焼失点 十五 | ナノ



 十五.


 その人と目が合った時、沖田は団子の串を回していた。串にはまだ団子が一つ、引っ掛かるように残っている。竹の縦に細やかに割れた筋が指を通して伝わってくる。それが楽しくて、くるくると回していた。
「旦那」
 呼ばれている。何となくそう分かるけれども、鮮明に感じる感触がもったいなくて、反応するのが煩わしい。空気は澄み切ってきっとどこまでも広がっていけそうだ。冷やされた串を撫でると少しだけ背筋を正したくなった。
「沖田の旦那」
 再び呼ばれる。初老のわずかに震える声は常連の茶屋の店主のものだ。小柄な彼は沖田の頭一つ半よりも低い。店主の白髪の混じった薄い頭に振り返った。
「なんでぃ」
「いや。なんですか、それ」
 地面に転がっている物体を控えめに指差す店主の表情には対応の仕方に困っているという風体の苦笑と呆れ。この光景を見るのも一度や二度ではないので再確認といったところだろう。沖田は物体を一瞥する。
「あぁ、それですかぃ」
 喉の辺りを転がすように笑いながら答えようとして振り返った時に、その人と目が合ったのだ。
 陰鬱な目であった。穏やかな水面の下で妖の開く宴のように縹渺とした然である。どこか見慣れていた。
 誰だろう。回らない頭で考えを巡らす。
 誰だろう。
 ここ数日のことを回想し始めると共にそれまで閉ざされていたように遠く朧げであった音が耳になだれ込んできた。時の流れをゆっくりと感じる武州とは違い、江戸の町はうるさかった。それは時に心を掻き乱し、時にそれを昂らせ、時に安堵を与えまた時に冷々とした恐怖に落とす。そんな喧騒の中心に、透明な空気を突き抜けて差し入る日の光を反射する、銀色が視界を掠めた。貴金属の銀と言うには鈍いその色彩は魚の使う擬似餌のように跳ねる。視線を交わした人は彼が旦那と呼び慕うその男ではない。しかし近い。沖田の足は自ずとそちらに向いた。
「ちょ、旦那?」
「あーこれ、ウチの姉(あね)さんの飼ってるペットでさぁ。じゃ、これはいつものように土方の付けで」
 むかつくほどの晴天だ。

