焼失点 十四 | ナノ



 十四

 吉原の朝は夜の活気の名残もなく、静かだ。
 雪後の湿り気を帯びた冬の風が着物の袖を揺らし、吹いて過ぎていく。積もった雪の重みに耐え切れずにしなる、まだ蕾も付けていない枯れ枝は酷く儚いものに見えた。
 紫煙が寒空に溶け込んでいくのを目で追いながら月詠は近づいてきた喧騒に雁首を弄っていた指を止めた。極彩色の煌びやかな衣を纏う遊女が十数人群がる中、いささか恐縮している少年と、満更でもない少女と、そして騒ぎの中心には悪態をつきながら面倒くさそうに欠伸をかます男。月詠は溜息を一つこぼし、背を預けていた壁から離れた。
「随分と人気者じゃな。焼け野原が」
「は、羨ましいか?」
 存分に皮肉れば、にやりと勝ち誇ったように大人気なく薄笑いを浮かべられる。別に、と淡々と返せば興味をなくしたように相槌を打たれただけだった。
「ツッキー、久しぶりアル!」
「月詠さん、お久しぶりです」
 声を掛ける神楽と新八におうと返事をし、先程から気になっていた人に視線を向けた。何を喋るでも、またはオドオドした様子もなく、ただ淡く微笑みながらまるで芝居でも観ているように繰り広げられる会話を眺めているだけの人だ。
 これまでこの万事屋が連れてきたり付いてきたりしてきた者は多々あるが、総じてアクが強いというか、個性的で、しかしこの人はこの上なくまともに見えたのである。まともなことを違和感として感じるのもおかしな話ではあるが。
「して、この方は何方なんじゃ?」
「で、何で俺達を呼んだんだよ?」
「先に答えなんし」
「いやいやこう見えても銀さん忙しいのー、目的を教えて貰わなくちゃ、目的を」
 いけしゃあしゃあとほざく銀時にいや、あんたはパチンコ店で惨敗するのに勤しんでるだけだろ、と真面目な万事屋眼鏡が温度のない声でツッこむ。
「まぁ、真冬に外で立ち話もあれじゃ、中に入りなんし。日輪と晴太も待っておる」
 ぬし等も速く持ち場に戻りなんし。一喝を入れ、散れる百華を傍目に月詠は『ひのや』の二階へと上がった。階段の端でちらりと後ろを見やれば長髪の男は相変わらず新八に神楽に、そして何より銀時にそれこそ親のような眼差しで微笑んでいる。その表情に遠い昔のこととなったはずの、例えば難しい技を成功させた時に破顔一笑する師の顔が見え隠れして、月詠は無性に腹が立った。

