にそれぞれ先を行った三人は契りを交わさずともぶらぶらりと集まる。きっとこれが初めてであるはずなのに、何かに惹かれて誘われては戻る。原点だろうか。きっとそうだ。
「馬鹿言うな。ガキどもが寝てるんだよ」
「多分起きてるだろう」
「うん、多分起きてる」
 ほら、酒。辛いやつ好きだろ?

 夜も更けて、一盃の酒、一夜の宴会。彼らは気付かないふりをする。わかりきっていながら、目を伏せている。きっとぶらぶらと集まったように、彼らはぶらぶらと同じように散るのだ。
 息を潜めながらも交わす軽口に、ああこれが、これが本来の彼らなのだと、新八は唾を呑んだ。歪んだ笑みでも貼り付けた表情でもなく、矛盾に生き続けてきたこの男たちが、死を再生だと、後退を前進だと言い続けてきた彼らがこの一夜だけに外すのは仮面なのだ。それを認めたとき、また胸の内で何かが膨らんだ。寂しい安堵だった。刃のような、危うさを伴った乾いたうねりだった。
 この人たちにとって、時間や距離なんて、隔たりではないのだろう。
 猫、誰に似てると思います?そんな酷な問いに答えることなどできたものか。目の一つ抉られたそれが、世を憎み疎みながらも人を引き付ける性が誰に似ているかなんて、あーはいはいそれ高杉だな、だなんて、己の雇い主は決してそれほど強いわけではないのだと、新八は分かってきたのに。
 向けられた銀時の背中が堪らなく不安だった。昼間、ジャンプの向こうに埋めた彼の顔はどんなだったのだろうか。今、酒を緩慢と口にし、語り合う彼はどんな表情をしているのだろうか。苦々しさだったろうか、呆れだったろうか。
 少なくとも、かつて見た高杉の狂いに染まった感情は姿を潜め、かわりに茫然をも諦観をも思わせる平穏だけが残っている。それさえもが新八の焦燥にも似たもの寂しさを増した。
「同じ香使ってんだよ、あの人と」
 会話は至極自然に繋がっていた。で、高杉。さっきから煙たいんだよ。煙草臭いこって。匂うかァ?ったりめぇじゃねーか。じゃあ言うがなァ…障子の向こうの人も同じ匂いがするはずだぜ?は?え?同じ香使ってんだよ。俺は先生と同じ香なんだ、これで文句はねェだろとでも言うように堂々と煙管を吹かしている。先程も無駄に堂々としていたが。これ消臭剤だけで効くのかと新八は本格的に思い始めていた。
 さあ、ここまで来たら、もう逃げられまい。好奇心が眠気をも上回っていた。果たして踏み入れていいものであるかどうか、新八には分からなかったが、この時を待ちわびていたかのように、心臓がうねった。
「おい、ヅラァ」
 音もなく吸って、ゆっくり吐いて。蝋燭と月光の境目に紛れ込んだ煙は暖かくも冷たくもない。
「ヅラじゃない桂だ。なんだ」
 銀時がテメェに訊ねろつって聞かねェんだ。前置きと、煙を一塊こぼして、酒の器が音を立てて置かれたのを合図にすぅと息も吸って、なんだよと銀時が笑いを洩らす前の糸を張ったような空気に新八も思わず固唾をのんだ。
「で、あの人は何でいるのか聞いていいんだよなァ?」
 呼吸と共に流れ出した本題は蝋燭の朱に留まり、静けさも動き出したように思える。握り締めた布団の湿気だけが生々しかった。
 二人分の静かな寝息と蝋燭の滴る音だけが、ひたり、ひたり、空間を満たす。
 先に言っておくが。桂が言い分けじみた言い分から切り出した。
「理由は知らん。塾の中から出てきて、外にいた俺と銀時が会ったので連れてきただけだ」
 仄かな月明かりの残光かそれとも夜明けの朝焼けかが障子越しに射し入っている。最後の一服とでも言うようやけに長く燻る煙を肺に通した高杉はそれから灰を落とし、煙管を仕舞った。
「調べてやるよ。テメェよりは俺の方が天人にも顔が広い」
 ふらりと始まった宴はふらりと、ここで終止符を打たれるのだろう。参加したわけでもないのに、それが新八には残念だった。
「おお、それは頼もしい。なぁ銀時くん」
「お前それのために呼んだんだろうがよ」
「貸し一つだ。それと、」と高杉は声を潜め、「仇討とサプライズって、ふざけてるんじゃあるめェな」片方しか残っていない目が獰猛に光った。前に見た狂気とは、少し違う類のものである。
