相克 | ナノ



 その年の初夏は日照雨(そばえ)が降ることが多かった。廃寺へと繋がる石畳にあかるい雨が疎らに染みを作る。雲間からは光が束となって燦然と漏れた。もうじき梅雨だろう。
 水溜りを蹴って原田がその寺に駆け入ってきたのは既に一刻も前の話である。勅令が渡った。初仕事が入った。幕府の尻拭いの穢れ仕事だとは端から覚悟してのことだ。それでも、軋んで朽ちた古寺を言い知れぬ熱気が包んでいた。
 田舎から棒切れ一本を頼りにして江戸に上った、侍になりたがりの荒くれ者が二十人余り。田舎者どもが侍を現す刀を帯びれば、この江戸に、この世界に、どれだけの変化を齎すことができるのか、それが楽しみで仕方なかった。侍の真似事をする猿と蔑まれる田舎者はどれだけ名を轟かせ、その渦の真ん中に身を置く自分たちもまた、どれくらい変わるのだろうか。人の業に染まりきり、変わってしまうのだろうか。期待の裏側、胸に忽然と浮かんだ緊張と苦痛を隠すように土方は喧噪の中心から少し離れた柱に身を預けながら覚えたばかりの煙草の煙をゆっくりと吐いた。
 何しろここから始まるのだ。自分たちのすべては、ここから、これから。生存を望むならば、それ相応の価値があることを証明せねばならない。
 それができるか?問い詰めるように鋭い風が過ぎる。紫煙が寺の裏、夏にはいよいよ蚊の楽園となるだろう小さな池と雑木林に面した縁側から寂れた寺の堂内に流れる。気付けば光の届かない御堂の薄闇にまぎれる煙を目で追う土方は、ふと自分と同じく離れた場所でぼんやりと濁った池に映る木々を眺める白が目に留まった。暗がりに浮かぶ色彩は、闇夜の雨に似ている。暗闇で雨が降ると、地に落ち跳ね返った雫が鈍い銀に光る。闇は光る。
 視線に気付いたその暗闇の雨の色を纏った男はゆるりと顔を上げた。ゆっくりと数回瞬きをした赤銅の目と合い反応が分からず、なんだよ。そう発してからなんだよはむしろそっちの台詞だと気付く。
「俺は別になにこれ言えるほど土方くんのことが知ってるわけでもないけどさ、」
 知りたいとも思わないけどさ。ふとすれば裏でそれがこだまする。
「煙草なんて、どこで覚えてきたの」
 見咎めるように眉根を寄せた彼の視線の先には指に挟んだ短い煙草。灰が落ちぬよう目配せする。土方はいなすように返した。
「悪いか?」
「んや、悪かないけど。煙草は身体に悪いよー。力落ちるし、肺悪くなるし、身長伸びないし」
 あと目付きも悪くなるって、それはもう悪いか。それと、それと。
 とりとめもなく続けるその先、懐かしさと愛しさと狂おしさを冷淡で包んだ視線のその先には誰を思い浮かべ、思い出し、想い馳せているのか。遍歴も、ましてや年齢も、どこの生まれで、どんな歴史を背骨に刻んでいるのかさえ不明のこの男の慈しみと悔しさとを一身に受ける記憶が、記憶の中のその相手を自分も自分の知っている人も誰も知らぬのが、土方には心苦しくも思えた。
「テメェこそ、会った時は煙草の臭いつけてやがってよォ。人のことが言えたもんかよ」
 憔悴した風体でありながら空元気に包装された声で坂田金時ならぬ坂田銀時だと宣言した、その変わった色を持った男は近藤が拾ってきた。武州を発って数日の山道から近藤が担いできた血と泥を被ったものに染み込んだのは嗅ぎ慣れぬ鉄砲の臭いと、もっと鼻の奥に居座る、煙草もあったように思う。
「…それは、俺が吸ってたんじゃねーよ」
「そうかよ」
「そうだよ。それと、煙草吸うなら、髪、切ったら?」
「煙草を吸うと髪を切らねェとならない規則でもあんのか?」
「似合わねーから」
「は?」
「つか、燃えて禿たら笑いもんだろうが」
 けらけら笑う。土方がハゲでマヨ吸ってんだ。想像したのか、また。それから大あくびを隠しもせずに、一つ。は、飯に小豆乗っける奴が何言ってんだよ。俺は甘党ってんだよ、お前はなんだよマヨ党かよ。おうマヨ党だよ悪いか。じゃあマヨ党でいいよバカヤロー。マヨか糖かは至極重要なことであるが、表面だけ掠る話に痺れを切らす。
「坂田、」
 ん、と銀時が応える間もなく、なんでィ!早々と江戸の口調に染まった沖田の唸りが周りの音をかき消し、行き場を失った苛立ちの余韻だけが中途半端に反響して残った。総悟!訴えるように近藤が僅かに声を荒げた。
 低く、どうしたと土方は縁側の柱から離れ原田に訊ねる。近藤が怒鳴るのも珍しいし、彼にそうさせるまで駄々を捏ねる沖田も珍しかった。
「総悟が俺も浪士の検挙に行くっつって聞かねぇ」
「行くつもりでいるのかよ、あいつ」
「まだ十五だってのに」
 もう十五だと言うには苦しかった。
 初仕事は、初陣だ。もう大人の仲間入りだと言って送り出すには、仕事は生易しいものではない。何しろ自分達が行うのは、どう飾り立てても殺し以外のなにものでもないのだから。
「だがどうしてもって言うならよ、」
 土方が肩をすくめて見せる。沖田が自ら選択して来たからには、初仕事でなくともいつかは通る場所であるのは確かだ。トシ、と近藤の目が戸惑いに揺れる。
「行かせればいいじゃねーか」
 唐突に響いた土方ではない声に土方は目を瞠る。瞳孔開いてて気持ち悪ぃやと沖田はもはや拗ねた子供だった。
 片時も離さぬ赤鞘の刀を腰に飄々と近づき、沖田の前で膝に手を付け目線を合わせた銀時は、沖田の目を見据えた。
 いつでも眠そう彼は、しかし時々酷く残酷な目を持つ。あれは鬼だと、近藤は言った。
「おめぇ、幾つだ?」
「十五」
 沖田が言い放つ。もう子供じゃあねーな。真剣に頷いて、それなら覚悟は、と続ける。
「戦場は人が人を殺すところだぜ?それを見る覚悟は、真っ只中にてめぇが立つ覚悟は?底無しの沼だ、戻れなくなるぞ?」
 面白くなってきやがってなぁ。物騒な言葉とは反面、彼は疲れ切って死を待つ老人のように息を吐きながら笑った。土方と幾つも変わらないように見える歳に合わず、若さ故の熱を見つけることはできない。温度を宿さぬ表情を沖田は睨みつける。
「できてなかったら、姉上を残してきてやせんよ」
 地を這うような低い声にざわめきが走り、それから何もかもが止まったような静けさが君臨する。雑木林の笹が騒ぐと思えば、一陣の風が駆け抜けた。
 それが合図のように銀時は今度こそふわりと笑って見せる。ためらう素振りで恐る恐る沖田の頭に手を被せ、自分の中で何らかの踏み切りをつけたのか、わしゃわしゃと沖田の砂色の髪を撫でまわした。沖田はそれこそ子供のように目を丸くし、それから疲れたのか心地いいのかそれを閉じた。
「上出来。お前がそう選ぶならそうなんだろうな。行けよ」
 慈しむ笑いに嘘はない。憂いも辛酸も入り組んだそれに土方には躊躇の意味がわからなかった。
「餓鬼がここまで言うんだ、近藤さんも、いいだろ?」
 餓鬼じゃねーでさぁ。敏感に反論した沖田に苦笑をこぼしながら顔を上げて近藤に問う。それに仕事の検挙は、血を見なくて済むかもしれない。渋い顔を見て、後押しをする。仕方ないと近藤が顎を撫でる手を下ろすと、沖田は目を輝かせると同時に唾を呑んだ。

 前夜に、酒を飲んだ。壮胆の酒だと買ってきたのは誰だったか。
 風に当たって親交を深めようじゃないかと酒の勢いに乗って近藤は土方と銀時の肩に腕を回した。星の代わりに遠く、鋼鉄の都会に点々と灯る光と闇が魔物のように手招きしている。
「銀時、」