「幕府の狗が嗅ぎまわっているんじゃが、なんとかせい」
 煙管の灰を竹筒に落としながら淡々と無理難題を押し付けた月詠は、悠々と先程日輪が差し入れた茶を飲みながら反応を伺った。
 廊下で晴太を軽くあしらい五人は月詠の私室にいる。化粧台には太夫として最低限の化粧品がいささか雑然と置かれ、それ以外は殺風景ともいえる程もののない部屋。『則天去私』。達筆な字の掛け軸が床の間に掲げられている。渺々たる天地自然にちっぽけでつまらぬ己の身を委ね、世の成すままに生きる。我が身を捨て、ひたすら日輪のために吉原のために駆け回る己からはまだ程遠いかもしれない。これは滅私奉公だ。月詠自身、そう思った。
 そんな生き方を全うしているのはどちらかと言えば目の前の飄然としていて尻尾の掴めない男であると、思考だけがずれて行く中、月詠はこれでもかと言うほど「はぁ?」と唸る銀時にで、と続きを促す。
「真選組とは知らない仲でもないけどよ、捕らえるも見逃すもお宅ら次第でウチとは関係ないでしょ?なんとかせいって、できねーよ」
「それにしても何で、百華で干渉しないで僕達を呼んだんですか?」
 新八が身を乗り出す。その口調に棘はない。ただ少々苦笑が混じっていた。あのサド野郎アルか?今すぐこのかぶき町の女王が叩きのめして来るアル!銀時を挟んだ隣ではさっそく神楽が意気込んでいる。何事も至極単純に考えて突き進む彼女を子供だなと宥める同時に、そんな猪突猛進さを羨ましくも思った。
「地上とここでは別世界じゃ。上の権力が吉原では通用しないのと同じようにここでの肩書きも地上ではこどもの戯れでの位と大差がありんせん。ここは上では勿論、下でも顔が広い万事屋にって日輪が言うんでこうなりんした」
「ってオイ!日輪の策かよ百華の頭の意見じゃねーのかよ!というか万事屋はただのなんでも屋なんですぅ!これでも電話帳に乗ってるんですぅ!上でも下でも権力がないんですぅ!」
 法律すれすれのことはかなりやってるけどな。自分もその法律すれすれのことに加担していることを棚に上げ、新八が指摘した。何というか、彼のツッコミは容赦がない。
「と、いうことじゃ。注意程度でもそれとなく振ってみるでも構わん。次からは傍観せぬと伝えて欲しいんじゃ」
 何せ吉原には吉原の掟がある。封建的、時には冷酷で、しかしこの地下都市を守りあるいは一つに絡める掟がある。それを侵す者ならばそれが如何なる人物であろうと、遊女であろうと客であろうと、百華であろうと権力者であろうと天人であろうと、容赦することはない。
 睨みに近い視線で真っ直ぐ見つめれば、呆れた顔をされる。そして笑われた。
 あ、似てる。
 表情も容姿も動作も全く異なるのに、絆とかそういう類のものが陳腐に思えるほど同じ空気を纏っていた。秋のほかほかした陽気と、刺すような風と、散る紅葉と、そしてそれに身を投げて包まれて泣き出したいような空気。秋は暖かいものだけれど、それは凍てる冬の前の最後の残光のようで、寂しい。夏が逝く。冬を経て、春が過ぎ、夏がまた回ってこようと、今年の夏はもう永遠となってしまったのだ。秋はそれを告げるようで、寂しい。そんな寂寥とした空気。
「いや、それでもウチはお門違いだって」
 やんわりと拒絶の言葉を吐くが、面倒くさそうに頭を掻く仕草は断りづらい時のものであると知っている。
「吉原の救世主様?」
「いやいやいや...ごまを擦っても何も出ないからね!」
 目を泳がせながら言う彼に向けられる子供達の目は冷たい。煙管の吸口に歯を立て、神楽に向き直った。
「神楽、今手元に酢昆布十箱ほどあるんじゃが...」
「銀ちゃん!男ダロ!男なら女の頼みは素直に聞いてやるヨロシ!」
「欲は怖いですねぇ」
 これまで黙り込みいい加減空気と化していた松陽が呟く。彼はいつでも陽だまりの中にいる。例えばそれは縁側で日向ぼっこをする老いた猫あるいは止まった独楽のように一瞬で永遠である。
 月詠は銀時が怪力少女に引き摺られるようにして出て行くのを見送った。
 障子を隔て、幾分和らいだ光が差し込む。『則天去私』の掛け軸を照らす。吉原の朝は静かだ。

「先生。救世主なんて、そんな大層なもんじゃないから」
 ふいに言われたその言葉に、自分の記憶では数年前のことでしかないあの日、自分が言ったことと重ねて懐かしく思うのは歳のせいだと松陽は決め付けた。
 救世主なんて、そんな大層なもんじゃないから。

