焼失点 十八 | ナノ



 十八


 生温い風が開け放った窓から入ってくる。一瞬部屋に若草の匂いを運ぶそれは遠く、まだ訪れぬ春と嘯いた。

 窓の木戸がカタカタと震えた。船の上は風が強い。
 風と共に流れてくるのはかすかな三味線の音。単調であるのに多彩に混ざり合っていて、間隔的なのに不思議と滑らかに連綿としている。白日に溶け込んで行く音を耳の奥に留めながら、万斉は譜面を睨みつけた。これをお通の新曲に引用しようかと真剣に考えてみる。
 楽器というのは奏でる者の感情を如実に語るもので、否が応とも心の奥底が潜み出る。例えそれが無であろうとも無心という心がそこにはあった。
 高杉の鼓動が聞いたことのないものに変ったと気付いたのは唐突に江戸に行くと言い出した時だろうか。それとも散歩に行ってくると一言残したきりその一日戻らなかったその後だろうか。
 いや、あの男だ。
 坂本と名乗る貿易会社社長と、最も近いはずの自分達をも遠ざけ密談紛いの酒盛りをした後だ。
 撥が弦に当たる音。それ一つを取っても何かが違う。毒々しいまでに研ぎ澄まれた緊張感がわずかにでも緩んでいる。それが純粋すぎた音を、感情を、狂わせていた。
「下らぬ」
 呟いてみたところで苛立ちは取れない。自分の直感への苛立ちなのか、坂本という妙に馴れ馴れしく人を見透かすような男に対する苛立ちなのか、まったくもって分からなかった。ただ何かが違う。それは確かで、しかし悪い予感かというとそうでもないと思える自分も気に食わない。
 ただ高杉が変わったというそれだけは根拠のない事実なのだ。
「下らねェか?」
 ま、否定はしねェがな。机に向かう万斉の後ろ、窓際に陣取ったそのたった今思い浮かべていた男は桟に肘をつき港町の点々と燈る灯火を見てそう吐き捨てた。
「晋助、」
 いつからそこに。声に出さぬ問いに高杉も無言で応える。
 吹き入る風に逆らいふぅと町に向かい紫煙を掛けるその男は無視せずにはいられない雰囲気を身に纏うくせに、足取りを決して掴ませない。それでも大体人斬りの己は人の気配を察せずにいてどうする。
「煙たいでござる」
「気合でなんとかしろ」
 そう淡々と言い再び煙を、しかも堂々と部屋の中に吐き出した高杉に万斉は愚痴やら何やらを溜息に包んで零した。
 コンコンと落とされた灰が流れるのを目で追いながら、瓦葺の屋根の連なる外を眺める。
 薄闇に包まれていく中で町は万斉には静まると同時に騒ぎだすように思えた。寝入っている親子の隣での宴会。屋台のおでん。夕暮れ時の河原。そんな他愛もない日常を想像しようとして、そこで初めてそういえばそれは自分に縁のない世界だと万斉は思い至った。クルクルと回り続けた観覧車が錆びて動かなくなりとうとう止まった瞬間の、そんな懐かしいような、待ち焦がれていたような覚醒である。今まで縁のあるものではなかったし、これからもないだろう。知りもしないものを欲しいとは思わない。例えばそれが天人の来る前、車なんぞ知らなかった人間のように。これこそが下らぬことではないか。
「しかしそうでござるな、おでんが食べたい」
「あ?」
「いや、煙草臭くて作曲にも集中できない故、散歩がてらにおでんでも食べてくるでござる」
「そうか?つまんねェ野郎だなァ」
 コートに袖を通しながらそれなりに本気で言ってみるも、それでも面白そうに高杉はクツクツ笑う。お前は下らない世界の中の一瞬一瞬を憎みながら嘲りながらもそんな矛盾な状況を実は中々楽しんでいるのではないか?と詰め寄って問い出したいほどの他人に対して皮肉を込めた笑いである。楽しんでいるなど、そんな筈はないのに、だ。
「つまらなくて結構。お主はあの夜兔のガキとでも戯れていればよいでござろう」
 江戸に行く。そう告げた後にお前らも来い、と振り向いた先はあの馬鹿提督と片腕の部下だった。京の屋敷で寒椿が散り始めた頃だ。八重咲きのこの花は花弁を一枚ずつ散らせる。風の中で迷いに迷い、紅い紅い花弁が雪に埋もれる。それが高杉の横を掠め、一瞥を寄越した彼の目は血霞かのように見えた。ああ鬼兵隊は…行きたければ、ついてこい。
 言うならばその時かもしれない。万斉が、おや、鼓動が違うと気付いたのは。例えばまた子は快活な紡ぎ歌である。何が起ころうと回り続けるそれだ。人が生きようと死のうと、生かそうと殺そうと、回り続ける糸車に歌い続ける紡ぎ歌。どんなに音程が変わろうとも元の主題は変わらない。なのに微妙に主題が変わった気がする、高杉は。何から何に、とまでは分からない。たださっと影が横切ったような、そんな些細で心地悪いとは断定できない違和感。
 いやいやこれから拙者は散歩に行くのだ。おでんを食べに行くのだ。頭から埃を被ったような重い思考を振り払う。おでんだ、おでん。そう思い、万斉は思わず止まっていた手でコートの釦をとめた。
「そうさなァ、それもいいな。万斉、出る前にあいつに声掛けとけ」
 だからもう行けとでも促すかのように高杉は悠々と煙管を吸った。この臭いは果たして消臭剤で消えるかどうか。そんなことを思いながら、万斉は三味線を背負った。
 扉を開ければ風が吹く。ひょう、と冷たい、冷たい風が戸を叩く。それになんだか背がひやりとして、わざと音を立てて扉を閉めた。怖いとは、なんだ。人斬りの自分が言ってどうする。