 談笑にしてはいささか暴力的な交流を交わす万時屋三人は沖田に気付いていない。能無しの雑用眼鏡やら給料上げろこのマダオやら食欲を抑えて食費を減らせやら口々好き勝手に喚く彼らはそれでも楽しそうだ。
 視線をずらせば一歩離れた所に男が佇んでいる。目の合った男だ。なるほど彼なら知っていた。聞けば彼は銀時の恩師だそうで、つい先日会ったばかりだが非常に興味をそそるものがあったのだ。しかし幻のようだということが印象的だっただけにならば先ほどのあの憂愁たる感情を滲ませた面影はどこに消えたのだろうか。
 彼は己の教え子とその家族同然の従業員達を眺めていた。日々が波乱万丈で、けれどもその全てが織り成す平穏な幸せを見つめていた。しかしその吉田という先生は目にその情景を映していながら捉えていない。遠くを見ている。どこか知らない遠くを真っ直ぐ見ている。群衆をかき分けたその更に奥、天人の傀儡となった江戸の町全体を見据えていた。見透いていた。瞬いた刹那に彼は靄の様に雲散してしまいそうで、沖田は軽く会釈をしたその先生に足早に近寄った。
「旦那に吉田さんに眼鏡。よく会いますねぃ」
 立て板に水の勢いで続いていた三人の口論が一段落したところを見計らい、沖田が軽く手を上げる。声に我に返った新八が振り返り、今業務中だろうけど明らかにあんた仕事してませんよね?としっかりツッコミを入れた後に、あ、沖田さんおはようございます。律儀に挨拶をした。
 おう、総一郎くんおはよ。総悟です旦那。おいこらサド!私への挨拶はどうしたヨ?おーチャイナいたんでィ?テメェッ!いつものルーチンワークに突入しようと沖田が構えたところで懸命な新八が割り込んでくる。表情がマジである。つまらないと舌打ちし、串を歯に挟んで両手をポケットに突っ込めば神楽がなんで止めたネ!と新八を殴り倒していた。
 いつものことだ。
 いつものことなのに、懐かしくて仕方がない。例えばそれは愚図って姉に慰められた時だったり、丁度その時に土方が来て涙を堪えて存分に張り倒してやった時だったり、反対に頭に手を置かれた時に見た悠々と浮かぶ薄い雲の茜色である。そんな安物の使い切りカメラで撮った写真のような日常が懐かしくて懐かしくて仕方ない。
「沖田さん、でしたか。こんにちは」
 朱色に染まった脳内に届いた柔和な声は今まで触れて来なかった類のものだ。緩慢としたわけではないが包容力のあるそれは彼の年齢を推測させない。
「数日ぶりでさァ、吉田さん」
 おや、名前を憶えていたんですね。松陽長い髪を僅かに揺らしながら少し声に出して笑う。薄っぺらい見栄も何もこの人の前では無駄な気がして、そっちこそ、と返した。
「ええ、新八くんがさっき言ってましたからね」
 それで思い出したんですよ、と面白そうな彼はふとした瞬間年下だと勘違いしてしまいそうだが、同時に子供の自分が大人に見た落ち着きも漂わせている。
「話の腰折って悪いけどさー、」
 肩に掛けられた指に視線をたどらせれば沖田の足元を示す銀時がいた。新八と神楽もそのものに目をやる。道行く人が遠巻きにそれを眺めて気味悪がっていた。ぎこちなく新八が口を開く。
「沖田さん…街中で死体引っ張り回さないでくださいよ」
「…分からねぇかぃ?近藤さんでさァ。お宅の庭から回収してきやした」
 土方のヤローがサボってんなら連れ戻して来いって。ザキは出てるし、使えねー奴でさァ。
 途端に納得した表情の三人が面白くて、人知れず口端を上げた。傍で反応出来ずにいる松陽が乾いた声を零していて、
「吉田さんはまだ姉さんに会ってないんですねぃ」
「お妙さん…ですか?ええ、まだ」
 おそらく話には聞いた新八の姉と、今現在目の前にいる近藤の状態との関連が結べないのだろう。姉御は強いからナと誇らしげに胸を張る神楽にへぇ、と相槌を打っていた。新八が不安を隠せないように身を乗り出す。
「でも沖田さん、今から姉上のとこに行くんですけど危ないですよねこの状況」
「それは本当か?!いけない!お妙さんの安全はこの近藤勲が必ずお守りいたしますから!待っていてください!!」
 這いつくばっていた近藤がどこぞのアニメーションさながら足を車輪のように回転させながら疾走して行った。全員の生暖かい目がそれを追う。
「…あー眼鏡の家に行くんですかぃ?なら姉さんの機嫌はもとより、特に旦那、気をつけなせぇ。メス豚が今日は銀さんが来る気がするわ!って壷の中に隠れてやしたから」
 マジでか。マジですぜぃ。
 それは困ると頭を掻きまわす銀時にまるで掻いてもどうせ何も出ないネとでも言うように一瞥をやった神楽が沖田に向いた。あ、そうそう。顔をずいと近づけてくる。
「ツッキーが言ってたアル。近頃お前らが吉原で嗅ぎまわっててウザいって。なんだヨ。○○7気取りアルカ?」
 詰め寄る神楽を鼻で笑ってやる。鼻に皺を寄せて機嫌を損なう彼女は分かりやすくて、躊躇などしてはいなくて、羨ましくも疎ましくも思った。
「嗅ぎ回ってる?知りやせんよ。そういうのはザキの仕事ですからねぃ」
 んじゃ。団子の串をひょこひょこと上下しながら肩を掠めて通り過ぎれば神楽の罵声が聞こえる。愉快だ。

 住宅街と小さな商店街が全てを占める町で沖田はぶらぶらと歩いていた。一応巡回という名目なので形ばかり周りに視線を巡らせていた沖田はそこで確かにその男を見た気がしたのだ。
 沖田は馬鹿馬鹿しい騒ぎは嫌いではない。祭りなどは好きな方だ。故に何も起こらない長閑な場所はふとした時に感傷を誘うこともあるが、大抵の場合は退屈そのものであった。それが今月の沖田の担当区域であったのだが、つまらない。何がと言われても答えられないが、沖田はつまらなかった。何がと聞かれて答えられないからこそこの途方もないつまらなさが生まれるのかもしれない。
 掃除洗濯買い物子守、仕事出張開店掃除記録、通学勉強運動交流。人々が成すべきことを成し、余りにも単調な繰り返しの中に鬱憤や喜びや怒りや悲哀や楽しみを見出しているのを一人の傍観者として眺めていると、白い白い、少しだけ黄色い気体が腹の中を循環しているような感覚に囚われる。出口はなくて、されど入口もない。最初からそこに存在している霧のようなものは逃げ道もない。古いものは消えないし、新しいものは現れない。だからこそそれがつまらない。
 その名を付けることのできない感情を伝えられないことで言い知れぬ焦燥に駆られる。その焦り自体まだ子供の証だと思う。そう分かっている自分にも沖田は腹が立った。
 土方弄りもできない…いや、確かに土方は気に食わないがそれは空虚さを埋め合わせる方法の一つであって、今頃自室で書類に筆を走らせているだろう上司を思い浮かべて、沖田はいい様だと心ひそかにほくそ笑んだ。
 唐突に沖田は子供のように人の目を気にせずに叫びたくなる。けれども己は大人になりきれないこどもであって、こどもになりきれない大人であったから、何もできなかった。

 日差しがよく、河原で一眠りしようと両腕を伸ばした時にそれは眼界を掠めた。

 装飾的に言えばアンニュイ、な町で沖田は羽ばたく蝶を見たのだ。己の行く先も、行く末も、全て赤で彩らんとする、それを。
 一足早く出た紋帰蝶だと眩む頭で錯覚するほどには男の動きは飄々としていた。冬の蒼穹は冴え冴えとしていて針葉樹さながらいっそ刺々しい。それに溶け込むように男の醸し出す雰囲気は決して蝶のように悠々としたものではなく捕食者のそれだったが、誰も気づかない。商店街のオバちゃんも、買い物の主婦も、散歩の爺さんも、誰もその男の異質さに気付かないくらい、彼は堂々としていた。
 笠を深く被り、長ドスを腰に差し、そして何よりも蝶を散らせた極彩色の凝った着物はもう私は堅気ではありません、事情聴取をして下さいと自ずと示しているようなものである。
 弾かれたように沖田は跳びあがった。男を追い、入ったのは裏路地。一通り地図は頭に叩き込んであるが、地の利は非常に宜しくない。曲がり角で耳を澄ます。音を追う。うるさい。周りが煩い。務めて静かに距離を縮める。男は止まる気配もなく進んで行った。曲がる場所は不規則で、方向性が全くない。
 魚屋との値段交渉が聞こえる。鱈を何匹買うからいくら負けろだのなんだの。それに苛々する自分に気付いて、沖田は意識を男の足音と衣擦れに戻す。支給されている通信機を懐から取り出した。
 数段も日の光が遮断された建物と建物のひしめく間を縫ったような道を右へ左へと追跡する。現在位置がかなりあやふやにしか把握できない。ただひたすら足音を追い、右、左、と道を頭に焼き付けた。歩く時に男は草履で地面を擦る音を立てる。ザッザッと続いていた音が俄かに止まった。咄嗟に沖田も止まり、相手の動きを待つ。しかし動く様子はない。酷く遠くから、まるでそれは別の世界での出来事のように、そこはかとなしに値切り交渉に勝った百戦錬磨の主婦の笑い声が聞こえた気もする。しかし、唯それだけだった。
 ところが豁然と足早に彼は沖田に近づいてきたのである。左右に目配せする。小道はどこにでもあるようなのに、どこにもなかった。
 男が曲がる。突如にして溢れ出るのは抑えようともしていない殺気。顔の左半分を覆う包帯の病的な白さが残った右目に灯る獣にも似た光輝を一層際立たせる。その鋭い隻眼と、目が合った。
 遊ばれた。そうと気付くまでに時間はかからなかった。
「…ッ高杉!」
 切った鯉口に抜いた太刀。どちらのものにしろ血を見ることは免れないと斬りかかろうとしたところで彼はすぅと流れるように目を細めた。自然体で何もしていない。斬ろうと思えば切れるし突こうと思えば刺せる。しかしその酷薄にせせら笑う表情が刃となり迫ってくるようで、一歩踏み込んだ体制で沖田が固まった。
「気配、消しすぎて逆に目立ってたぜ」
 高杉が後退する。路地を出ようとする。背中が見えない。視線だけがいつまでも交わる。
 だからヅラ如きにも手こずるんだよ。そんなんじゃ捕まえられねェぞ、幕府の狗。

 数時間前のあの和やかさは、あの退屈はどこへ行ったのだろうかと、沖田は笑いたくなった。
 こんな連絡を沖田は聞いていなかった。近頃は完全に息を潜めていたが、周りは絶えず監視の網を張らせていたはずだ。彼が直々江戸に出てくる兆候も誘因もなかった。なのに男は一人でいた。鬼兵隊総督の高杉晋助が、江戸に来ていた。
 屯所の扉を蹴破るようにしながら踏み込み、声を爆ぜる。
「山崎ィ...!出てきやがれぃ!」
 これは屈辱だ。そして挑戦でもある。喧嘩は売られなくとも買う主義である。
「…受けて立つぜィ」
 ポケットを探ればいつの間にか突っ込んでいた串があった。くるくると、沖田が無表情でそれを回していた。背筋の痺れるような冷たさからは程遠く、握ると温(ぬく)かった。



 





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