焼失点 十三 | ナノ



 十三.


 果たしてこういう男だったかと、坂本は思案していた。果たして人の心を見透かした上で、わざとそこを突いてくる人だったかと。






 細い街道は大通りの華やかさに欠けていたが、しかし整然としていて博徒や流浪人が屯する裏道であると安直に察してはいけないことが気配から伝わってきた。老舗の凄みというか、威厳のような空気がひしひしと肌に染み込むようで極自然に姿勢を正すほどだ。
 夕闇と言おうか。黄昏の光を追い込み包むようにして夜が訪れる。己の影法師が段々と長く濃くなっていくのを下駄を鳴らして歩きながら眺めていた坂本は看板も何も掲げていない、ただ扉だけが佇んでいる所で止まった。
 予定より二十分は早い。
 呼んだのは坂本本人だが、完全に坂本の意志であったかというと、そうではない。地球に、しかも京にいるのをどこからどう仕入れた情報かは定かでないが、桂は突き止め連絡してきた。いや、もしかしたら自分が零した情報かもしれないと坂本は今になって、思う。
「事情は俺から本人に伝えるからお前は高杉をその気にさせてくれればいい」
 その声が至極真面目であることはすぐに分かったが、隣にいた陸奥と思わず首を傾げたものだ。
「その気ってどういう気ながやき?」
「江戸に来る気だ。というか、俺達に会う気だ」
「ほれと事情とはなんじゃ?」
「まー色々だ、色々」
 言葉を濁す桂にあの三人の世界にはやはりどう足掻いても完全には入り込めないという事実が再び押しつけられる。坂本は彼らのような喪失を経験したことがない。姉も父もいた。継母であったが家族だった。幾年前の天災で父は他界したが既に坂本は成人を迎えていた。絶対的な支えを未だ幼い頃に突如失うこと知らないことは、故に完璧に溶け込めるはずさえなかった。
「わしがなんぼ説得しても理由がないのなら無意味ちや。」
「あー、そのあれだ。仇討ちとサプライズと言えばあやつは来る」
「仇討ちってどれじゃ?」
 それが死した人への弔いならそれに当てはまる人物が一人いることを坂本は知っている。しかし仇討ちはサプライズとは相反する意味合いな気がして、噛み合わない違和感が襲う。サプライズ、と軽やかで楽観的な響きを舌の上で数回か転がしてみた。
「それくらい察しなさいよ!」
 もう、空気の読めない子ね!いつの間にか口調が変わった桂に坂本もあはははは、あはははははは、といつもの馬鹿笑いで締めくくる。陸奥が馬鹿じゃ、大馬鹿じゃと吐き捨てたが、誰に向って言ったのかは分からなかった。
 会ってみたい、と切実に思う。彼ら三人が道を分かれてもふたたび顔を合わせたいと思えるようなきっかけの人物を。最初から叶わないことだけれども。
 扉を引けば、薄い光が漏れ出た。

 坂本には彼ら三人と出会う以前の三人のことはよく分からない。
 土佐と長州の軍が合流する時に初めて改まって挨拶を交わしたが、あんな世だ。その前になんらかの戦で背中を合わせた、なんてこともあるのかもしれない。坂本には分からないし、おそらく彼らもそんなことをわざわざ記憶に留めておくほどはしなかったはずだ。
 敵か味方か。戦場ではその事実だけが重要である。敵であれば斬るのみであり、味方なら斬らない。なんと単純なことか。国としての威厳だの個人的な報復だの、理由だの屁理屈だの、そんな細かいことなどどうでもいいのだ。色即是空。天道やら人間道やらからは程遠いのに、ここ以上にそれを体現できるところがどこにあろうか。
 とにかく、坂本は彼らをあまり知らなかった。少なくとも喪失を経た彼らしか知らなかった。
 真に国を憂い、しかしながらそれによって復讐の念を覆い隠そうとする桂。憎んだ先に何もないのを見て放心する銀時。そして怒りの矛先を天人だけでなく、幕府だけでなく、彼の人のいない、彼の人を奪った世界に向け、牙を剥き出しにする高杉。
 風が流れ硝煙に塗れる。傷を作りそれが塞がれまたは痕となる。仲間が死に仲間が抜け、仲間が裏切る。
 親しくなっていく中でこのような人ではないと坂本は気付くが、そればかりを見てきたのだ。彼らがどう純粋に笑い、泣き、怒り、悪戯をしてきたのかなど知らないのだ。
 かくいう坂本も段々自分が分からなくなる。帰省をした後に陸奥に血の匂いが濃いと眉を顰められ、誤魔化すために笑えば果たして貴様はこがな奴じゃったかと問われた。こんな奴ではなかった。違う。自分でもそう思った。しかしどこが違うのか見当も付かなかった。

 中にいざ、足を踏み入れた坂本は一瞬、私宅に間違って入ってしまったのかと勘違いした。宇宙を股に掛ける貿易会社の社長ともなれば接待などで最上級の店にも入ることは多々ある。しかしそこは豪華でもなければ絢爛とした空気も纏っていない。
 長い廊下が続いているだけなのだ。人もいない。突き当たりに堂々と、しかし落ち着いた色柄の軸が掛けてある。透かし鬼灯だ。薄い膜の透明感が、内に入っている酸漿のあまりに鮮明な紅さと対比する。
 胡散臭いと名高いサングラスを上にずらし、暫し見入っていた坂本は進まなければと目をそらす。刹那だけ、透かし鬼灯がゆらりと軌跡を残し、霞んだように見えた。曲がり角で、
「坂本様でございますね」
 女が、三つ指をついて恭しく頭を下げていた。
 頭の中が空であろうと、部下の尻に敷かれていようと、登場する度に毎回蹴飛ばされようと、全てをひっくるめて馬鹿であろうと、坂本は戦を生き抜いた人なのだ。気配には一際敏感である。それが曲がるまで、気付かなかった。これが暗殺であれば、即死しただろう。どこだここは。
「そうじゃが」
 ちらりと坂本は後ろに目配せする。からくり仕掛けや暗器の一つでも飛んでそうだ。しかし何もない。
「では坂本様。高杉様が既に待っておられますよ」
 もう来ているのか。予定時間よりはまだ早い。しかし高杉が指定した所ならばそれも当然だと思える。だがそれよりもこの女は高杉の名前を知っていた。普段なら過激と謂われようと酷く用心深い高杉は如何なる会合でも偽名を使うというのに、知っていたのだ。
「こりゃあまた別嬪さんじゃね。おりょうちゃんの方がええけんど」
 あはははは。もさもさの頭を掻き、坂本は笑ってみる。確かにおりょうちゃんの方が好きなのは本心だ。
「ご案内致します」
 流れるような動きで立ち上がった女は坂本には見向きをせずに先を進んで行く。やはり音はしない。
 女は墨染めの留袖を纏っていた。それがぼんやりと朦朧な灯りの中で闇に溶け込んでいった。首筋は細長く、薄光に浮き上がるように白い。そして歩調は緩やかだ。だがどう耳を立てても足音は聞こえない。ならば忍か。
 狭い屋敷に見えるのに、道は入り組んでいる。床にわずかな傾斜もある。右、左、右、左、と坂本は曲がった場所を確認していた。
 襖の前で女が止まった。中から覚えのある気配が薄らとする。高杉の気配が女よりも強いのならばこの女は何者なのだ。それか単に高杉は気配を消していないだけかもしれない。
「失礼致します」
 すぅ、と襖が引かれる。最初に目がとらえたのは町の点々とする明かりであった。いつの間にかこんなに高くまでのぼってしまったのか。それから煙の匂いが鼻を突く。桟に肘を預け煙管を吸っていた高杉晋助は動きを止めず、隻眼だけを廊下に向けた。煙管をクルクルと軽快に回している。
「遅かったなァ、坂本」

 喧嘩を、派手な大喧嘩をしたのだと坂本は聞く。
 麗らかな青空と噎せ返る灰煙はあまりにも不似合いだ。轟々と爆音を立てながら焔が全体に燃え広がり火達磨となった船が一つ、二つと、空と同じくらい澄んだ藍色の海へと消える。果たして一隻には何人の人が乗っていただろうか。何人の人が今も墜ちているのだろうか。
 蝶の飛ぶ紫の裾が翻る。ステファン、エリザベスと言ったか。その生物のパラシュートが緩慢と流れ漂うのを眺めている。
 なるほどそれほど大規模なものだったのか。
 それならば仲直りも容易いことではないと坂本はわずかに感嘆を漏らしてしまった。
 彼らは考えが違った故に袂を分け、道を違えたのだと聞く。
 いやしかし...坂本は時に思案する。考えは根本的に違ったのかもしれない。あんなにも三者三様な性格だ。同じことを思う方が珍しく、おかしくて坂本でさえも目を瞠るだろう。その違う思考で道を違えたのかもしれない。しかし坂本は思うのだ。彼らは別々の考えこそ持っていれども、決して別々なものを見据えていたわけではない、と。

「おまんはいられながやき(せっかち)がいけんぜよ」
 まだ予定まで十分はあるのじゃが。呆れ気味に坂本は言い、どさりと座布団に座り込んだ。酒が既に用意されている。京の町全体は見渡せるこぢんまりとした座敷は少なくとも五階の高さはあるだろう。夜風が吹き込み、髪を撫でる。
「危険を覚悟してまで俺を呼んだんだ。それ相応の事態はあるんだろうな」
「危険云々を説くのは窓をたって(閉めて)からゆうものやか」
 真冬で流石に外にいる者は少ないが、仮にも指名手配されているのだ。それにしても着流しだけの出で立ちは相当寒いのではないかと坂本はつい心配してしまう。高杉本人は気にした風体もなく、依然と紫煙を吹かしていた。
「どうなんだ?」
「それけんど、わしもよお分からん」
「はあ?テメェが分からないということは誰か分かってる奴がいるってことだろォ」
 怪訝そうに、あるいは見下したように高杉は眉を顰めるが、それでいて尚冷静に分析をする。
「...その人けんど、仇討ちとサプライズがあるから来いってゆうてる」
 先ほどの女が聞き耳を立てているのではないかと坂本が周りの空気を一層気にしながら伝えた。わしはよお分からなかったが、と付け足す。
 皓々とした月が出ている。風が強くなってきた。襖がかたかた、かたかたと不規則に揺れた。
「風が強うてかぁなわん、わしはひやい(寒い)よ」
「勝手に凍え死ね」
 ほがな馬鹿な...ぶつりと呟いた坂本に高杉は気持ち悪ィとだけ返し、不本意そうに窓を閉める。
 ヅラだろ。
 平淡と、まるで感情の全てが抜け落ちたように高杉が窓を引きながら、坂本を背にして言った。
 最後の一縷の光が遮られ、代わりに蝋燭の柔らかな炎に蠢く二つ分の影だけが閉じきった窓と襖に映る。揺らめく不安定なものが子供の頃に遊んだ影絵を彷彿させる。両手で犬を作り、試しに蝋燭の後に翳してみた。こうするのは何年ぶりだろうか。
 影遊びに興ずる坂本を見やりながら、高杉は酒をゆっくりと飲み干し、再び繰り返した。
「ヅラだろ」
 襖に映った犬の耳が、坂本の親指が不自然に固まる。
「まーそれなりに、専ら...ヅラじゃ」
「今更仲良しこよしする馬鹿げた提案は出ねぇと思うが...しかし仇討ち。それとサプライズ、か」
 クツクツと喉を鳴らして高杉が笑う。いやな笑いだ。いつの間にこんなにも皮肉じみた声で笑うことを覚えたのだろう。いつからこんなにも自嘲とも取れる、揶揄する喋り方をするようになったのだろう。
「仇討ちとサプライズなんて言葉を使うヅラも大分頭の螺子が外れかけてんな。大丈夫かァ?あいつの部下は」
 わずかに表情を弛め、面白そうに問うた。それに坂本は安堵を覚え、影遊びを再開させる。犬が吠え、炎の揺れにより形が絶えず歪み、変わった。
「ほりゃあわしも思ったちや」
「テメェほどじゃねぇけどな」
「高杉ひどいぜよ...」
 拗ねたようにみせる坂本に高杉は目を細め、わざとらしく眉間に皺を寄せた。煙管を弄んでいる手は指も手首も細く、今でもこれで刀を握っているのかと坂本は内心驚くばかりだ。相変わらず犬の形を作る己の無骨な手と見比べた坂本がこれが同じ男の手なのかと思った。高杉が片手で持っていた杯をコトリと置いた。
「で、ヅラの目的はなんだ?」
「江戸に来てもらえんかって」
 真っ直ぐ坂本が高杉を見据える。それを楽しげに眺めていた高杉は唐突に、いいぞ、と応えた。
「ただし二人、連れて行く。鬼兵隊は連れてくつもりはねぇが、そうさなァ。ついて来るかもしれねぇ」
「かまいやーせんよ」
 誰も一人で来いなどとは言っていないのだ。
 どこからもなく高杉が三味線を取り出し、構える。ペンペンと単調だが、重厚な音が部屋を包んだ。
「のう、高杉」
 影絵をやめ酒を飲み始めた坂本がふと尋ねた。
「おまんは後悔せんのか?」
「...坂本。後悔することは昔を振り返る余裕がある奴だけに許された特権だぜ」
 暫しの沈黙の後、高杉はあくまでも淡々と述べる。
「じゃけんどわしにゃ、」二つの濃くて薄い影が窓と襖に映る。その外は京の町を一望できるのだろう、強い風が吹いているのだろう。「おまんの行動の全部は過去に基づいちょるように思えてならんよ」






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