 空が白い。
 日が沈んだ直後、空は群青色に染まる前に白になる。青い空に赤が滲み始め、そこからいきなり色を抜き取った白。
 そしてあの匂いだ。若草のあの匂い。春と戸惑わせるあの匂い。
 家に帰る途中であろう子供達の駆け足に似合う泥臭いくせに清々しい匂い。子供とはこうあるべきものなのかと思案する。何、おでんの屋台に着くまでの空腹を紛らわすためだと万斉は自分に言い聞かせた。お通の新曲はやはり童謡でどうだ、とも思ったりする。何よりも、自分のあの上司にも、腹を空かせて家に駆け戻る時があったのかと、ふと想像してみた。
 メタルも鎮魂歌も、ましてや無音の境地など似合わぬ魂であったのだろう、きっと。ほら今、河原で滑った子供を思わず大声で笑ってしまうような、そんな昔があったに違いない。別に万斉は高杉を知りたいわけではなかった。ただあの坂本が高杉に与え得る影響というものを考えていて、しかしそこまで思いつくと万斉はいやいやこれは考えまいと決めたではないかと頭を振る。高杉を知りたいわけでも、坂本を知りたいわけでもない。ただ自分とは違う。そう感じただけだ。
 闇もじきに訪れよう。灯火は一層明るくなる。
 ぽとりと、何気なしに眺めていた前を走る子供の一人が手袋を落としたことに気付く。淡い黄色と碧と見紛う水色。少々形が歪なそれは母親が編んだのだろうか。
「おい、」
 主、と言いかけてこれは少々違うと思いとどまる。そこの子供、でも男の子でも妥当ではない気がするしここは何と声を掛けるべきだろう。子供の背が遠くなっていく。走っていくべきか、それに値するか。
 サーッと風が水辺の草を、水面を撫でていく。
「おーい!」
 ふと隣から声がしたのだ。子供らの去っていく方に呼びかける声が。
 聞いたことのないそれにはっと振り返れば右後ろで手を振る長髪の男。夕闇の中もあってか、年齢が分からぬ。全く今日はどうしたというのだ、と万斉は片方の手袋を手に項垂れた。高杉はまだ良いとしよう。それなのに普通の人一人の気配にも気付けなくては、人斬りの名が聞いて大笑いする話じゃあないか。何ともあれ、男の大声に一斉に子供が振り返った。
「落としましたよ!」
 一人がすぐに懐の中を探り回し、また万斉を見るや否や全力疾走といった体で走ってきた。
 ほら、渡してください。隣からそう囁かれる。顔を見れば人の良い笑顔。止まった子供が見上げていることに気付き、万斉は片膝をついた。湿って冷たい土と、潮の匂いが鼻につく。
「落としたでござるよ」
「ありがとう」
 冬の蠅の如く弱々しい声色で応えたのは大人の方があまりにたどたどしい手付きで手袋を渡したからである。それを懐に突っ込もうとした子供を、先程の淡い色の髪をした男が、「懐に入れてはまた無くしますよ?付けた方が温かいかもしれませんね?」と微笑み、子供はただ操られているかのようにこくりと頷いた。まだかー?との声にまた走り戻っていく背中を見送りながら万斉は思った。不思議なものである。
「不思議なものですね」
「はい?」
 不意に話しかけられ万斉はそのまま聞き返した。風が少々、強くなってきている。そろそろ熱いものを腹に入れたかった。
「あんな子供が、そのうち大人になるということは」
 穏やかで、決して大きいとは言えないのに、耳を傾けずにはいられない声だ。
「そうでござるな」
「ええ」
 それでは、と別れたい反面、足がごちてどうしても動かなかった。どうした、拙者は世間話をしに船から降りたわけではござらぬ。晩飯を食べに来たのだ。おでんを食べに来たのだ。ようよう話をして正体をばらすために来たわけではござらんよ。
「散歩ですか?」
 そう聞く男の赤い襟巻に目が行った。これも編んだものだろうか。安っぽい。けれども似合う。落ち着いた薄い色の中に一点の鮮やかな色調で、合わないように見えるのに妙にしっくりときた。年齢を見ても、三十と言えば納得で、六十と言われてもはぁそんなものかと頷ける。そしてなんとも例えられぬ、ただ心地よいということは断定のできる香の香りがした。少しだけ甘い、懐かしい匂い。嗅いだことなどないはずなのに、懐古する価値もない昔が蘇る。もはや先進技術に浸食されたとも言えようこの国が戻ることのできないたった数十年、十数年前の山と海との香である。
 漂然とだが、この人の鼓動を、魂のリズムを知りたくなった。古典か、ブルースか、ジャズか、まさかのロックか民謡か。はたまた一つの曲調には定まらないものか。
「夕食がてらの散歩でござる。おでんで申し訳ないが、ご一緒にどうでござるか?」
 自分は一体何をやらかしているのだと万斉は言った直後に後悔した。しかし既に口を出て行った以上、もはや何を持っても追い返せない。指名手配になっているだろう自分が一見の他人を飯に誘ってどうする。

 朧夜である。
 薄く伸ばされた雲の向こうに見え隠れする月は満ちていて、いつもより大きく見えるそれが無性に不安を煽った。大きい月というのは恐ろしいもので、これがもし赤味がかっているならば尚更だ。その晩の月は凍てた霜のように、触れれば砕けそうなほど寒々しかった。
 もくもくと立つ湯気の向こうに屋台のオヤジの禿頭が際立って見えた。
 薄暗い港町に灯火が数十、屋台が七八、客が二三に店主が一人。一方的に切り出したのは自分なのに万斉は黙々と大根を齧っている。真冬の熱燗が五臓六腑に染み渡った。
「やはり寒い日に熱いものは効くでござるな」
 オヤジ殿この人にも熱燗、と頼み、手探りに無難な話題を振ってみる。風が屋台を通り抜けるように吹き、「お」「で」「ん」との暖簾が宙を浮く。顔に掛かった髪を後ろにまとめながらその男は全くそうですねと相槌を打ち、こんにゃくを頬張った。
「一緒に住んでいる方々が今日仕事みたいで、話し相手が見つかってよかったですよ」
 と、だしを啜りながら言うもので、目は前髪に隠されていたが、下から窺ってきていることは分かる。人工的な光の元では薄茶とも灰鼠とも取れる髪の色だ。それが暖色系の明かりに当たり、ほのかに蜂蜜色を呈している。大根を咀嚼しながら湯気越しのその髪を万斉が眺めた。そこまで初めて会う人に喋ってもいいのか。いや、喋ってもいいのだろう、普通は。どうも今日は枝葉末節について考えすぎる。いや、これは何においての枝葉末節なのだろうか?いやいやそもそも、その考えも頭を使うだけ無駄ではないか。
「なるほど。お主はここの人でござるか?」
「いえ、江戸の中心から散歩してたらいつまに港に着いてました」
「そうでござるか」
 それはどうやってだとか、何故、だとかはいらない。ただその事実にすんなりと納得できる。それは万斉が今まで会ったことのない類の人で、高杉とは違うが、人を引き付けた。例えば高杉は月さえない夜の光で、蛾はそれに集うことが本能に刷り込まれているとするならば、この男は思わず踏み入れたくなる木漏れ日のようなものかもしれない。まだ会って間もないが、とことん夜には不相応な人だ。故に陽の下で、この人を見たい。
「面白い世の中になったものですね」
 感嘆するようにも、嘆息するようにも取れる言葉が白い吐息と共に漏れいずる。
 それが蔓のように、
「面白きこともなき世を面白く…」
 言うつもりはなかったのだ。するりと口ずさんだのは思ってもいなかった句。唐突なことで男がわずかに目を見張ったようで、万斉はいや、上司の句でござると弁解した。
「下の句は?」
「できてないでござるよ」
「できたら、教えてくださいね」
 名前も連絡先も何も分からない。ただ伝えられるのではと、そう信じさせるのがこの人の見えない引力のようなものではないか。承知したでござる。ただ、
「しかし、いつまで経っても下らぬ世界でござるよ」
 すると今度ばかりその人は驚いたような表情になり、それから至極自然に微笑みを浮かべた。
「もし貴方の考えが変わる日が来ても、私に教えてくださいね」

 甲板に流れ込む風は相変わらず潮に土気を帯びた草の香が混じっている。突き刺すような月光が届く中、春だと勘違いしてしまいそうな、そんな風。それに逆らうようにして、船頭から近づいてくる高杉が紫煙を吐く。
「で、どうだったんだ、おでんは」
「晋助、」
 すれ違う瞬間に万斉は反射的に高杉を呼び止めた。自分が何故このようなことに気を留める。気を留めてどうする。しかしただ、高杉から同じ匂いがしたのだ。遠き日々に過ぎ去りし山と海の香が。春と嘯く若草の匂いが。
「いや、なんでもござらぬ」
 あの人と、同じ匂いだ。



 

 ほろりと匂いがした。嗅いだことが有るか否かは定かでない。思い出すには時が経ちすぎた。それはただただ、懐かしい。




――――――
高杉さんが先生の使っていた香を使い続けていたら、―――...。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -