海境より告ぐ | ナノ



 夕暮れたあとの空は一時ばかり、白くなる。
 色彩が斑模様をえがきながら入り交わる空間を吸い取ったかのように、暗闇の忍び寄る手前、少しの間だけ世界から色が消える。
 海が残光を翳し、焔を纏って輝いていた。思い出したように振り返り見れば、既に月が高く昇り、いつからそこのいたのだ。応えられることなどないのは百も承知であるのに、天に問う。いつからそこで見ていた。
 東の欠けた氷輪に白々と照らされ影が伸びた。打ち寄せる波が海と陸の境を告げた。連なる山々の朦朧としたものとは違い、その境目はいつでも明確である。
「…きれーなもんだわな」
 血を浴びたまま佇む男が零した。滲む人間臭さに、桂はまだ大丈夫だと安心する。
「ああ、そうだな」
 雪でも降りそうな雲行きだ。

 戦の前の静けさと、荒涼とした大地を駆け抜ける乾いた風には桂はどうしても慣れなかった。圧し掛からんばかりに重いくせに高く澄み渡った夜空の下では尚更だ。舞い上がる土煙と切りつけるように鳴る風を気にしているうちに、気付けば固まっていた人と人ならざるものが弾け、混じっている。誰が永遠とも思える沈黙を断ち切ったのかついぞ知ることはなく、目の前の仲間でない者ならすべて敵だった。侍の魂を象った鋭い鈍を払えばかすかに燐光を放つ星のようにあまりに呆気なく命は散る。生まれてくる数のそれ以上に、死んでいく。人間でも天人でも、だ。
 刺した刃から伝わる命の重みを初めて知った。
 二つの世界の境目をまたがるその一瞬、それまで何十年も時を重ねてきただろうが、桂にはその一瞬だけが最も尊く映った。音が消え、動きが止まり、唯一感じるのは斬った相手の脈打つ心臓だ。それがふと静かになったところで元の喧噪が渦のように耳に届き、そして再び斬る。生けるものの最期の鼓動に取りつかれたように求めて、刺して、斬って、抉り、殺した。
「全く鬼兵隊はどこで寄り道している…」
 事前に立てたはずの計画もどこに消えたか定かでないが、ただ引き揚げる頃合いだろうと、桂は滑った刀を捨て、既に息をしていない仲間だったもの、敵だったものから取り、再び斬りながら冷静に判断を下した。人間の数も少なくなったが、天人の数も疎らになっている。しかしこれ以上攻めると退路が消える。今は姿が見えないが鬼兵隊は突き進み、銀時とあと数人の少数部隊は生き残っていたら、の話だが、坂本の隊とでまた役目がある。そして桂の隊が背後に回って挟み撃ちにするのが計画だった。はずだ。
「東は引くぞ!」
 桂は喉を張り上げ、牛の頭をした大男が槌を振り下ろす前に喉笛を掻き切った。鮮血を噴き上げながら崩れる巨体に桂は一瞥もくれずに、硝煙を掻き分けたその先に、先頭を駆ける白を探す。
 彼は隊を成さずに大抵、一人である。あるいは死にたがりを数人、引き連れた。薄く広がる雲を突き抜ける陽の光を浴び、煌めく銀の一点が、最上にいる。戦場を憶もせずに駆ける彼を白夜叉と崇める者は多い。俊敏な動きで天人を切り捨て、躊躇なく踏みつけ血を浴び、それでいて尚斬り続ける姿は、なるほど確かにひととは思えなかった。
 目をやれば、酸化した血よりずばぬけた紅とかちあった。合図のように彼が一つ頷き、刀を一閃し、唸る。
「生きてぇ奴ぁヅラと引け!這いずってでも生きろ!死んでも構わねーなら俺についてこい!」
 地獄で閻魔さんにデッカイ喧嘩を吹っ掛けようじゃねーか!
 血を吸って重くなった羽織の裾を、それでも強い風は容赦なく翻す。自分のとも他人のともつかない赤黒いもので真白の陣羽織を染め上げ吼える男が、何かに抗っているように見えた。それが感情を宿さぬ鬼神などではなく、感情に壊されるひとであることを桂はわかっている。
「ヅラじゃない!桂だ!」
「知らねーよ!いい加減鬘取れべったべたしてて気持ちわりーんだよ!」
 ただ桂は坂田銀時という人間を知っていた、それだけだ。互いの泣き顔も笑い顔も見たことがある。取っ組み合いの喧嘩も、桂こそした記憶がないが、高杉と銀時のなら何度も諌めてきたつもりだった。桂も、高杉も、この戦場に立つ誰より解っていた。戦場に育まれようと、どれほど修羅であろうと、ひとでなしであろうと、うつろい脆く残酷でしたたかな、ただのひとでしかないことを。恐らく銀時自身よりも。
 零れそうな星空に薄く雲がかかる。闇の尊さを知って尚輝く星に触れようと手を伸ばせば火傷の一つでもしてしまいそうで、そういえば自分達は何をやっているのだ。死体ばかりの惨状が無意味に見えてきた。そして実際、落ち着いて考えれば無意味なのである。それが笑えてきて、空咳をしながら銀時に返す。
「鬘じゃない地毛だ!俺も取れたら取るわ!取れぬのだ!」
「じゃあ刈れ!俺が直々に坊主頭にしてやるよ!」
「おーそりゃあ見ものだなァ銀時!俺が左半分刈るからお前が右半分でどうだ?!」
「乗った!」
「ちょっと待て何故刈る前提なんだ!」
 しばらく続く不似合な応酬に安心も、不安も覚える。これが最期の会話となったら、馬鹿馬鹿しい。しかしなっても、おかしくはない。横の山道を回れば背後に着くはずだ。
 夜は明けない。黎明の前の暗闇に、どこまで沈めば良いという。いつまで足掻けば良いという。血管を突き破るほどの激しい生への執着が行き場をなくし、熱となって身体中を駆け巡った。身震いするほどそれは新しく、生々しく、鮮やかだった。