 酔いを感じない静かな声で近藤は酌をしながら、語りかける。なみなみと満たされた酒が黒々と、しかし表面だけが蝋燭の柔らかい光に柔らかい輪郭を持ってうねった。
「俺は回りくどいのが駄目でな、単刀直入に入るが、総悟の件。お前が取り持ったのは正直、助かったよ。ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃねーよ。俺なんかが仕切って、傍迷惑だったろ?」
「いや、そんなことはない。それより、」
 これからが本題と言うように近藤が杯を置く。ことりと朽ちそうな床板が、澄んだ音を出した。
「わざわざ入った理由、聞いてもいいかな?」
 張りつめた空気が、酒盛りの賑やかさでさえ遠い出来事にさせる。蝋燭の灯ではなく、月光が酒に映り、土方は闇夜の雨を見た気がした。銀時が杯の縁を撫でる。
 嘘を嘘で固めるように笑うから、嘘だと気付かぬふりをして堂々巡りを張らす。素性の分からない者を追うつもりもないが、残すつもりもなかった。間者だなんだと疑心暗鬼になるには人の善すぎる近藤は似つかわしくない。見極めるのは、自分でなくてはならない。嫉妬にも似た親愛と憎悪の間を理性が揺れる。
「ああ、それ。検挙つっても、言い切れば人を殺し殺されるかもしれない所だろ。そんな死地に送るのは、近藤さんにも、流石に土方くんにも辛いだろ?」
「土方でいい」
「じゃあマヨ方ね。だから、この役は、よそ者の俺がやればいい」
 それだけ、と酒を一気に呷る。
 銀時、と馴れ馴れしさを感じさせない、まるでりんごを齧るような自然なそぶりで近藤は話す。
「一緒に来たからには、銀時。一緒に来たからには、よそもくそもあるか」
 夜風が間を吹き抜ける。熱気に包まれ、蒸気となり消える。懲りずに一陣、一陣、吸い込まれるそれは、人の性に似ているかもしれない。
「そう言ってもらえると、嬉しいよ」
 土方には穏やかに告げた銀時の表情はわからない。彼の心の内も、わからない。何が真実で、何が虚構だなんて、会って一ヶ月早々の誰にも知らず、もしかすると、銀時自身も、知らないでいる。しかし何ともあれここから始まるのだ。江戸という、侍という魔物に、執念に誘われ、これから始まる。
 こんにちは、さようなら、巡り、巡る。

 連なる灯篭の果てのその先へ、先へ追い焦がれる。
 土方は揺らぐ焔を眺めて思案に浸った銀時を思い出した。一半刻前の話である。色里に吊るされた提灯や灯篭と物悲しい調べを運んだ三味線に、無意識にと言っていいほど刹那の間、動きを止めた銀時は一言馬鹿だなと薄く笑い、佩いた太刀を撫ぜた。凹凸の目立つ鞘に映り込んだ灯影がまるで陽炎のように揺蕩う。
 元よりそれを抜くつもりなどなかっただろう。これで斬らねばならない程の価値の人間は存在しないとでも言うように腰の差料には一切触れず、幕府支給の刀一本で峰打ちどころか確実に平打ちを決める銀時を見て、土方は思った。殺すなというのなら真剣と一緒に木刀を持って来ればよかったと垂れる銀時にお前は今度から木刀にしろよと怒鳴る。そうするわと返したその横顔が気に入った玩具を見つけた子供と見紛う。
 遊郭の広間に突入してから一半刻。
 溢れる紅は見入るほど鮮明なものでもない。
 二十人と酒に酔った七、八人。卑怯だとは言わせない。浪士然とした田舎者が粛清を大義と唱え、かつての馬上の英雄を斬る。それだけが皮肉だった。
 形相を変えて叫ぶ者も斬りかかる者も逃げる者も結局は血と肉と骨とでできたモノで、混沌の中で目の前の刃を避け、捉え、抗おうものなら握った鈍を皮膚に食い込ませれば一瞬、祈ることも念仏を唱えることも許されぬまま人は簡単に死ぬ。
 自分や、近藤や、誰もが焦がれていた侍という地位の重みは、侍の魂を象る刀の重みはたかがこれしきのものだったのかと、幻滅にも似た苦さが空っぽの胸を満たしていった。違う。違うはずなのだ。銀時の抜かない刀は違うのだろう。侍というのは言い渡された仕事をこなす狗ではなく、もっと別のものであるはずなのだろう。
 考えるな、と土方は自分に言い聞かせる。落胆でテメェの士道も貫けないほど、脆い覚悟だったか。前に道がないのなら、血路を切り開いてでもここからゆけばいい。後ろにもないのなら、もう、戻らなければいい。それは、この程度の覚悟だったのか。
「貴様は誇りを捨てたか!」
 まさしくそうだった。だが突如に凛と響いた叫びは明確な殺意と共に、数歩前の銀時に向けられたものだと分かる。小柄な、可愛らしいくさえ見える垂れた大きな目を持つ男、否、まだ少年の域も脱していないだろう彼は、絞り出すかのような声で唸った。
「裏切り者が」
 突きつけられた刃を銀時は冷めた目で見る。
 あれは鬼だ。土方は近藤の言葉を思い出す。
 鬼と同時にただの人だと、付け足された言葉を思い出す。近藤に拾われた当時、銀時の纏っていた赤茶けた白を思った。いくさ装束。血濡れの太刀。刀傷。それらが示すことがわからぬほど土方も近藤も間抜けではない。
「そうだとしたら、何か」
 彼は確かに侍であったのだ。刀を握り振るい生きてきた、戦場を生き抜いたつわものなのだと、土方は直感にも似た確信を抱いた。
 俺はリスタートしたいんだよ。裏切りの上に俺は立っている。それが、何か。
 恬淡で覆った射殺す勢いの目は人ならざるものと誇示するわけでもなく、ただの脆弱で狡猾な人であるとの諦観を示している。どこか螺子の外れた状態は心を保った者から淘汰されていく環境に身を置いた証である。
 喧嘩に明け暮れる自分達と比べ、動乱に生きた彼にとって、侍だ何だと言って幕府に跪いた行動は飯事のようで、侍の意気地など欠片もないものに映るに違いない。きっとそうである。そんな自娯自楽でしかない茶番に投じた銀時は、殊更空虚で寄る辺ないものであるに違いなかった。
 そしてそのために何を捨てたか、それを言葉にするにはあまりにも危うい響きを持っていた。
「終わってもないのに再出発なんてできるかよ!」
「終わってるんだよ、俺の中では」
 空笑いをこぼし泣きそうに顔を歪めた男に言い聞かせるように、宣言を下す。誰も知らないその仮面の下に覆い隠したのは絡まり縺れた想いの掃き溜め、感情の名残なのだろうか。ひびの入ったそれから、淵のない悲しみが静かに溢れた。
「終わってない!鬼兵隊は潰された、潰されたけど!総督だって生きている!終わってなんかいない」
 駄々をこねる子供さながらに震える男は、何を思っているのか。銀時に似た掴みどころのなさと哀しさを見た気がして、あるいはそれは戦を生きた彼ら共通の顔であるのかと思い至った。
「吉田松陽だって!彼の教えはまだ、」
 興奮と怒りと期待と諦めを持ち合せた男は、止まることを知らない。
「話は終わったか?」
 銀時の纏う空気が棘を含み暗く澱みひずんだのを土方は肌で感じた。男は一瞬怯み、全てを叩き潰さんとするように刀を振り上げた。
「彼の人が育てたのは、こんな輩か?こんな裏切り者か?坂田銀時、白夜叉、貴様!」
「俺の本名を覚えてくれてるなんて嬉しいがね、」
「おい、坂田っ!」
「君は喋りすぎたよ」
 思わず声を上げたその瞬間、異様に静かな狂気を目に宿し、彼は断罪を下すように男を斬る。それとも最後の一瞬、見開かれた男の目に映った自分を斬ったのか、終ぞ土方にはわからなかった。ただ、焔が見えた。裏切りと嘘の上に立つ、湖の底で揺れるような、危うさによりかかった焔だ。