「それは今度の俺の所へ来い。エリザベスを探せばわかる」
「そうか。邪魔したな」
「おい、会わねーのかよ、高杉」
 少し焦ったように慌てたように糾弾する口ぶりも含ませて呼び止めた銀時に高杉はどのような表情を返したのかは知らない。ただ、新八は耐えるように目を瞑った。
 地に落ちた声が、余計に耳に響く。「…会わす顔なんて、あるかよ」
 もしいると認めてしまえば、今までの復讐は、弔いは何だったんだよ。ふいに障子の前にしゃがんだ高杉の眦はふっと和らいでいた。鉄色の眇は形容のしがたい苦さと温かさとやるせなさと悔しさと滑稽が混じった濃厚な光を漂わせ、せんせい、と呟く声は酷く掠れている。縋ろうとは思わない。真っ直ぐ見ることさえできない。手を伸ばした先も、薄目を開けて見やった先も望んだものなど横たわっていない。
 幸せは、手に取った刀の代わりに置いてきた。無条件の幸福は穏やかな過去、あの人の傍にしかいないと端からわかっている。わかっていながら、そのうち取りに帰れると思っていたのだ。とうとうそのうちがそのまま来なくとも、それぞれの途へ踏み出したまま、薄れていくべきものだったはずだった。それなのに、だ。生きてなんていたのなら、俺のこれまでは何だったんだ。あんたの居ない腐った世界は何だったんだ。
「今日は会えない。今頃生きてましたァ?そんな冗談、例えあんたでも殴りそうだ」
 いつかの夜明け、船の上で垣間見たあの顔とは似ても似つかぬ、高杉に浮かぶのは途方に暮れた少年のそれだった。
 ああ、この人も、このような顔をするのだ。
「少し、頭の整理をさせてください。また来る。近く来る、先生」
 邪魔したなと今度こそ、彼は踵を返す。それでも、背後の人は黙ったままだった。最初から最後までずっと狸寝入りを通して傍耳を立てていたなんて、あんたらしくもない。きっと銀時ならそう言って笑う。
 ふっと軽く息を吐かれたのが聞こえたがそれが銀時であるのか桂であるのかはどちらにも背中を向けられている状態で新八には判断しかねた。
「そうだ高杉さぁ、沖田くんに会ったんだって?」
「嗚呼、あれ、沖田っつーのか」
「可愛いもんでしょ」
「可愛くはねェがな。昔の俺達見てるみてェで俺ァあの熱が嫌いじゃねェよ」
 俺らも若くねーななんて、ふと寝室に振り返った銀時の表情は恐れていた渋みでも呆れでもなく、子を見守る親のような雰囲気を含んだ、まるで敷き詰められた伊草を嗅ぐようなやさしさだった。そんな顔をするというのなら、確かにお前ら二十代なのにもう若くねーな。心の中で新八は笑う。
 親はどうであれ子は育つと言う。銀さん、僕達はあなたの未来ですか?そして貴方にとって、彼らも、銀さんも桂さんも高杉さんも、未来だった?未来だったのでしょう、松陽先生。
 夕焼けにも似た、夕焼けより淡い消えかかった蝋燭の下、境目の時間で感傷に浸った彼らの心を占めるものは、理性ではない部分の脳のどこかで想うことはきっと、今僕が考えていることと同じ、そうなのでしょう。
「まあ、俺も嫌いではない」
 一代一代、血ではない何かによって繋がれたものはどこかで綻び、どこかで結ばれ、やがて続いてゆく。嫌うものか。嫌ってたまるものか。

「遅かったね、お兄サン」と、知った声が聞こえた。
 とうとういたたまれずに神楽と松陽と一晩空っぽだった布団に振り向いた新八は天井を見つめる神楽の目の蒼に、失笑する。お前もかよ。お前も、狸寝入り。
「あれ、神威アルヨ。私の馬鹿兄貴アル」
 表情も顔色も一つたりとも動かさずに事実を述べる口調はしかし、やりきれない気持ちが漂っていた。
「憎んで憎んで…最後に愛せればいいんですよ」
 私も歳を取りましたかね、眠いと目から汗が…。
 朝焼けの差し込む空気に埋もれた呟きが果たして誰に宛てられたのかは、ついぞ知らぬ。



 





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