 桂は故郷を覚えている。
 芒を掻き分けて蜻蛉を追うこどもを、背中から照らす夕陽を覚えている。師と手を繋いで、四人で、あるいは塾の皆で海を見に行ったこともあった。筋となって射す陽ざしに、牙を剥いて荒れる海が銀粉を撒いたように輝いていた。あたたかかった。なにもかもが。そしてその中には銀時がいた。
――「生きろ生きろ生きろってな、誰かが叫んでるんだ」
 戦をまだ目の当たりにしない頃、桂はこんなことを聞いた。こんなことを言った本人は薄く笑みを作り、柔らかな風を避けるように俯いた。
 どう辿ってその話題になったかは忘れたが、いつしかこう始まったことがある。
――「嫌いだぜ?人間は」
 甘い希望に頼ってる時点で、生態系に上に立っていると思っている時点も鳥肌が立って虫唾が走る。
 表情を宿さずに銀時が吐き捨てた当時、確か高杉が風邪で寝込んで塾を休んでいた気がする。あやつも言いそうだなと真っ先に高杉の生意気な顔を桂は思い浮かべたが、同時に高杉がこの場に立ち会わせていないことに安堵の溜息を吐いた。誰が相手でも遠慮なしに物事を言うのは潔く決して嫌いではなかったが、ただそれがこういう手の話であると、後がとことん面倒くさいのだ。しかし桂も少々不服になり、
――「お前だって、甘えてるではないか希望に」
 言い返せば、
――「だから俺も人間なんだって」
 応えることができずにいれば、大体、生存本能が退化してるだろと、少しばかりの沈黙が流れたあとに続けられる。そして冒頭の生きろ生きろという声の話。生き抜くことが生きる理由だったんだ、だなんて、何でもないように付け足されたそれがしばらく耳に張りついて離れなかった。
 それが分かる日が来るだろうとは、忍び寄る戦火に承知はしていたが、それほど早く来ようとは思わなかった。一生来ないと、どこかでは信じていたかもしれない。戦も何もかも、遠すぎる世界の話だった頃だ。
 ぬかるんだ崖路を踏ん張る筋肉の軋む感触に、この執念と引き換えに手放した昔が頭を駆けた。
 雪が降り始めていた。積もりそうなそれに、舌打ちを一つ。静かに凍てつく海からの潮風を胸いっぱいに吸い込み、その甘さに桂はふとすればすべてのすべてがただの覚められない夢なのでは、と錯覚する。暗闇に慣れた目が、入り乱れる砲弾と刀剣と、天人と人間と、火矢と雪とを見下ろした。こんなちぐはぐな世界は自分の知らない誰かの一夜の夢に違いない。そうであればよかったと、願ったことがないわけではなかった。それこそが甘い希望であり、ひとである証であるかもしれないが。
『生きることにとやかく意義はいらねーだろーが』
 銀時が聞いたならこう一喝でもされそうだと桂は息を吐くように笑い、部下の一人が「桂さん…」そう零したきり、また黙り込んだ。ちょっと待て。今イントネーションが鬘だったぞと、密かに思う。
 銀時の言う生存本能云々、身を持って知ったのはかなり前の話になる。
 それ以来生きろと、警鐘を鳴らすように絶えず自分の中の誰かが繰り返し吼えていた。天に向かって、この世に向かって。生きなければならないと、根拠もなく信じている。人が一人生きようが死のうが消えようが、それはたかが使われる酸素と生み出される二酸化炭素の量のわずかな違いである。しかし溶ける暗闇の中、先頭を率いながらだけれど、山の斜面より飛び出る枝でも茎でも葉でも岩でも、手繰り寄せる自分に、ただ怖いだけだと、桂は簡単に理解した。
 死が怖いのは、誰に聞いてもわからない未知への畏れに似ているかもしれない。生きているものに死を経験したものなど存在せず、死亡を理由に逝った者も誰もいないはずなのに、死という生あるものなら誰しも免れぬ結末をより身近に感じ、故にそれを恐れ、同時に消えることでしか迎えられぬ安寧を渇望していた。矛盾する思想がしかしぐるぐると混ざり交わり、いつしかすんなりと同じものとしてまとまっていた。
 とはいえそんな率直すぎた気持ちをぶつける隙間もなく、今頃は鬼兵隊等と面しているだろう天人の軍の後ろに回り込んだ時には流石に戦慣れした辰羅族の一人が気配を察し、奇声を上げながら懐に潜りこまれ、避けたものの唯台無しだと思った。刀を振り上げ突き刺したそこには善も悪も、ましてや感情もなく、ただ魂の象徴であるはずだった刀が人を殺める暗器へと成り下がっている事実が横たわっているだけだった。
 痛みに目をやれば左脇腹から赤黒いものが若草色の布地に滲むのを松明の火で確認した。その後はひたすらに軌って斬って、息をするものの最期の脈動を見届けるのみ。
 元より狂わずに生き残れるとは思ってはいない。