「近藤さん悪い…手が滑った。今度からは木刀持ってくるわ」
 鬼なんかであるものか。ましてや夜叉でも鬼神でもない、あれはただの戦の落とし子だ。
 土方くん。静かに静かに銀時は問う。彼は全てを悟っている。生きて死ぬことの難しさも、事の道理も摂理も、全て噛み分け、悟っている。ただ、彼は知らないのかもしれない。世界の優しさを知らぬ嘗ての人斬りは、あの動乱の時代に心というものを置いてきてしまった。
「お宅はこんな裏切り者を、反逆者を、拾っていいのかね?」
 彼は何を求める。自分は何を求める。縋ろうとも相手などいない。
 この両足でしか立っていない。


 硝煙が晴れた時に鮮明に姿を現す青空が好きだった。
 唄を思い出していた。
 枯れた喉で、高杉がよく口ずさんでいた。
 人と契るなら、薄く契りて末まで遂げよ。
 掠れた声をふいに、思い出す。撥の音、弦の振動、共鳴。夜の光、闇の雨。灯篭の焔、酒の水面。坂本は笛を持っていた。桂は舞もできた。あれから随分と遠いところに来てしまった。喧嘩別れで出てきたはずなのに、おかしかった。
 池の裏に点々とある木々は長らく手入れされずに鬱蒼と生い茂り、あるいは半ば枯れていた。元々は人の手により植えられたそれらは自生する野草と比べ虚栄を纏い、一層みすぼらしく落魄れた空気を漂わせている。それが銀時には平気で天人に頭を下げた幕府のように見え、そしてその幕府に跪いた自分に思えた。
――「侍になるんだ!」
 江戸に上って、侍になってやる。その一言に、見届けることを決めた。差し出された手を知らず、握っていた。こどもじみた幻想をあまりにも信じて疑わない表情に、侮蔑よりは好感を、呆れよりは羨望を抱いた。いってらっしゃい、御武運を。帰りを待つ誰かが生きて帰ってとは言わなかった優しさを、踏み躙り後悔するのは誰なのか。馬鹿だと笑う。血も涙も垂れ流して、それでも気付こうとはせずに前に進もうとした。奪うだけ奪って、失うだけ失って、自分はまた付き合うのか。
 軽かったはずなのだ。何もかも途中で放り出した残ったものは重力を感じないほど、頭も身体も虚ろで、麻痺したように苦渋は感じなかった。関わらぬと決めた。世界とも、人とも、自分とも。そのはずだった。昔も今も、これからも。
 それでも、戦も血も人の執念も知らぬ若さ故の熱を持った者が二十人余り。果たしてそれがどれほどの波を成せるのか、銀時はその目で見たかった。
 濁った池にも澄み透った雨が波紋を作る。一滴の衝動でみなもが揺れた。それが幾度も幾度も繰り返される。風が立つ。
 面白くなってきやがったじゃあねーか。
「銀時、ちょっといいか?」
 朗らかなその人柄に、もっと人は集まるだろう。土方はきっとその近藤のために穢れ役を買って出る。刀を抜かせない。手を煩わせない。きれいで純粋なものには、光に集う虫のように人が吸い寄せられる。そんなことを誰かは言っていた。
 果たしてそこに自分の居場所はあるか、わからない。
 銀時いるか?唯一の離れから発せられた野太い声に今来ると返事し、
「お前達はどうなるか、見届けてやるよ」
 苦い祈りも込めて、低く呟く。

「組織を作ることになった。真選組だ」
 幕府の直属だと、そう付け加えられた言葉に銀時だけでなく、土方も眉を潜めた。何を企んでやがる。喜びの代わりに猜疑の声が真先に上がる。そう警戒するなと近藤が宥める。
「トシと、あと銀時、お前も、副長をぜひやって貰いたい。不束ながら、俺は局長だ」
 そう言って近藤は照れくさそうに頭を掻いた。お相手さんに問い合わせたら、勝手にしろと言われてな、だから勝手にした。豪快に笑う。何番隊とか作っちゃうか?
「似合うな…ぴったりだよ、近藤局長?」
 ふっと息を吐くように笑った土方が煙草に火を付ける。ゆっくりと吸い、ゆっくりと吐いた煙には安寧を噛みしめた安堵があった。一つ言っておく。幕府でも将軍でもねェ、俺の大将はいつでも近藤さんだけだ。ほら、やはり。風に靡いた長髪に、彼はもうじきそれを断つだろうと、天啓のように銀時はわかっていた。
「全く煽てるのが上手いからおっかないよ。銀時はやるのか?」
 近藤の問いに銀時が縁側から投げ出した両足をばたつかせる。孕んで包んだ風は夏の湿気を含んでいた。雑木林の木々も、零落していながらも瀟洒に伸びるだろう。初夏の陽ざしのように、銀時には近藤の執拗も、善意も、眩しすぎた。不意に霞がかった彼人と重ね合せてしまうその考えから逃げるように、頭を左右に振った。まだ鼻腔の一番奥には、懐かしい匂いが留まっている。耳にも、指にも、どこにでも。
 いつかの血濡れた掌が未来を創る。そんな皮肉な世界になったとしても、この汚れが、そしてこの幸せすぎた記憶も消えることなどないのだろう。生きねばと、思った。
「全くお宅は馬鹿だね。お宅は、こんな反乱者をかくまう上に、こんなに大切な役職に就かせる。やっぱり馬鹿だ。俺ならやらないね、こんなこと。ヅラか辰馬ならまだしも。これからも前みたいなことが何度もあるだろうね。何度も、何度もあれば俺がいつまたそっちに戻るかもしれない。俺は何の確証も保証もできねーよ」
「いや、お前は裏切らない。そうだろう」
 子供でさえ騙されない口約束は、もはや信じる以外の道を残してはくれなかった。そうだなと頷き、銀時はでも、と反駁する。
「近藤さんは大将だからいいとして、土方くんはさぁ、土方は俺なんかと一緒になっちゃ、だめだよ。俺なんかと一緒になっちゃ駄目だ」
「アァ?ふざけてやがんのか?」
 胸蔵を掴む土方に、優しいねと、銀時はそんな似合わないことを考えてみる。土方くんは優しいね。近藤さんも、原田も。君たちは、優しい。でもこの世界は、そんな優しい君たちに果たしてどれだけ優しいのか、それを言ってはならないような気がした。
「…なんてな。俺なんかでよければ。書類仕事とか苦手だから任せるけどよ」
「本当にふざけてんのかテメェ?」
「ふざけてねーよ。な、沖田くん」
「そうでさァ。銀時さんと俺の分は土方のヤローに回しといてくだせぇ、近藤さん」
 人と契るなら、薄く契りて末まで遂げよ。唄を思い出す。重い約束事はするな。ただ、契った約束は違えるな。もみぢ葉を見よ、薄きが散るか、濃きが先ずに散るものに候。
 何が、人間だ。何が侍で何が狗で何が裏切りで何が感情だ。馬鹿にしてくれるな。自分の存在くらい、自分で定義ができる。だが自分で定義した自分は、自分の定めた道は、いつから志とも、大義とも交われぬ存在となったのだろう。
 俺はいつからこんな中途半端な奴になったかな。
 真選組、幕府、近藤土方沖田、坂本、攘夷、戦、天人、高杉、桂。先生。螺子巻を一つ、一つ、巻き戻し、溯る。緋色の空、茜色の雲、鴉と戯れた日々へ錻力を回す。嗚呼、なんだ。軽やかに弾きだした答えに、銀時は笑いをせき止められない。なんだ、たったのそういうことか。俺がいつからこんな中途半端な奴になったか、そんなの簡単じゃあないか。なんだ。
 最初からか。
 全てはあの日、始まったのが最大の不幸で最大の幸いだった。
 また雨が降る。柔らかく、細い糸が晴れ渡った空と地を繋ぐ。石畳に恵みの雨が染みていく。音もない。形もない。ただどことなく現れ、どことなく消える。
 もはやどちらとも相まみえぬ、この矛盾の原点を辿れば行き着くのはあまりにも白昼夢じみた、記憶の始まりだ。
 随分と遠いところに、来てしまった。


 




 2013・5/11


――――――
李逗様へ捧げます。
「坂田銀時副長パロ。終戦後近藤さんに拾われて、初めての真選組の仕事の日」とのリクエストでした!
歳三忌に便乗して土方は前を臨み、坂田は後ろに振り返る、を目指してみました。
ただ問題がまだ副長になってない…(汗)副長おろか真選組存在してない…(滝汗)
銀時の真選組での初仕事よりは武州から上京後皆の初仕事という感じになってしまいました。添えていないようで今更ながら不安ですm(_ _)m
そんなふつつかな話ですが、読んでいただけたら嬉しいです。
リクエストありがとうございました!





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