――「先生なんて、聖職でもなんでもありません。教えたいから、教えるんです。ただの私のエゴですよ」

 彼は救うのだろうか。全く関係のない、ただ目の前にいた、という理由だけで。それが彼の意地なのだろうか。
 江戸の町は田舎と比べれば、忙しない。肩がぶつかり、頭を下げる。
「世を救う主ですよ。すごいじゃないですか」
「でもそれのせいで人が死んだ。惨殺された」
 銀時は松陽の隣に並んで歩いている。松陽を見ないのは照れているかもしれないし、言い出しづらかったかもしれない。
 背後でじゃれているというよりは一方が弄られている兄妹のような二人を目に留め、それと沈んで罪を告白するような教え子とを見比べ、松陽は可笑しくなった。笑いを含ませればなんだよと拗ねたように銀時が口を尖らせる。それには見覚えがありすぎて、更に微笑ましくなった。
「檻の獣は死を選んでまで、自由を求めます」
「自由の代償は大きすぎたんだ」
「自由の代償は大きいですよ。貴方も、私も、自由ではない」
 何かを縛り、縛られてこその人間じゃないですか。常識モラル世間体。そんな鎖がどこにも息づいている。だから、自由はない。
 例え無人島に一人であろうと、自然に縛られるのだろう。息するものしないもの、動くもの動かないもの、見えるものみえないもの、その全てに絡みとられて身動きなんて出来たものではないのだ。
「そっか...そうだな。やっぱり先生はすごいよ」
「それは、ありがとうございます」
 安堵したように返された笑みは決して透明なそれではない。透明というには濁りすぎた。返り血を浴び、汚れすぎた。それはどう足掻こうとこびり付いて取れることはない。けれども何かを知りそして乗り越えた者にしか堪えることのできない、息を吐き出すような笑みに松陽は安心した。
「センセーセンセー!」
 器用に人波を避けながら神楽が飛びついてくる。抱きとめれば、これから新八の家に行くアルヨ!弾んだ声で言われたものだから、そうですか、それはよかったですねと自分まで顔が綻んだ。
「ほら吉田さん、それしか着てないじゃないですか。ウチに父上の着物があるんで、丈が合うかどうかは着てみないと分からないけど、取りに行くんです」
 新八が説明する。嬉しそうに神楽も付け加える。それが昔、銀時の誕生日に秘密でプレゼントを用意したことを松陽だけに教えた時の高杉と桂と余りにも同じで、幸せというものを吸い込んだみたいに満たされて、でも自分がどちらに生きているか、松陽は分からなくなった。
「新八と話し合ったネ!」
「え、お前あれ話し合いだったのかよ駄眼鏡苛めじゃなかったのかよ」
「色々ツッコミ処はありますがとりあえず駄眼鏡ってなんだよ僕がいなかったらあんたこのボケの飽和する世界に一人放り込まれるんだよ捌ききれるのかよ」
「すんまっせん!俺が悪かったからツッコミをやめないで下さいお願いします!」
「謝って頼むくらいなら最初から貶さないで下さいよ」
「…チッ、いい気になって。ツッコミと雑用しか能がない眼鏡が」
「まったくネ。あたいに説教するなんて千年早いアル」
「何この裏返しの態度!ツッコミと雑用だけで十分じゃあぁァ!誰かさんのせいでこっちはそれでいっぱいっぱいなんだよ!というか千年経ったら死んでるから!」
 なんだかとても楽しそうにこの一瞬を謳歌しているようで、だから周りの目など気にしていられないという風な活気だ。面白い人たちだ。
 松陽は少しばかり困惑した。自分が生きているのは、数日前の世界か、それとも今の十五年後と言われる世界か、分からなくなった。数日前まで教え子は子供だったのだから。世は変わりすぎた。それは取替えしようのない隔たりを経た者にしか分からないのだろうか。
 松陽の記憶が正しければ、銀時は決して喜怒哀楽をはっきりと現す子供ではなかった。むしろどこかで感情が抜け落ちたような様子さえあったと覚えている。彼がどのようにその乏しい表情を駆使し、己の気持ちを伝えるか松陽は知っている。
 数歩前をその松陽の記憶では感情を現すことが少なかった教え子が歩いている。その教え子に懐いている二人の子供とド突き合い漫才さながらの応酬を繰り広げている。
 変わった。変わりすぎた。
 それは自分が追いつけないのか、それとも彼らの時間が早いのか、分からない。
 水槽の中にいる。
 蒼く、紅い水の中を漂っている。歪んだ現実を見ている。ただ見ていることしかできない。硝子の隔たりがあるから。だから目の前にいるのに、会話しているのに、溶け込むことが叶わない。
 ゆっくりと渦が巻くように陥ってゆく。
 今朝だって、目覚まして最初に考えたのは授業内容のことだった。そういえば久坂さんとこの玄くんの風邪はよくなったかなとか、そういうことだった。
 己は生きている。けれど十五年間、死んでいた。いやしかし、自分はここに存在している。確かにいるのだ、十五年後の世界に、再び教え子と共に。
 半ば無理矢理引き摺り上げて、松陽は顔を上げた。見覚えのある洋装の人が視界を掠めた。沖田、と言ったはずだ。沖田総一郎だっけ?銀時たちは気付いていない。目が合った。


 晦





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