 こんなに突っ走るから、これではあとで包帯が足りないだろう。
 すっかり諦めた口調で、桂が一人呟く。あいにく傍にはお母さんかとツッコミを入れる坂本も、更にウザいと付け足す銀時も高杉もいなかった。
 天人側には数百年数千年それとも数万年か知らぬが、地が割れて、あるいは海水が浸透してできた細い淵があった。故に正面からだけでは攻められない。行き過ぎれば最後、自ら海境へ投じることとなる。ならば前は高杉、後ろは桂、淵の山側が坂本、そして海側が銀時。四方から囲み、淵に落とせばいい。追い上げる鬼兵隊に、昨夜より潜伏していた坂本達、陽動する銀時に逃げ場を封じる桂。濁った深淵の水が墓場となる。海葬なんて、浪漫があるではないかと誰かが言った気がする。
 薄光のなか、高杉と坂本を探し当てた。鮮血を浴び、隊の最前線を駆ける。
 日は未だに上らない。西の山へと傾く月と、侘しく澄んだ白い空は嘘か現実か、それすらも困惑させる。色をなくしてしまった中に泥の黒を見、血の赤を見、刀の紫紅を見、山の翠を見、海の碧を見た。しかしただ一人、ただ一つ、
「おい!銀時はどこだ!」
 焦りの混じった問いに、呆れ疲れた声が此処だぁ!と返答した。こことはどこだと探せば、天人の頭が一つ、淵より投げ出される。まったくお前は!叱る体力もたった今、削り取られたような気がして、桂は大股で目を薄ら開けたままの頭に歩みよった。握った刀の柄についた綻んだ巻き紐を無意識に撫でていることに気付く。泥濘を踏みしめる足に力がこもった。
 獣の如く濁った光を宿した目が薄闇より桂を見上げている。揺蕩う深紅に桂は固まり、絶壁に張り付きながら器用に携えた短刀を振る姿から目が離れなかった。抑えきれぬ狂気と絶望とを調合した色彩があまりにも優しく残酷なほど美しく、激しい痛みを伴って鼓膜に焼き付く。夜明け前の白い世界の中、濃い緋色が一対、己を見つめていた。
 突き落として、突き落として。淵より何が見える。お前の目にはいったい何が映っている。
 徐々に消されゆく玄夜に輝いた松明と埋火と爆弾の煙が酷く目に沁みた。
 やはり。夜叉を冠する名を背負うにはその肩は細すぎた。所詮、血と肉でできているものなのだ、自分達は。国だ侍だ誇りだとほざいて何になる。仇だ恩義だと嘯いて何になる。桂、高杉も、坂本も、銀時も。血と肉でできたこの身体は、何が成せる。ただのひとでしかない自分達は俗世を生きるのが正しい。
「…危ないところにはいくなと口が酸っぱくなるほど言ってるではないか。もう!そんなんじゃあお母さんは知りませんよ!」
「禿散らかせやヅラ!足場もちゃんとあるんだよ」
 貴さは求めていない。意地汚く高潔に生きれば良い。生き抜ければ良い。歪んだ世を真っ直ぐ見つめれば良い。
「手を貸そうかァ銀時ィ?」
「誰がチビの手なんか借りるか!」
「金時それ高杉には禁句ぜよ!」
「テメェは人の名前から覚えようか?」
 嗚呼!わけもわからぬまま慟哭にも似た咆哮を上げながら躍り出るその姿は、躊躇など知らずに頭を落とし心の臓を突くその姿は、形容しがたいほどに神々しく、そのくせ酷く生々しい。
「死んではくれるな」
 口には出さずに意味に似合わず案外軽いその響きを舌先で転がせば、匕首を背中に突き立てた銀時が口端を上げた気がした。皮と肉を割き、肩甲骨の隙間にするりと入った鉄がぐちっと間抜けな音を立てて臓器に潜り込む。もがく天人のその様を嘲笑ったのを桂は見た。歯を食いしばり、苦々しさと刺々しさとを含んだのに愉快に滲む、よくわからないものだ。
 構わずに澄ましている天が憎かった。

 白く輝き牙を剥く海原からの光を背にのせていた。波音が耳に押し寄せ、苦い懐かしさが桂の胸を満たす。戦火の過ぎた荒野に残るのはかつて脈打っていたものの残骸と、鈍と、あとは死体を漁る鴉だろうか。
 底の見えない深さに誘われて、桂は崖の傍に立っていた。
「生きてるか死んでるかってさ、海か陸かみてーなもんだろうな」
 戻るぞと少し前に催促に来た銀時が海と空の境のその先を見透きながら、唐突に口にした。一瞬それが何のことかわからなくて、桂は数回目を瞬かせる。
「いや、海は玄武岩で陸は花崗岩だ。全く違う」
 そーゆー話じゃねーよだからお前はいつまで経ってもヅラなんだ。ヅラじゃない桂だ。
 語尾に重なるように溜息が一つ。感傷を誘う波音に更に一つ。理解できないようでできる気がして、伝わんとする気持ちは分かると頷く。
「だからさ、ただ海にいるか、陸にいるか、それだけの違いじゃねーか」
「…ああ、そうだな」
 悔しさをも彷彿させる表情で崖下を睨んだ銀時が、あー疲れたと気の抜けた声で大きく欠伸をし、それに誘われなんだか桂も眠くなった。なんだよ行かねーのかよ。既に背を向けている高杉と坂本を指差され、待て今行くと、桂は銀粉をまぶした海に目を細め、翻す。
 背に逆光を浴び、世の理を逆行する。何せ生きるのは初めてなのだ。
 死にゆくのではない。生き行く。
 なに、ただのひとの甘えた希望、たかが陸と海の差ではないか。
 朱色が残光を翳し、白に溶けきった。


 




2013・2/15


――――――
緋華様に捧げます。
「攘夷時代の坂田と桂でシリアスなもの」とのリクエスト…シリアスを取り違えたような気がすごくします(汗)
ご希望に添えていますでしょうか?
リクエストありがとうございました!
気に入っていただけると嬉しいです。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -