焼失点 十二 | ナノ



 十二


 久しぶりの安眠を貪った気がした土方が目覚めれば、まだ一時間半ほどしか経っていなかったことに驚く。障子を越して差し込んでくる光は東南の方角から来ていて、確かにまだ午前中だと納得した。
 存分寝てもいい日なのに、(土方自身もそうする気満々であったのだが、)嫌に意識がはっきりしていて二度寝を決め込むもできなかった。ならば成り行きに任せようと布団を片付け、縁側に出て初めて季節が冬だということを思い出す。それにしては日差しが温かすぎて、春を彷彿させたのだ。
 近藤は現場視察、沖田は見廻り。平和だ。これでそのうち近藤が志村姉にぼこぼこにされて回収しに行くようにと電話が掛かってきたり、沖田が公共器物を爆破したという記事が新聞で一面を占めたりしなければ更に平和だ。
 何を考えるわけでもなく縁側に突っ立っていれば現実に引き戻すように大雪の翌日に相応しい、身を凍えさせる風が撫でるように吹いた。そこで初めて、土方は何かすべきことがあったと思い出した。そうだ、万事屋の先生の吉田だっけか。名前を反芻しながら両手を袖に引っ込めて土方は早足に歩いた。
 庭は手入れなど最小限にしかしていないのに、乱雑な草の茂みから一輪、燃えるような赤い花が咲き誇っている。その色合いが赤くて紅くて、土方は思わず足を止めその周りから際立った色に見入った。
 学のある者が数えるほどしかいない真選組で資料室は屯所の片隅に位置する。入れ違いに山崎が両手にかさばる紙の山を抱えて出てきた。
「あ、副長、起きてらしたんですね」
 軽く会釈してお疲れ様ですと付け加え廊下を小走りで駆けていく。途中と足をもつらせ転ぶのを確認し、土方が資料室の扉を閉めた。

 カタリ。木と木のぶつかり合う軽い音が資料室全体に木霊する。それが聞こえなくなる頃には、心地よい静けさだけが漂っていた。
「...これは、」
 意識が遠のくとはこういうことなのか。焦りと苛立ちが心の奥底から噴き出るような感覚に駆られた。
 単純に『吉田』の欄を調べてすべての情報が得られるとは勿論思っていなかったし、時間を掛けるつもりでもあったが、まさかこれほど困難極まるものだとは想像していなかったのだ。
 壁一面に吉田姓の人名の資料がある。圧し掛からんばかりの量のデータがすべて吉田で始まるのはある意味壮観で、文字の羅列に酔いそうだった。これを一件々々細かく見定めるのは、結果的に吉田姓の著名人を異常に詳しく知ること以外、何の利もない。そもそも全てを読み終えたところでその先生が含まれている可能性すら危ういのだ。
 始まってもいないのに土方はこの己の好奇心から開始した調査の行く先を案じた。
 天井間近までそびえ立つ棚に整然と並ぶ背表紙の量に気圧されたのか押し寄せる焦燥感に身を任せ掌を近くに寄せた梯子に叩きつける。しばらくは鋭い音が室内を反響し、土方もまたその余韻に浸っていた。
 やがて掌がヒリヒリと僅かに刺すような痛みを感じ始めた時、痛みで平生の我に返ったのかは不明だが、その刹那ふと閃いたのは確かだ。
 真選組の保存する資料の中で「坂田銀時」の覧がないことは確定されている。いくら剣術が強くとも胡散臭い職業に就いていようとも一般人という肩書きを持つ限り登録されることはない。「吉田」という手掛かりも玉石混淆である。ならばもう一人、今朝いた者が存在するではないか。桂小太郎という悔しながらも自分達が度々取り逃がしている者が。
 桂の資料なら仕事の必要上、伝記が書けるほどの量はあった。そこから桂に縁のある吉田姓の者を探っていくのが壁一面の情報から調べることより遥かに効率的だ。
 急転直下浮かび出た解決案に先程頭を抱えていた己が急に馬鹿馬鹿しく思えてきて、土方は嬉々とした足取りで「や」行から「か」行で向かった。

 「桂小太郎」と背表紙に達筆な字で記された分厚いファイルを抜き取れば棚にぽっかりと大きな穴が開く。横に並んでいた資料が倒れそうなほど傾いていて、慌てて土方は空いている片手でそれを正した。
 扉を閉めてから廊下へ出ると山崎が未だに書類の束を抱えていた。先程より一回り小さくなっているのは量を小分けにして運んでいたからなのだろう。
 土方の姿を確認し、それから視線を片手に持った分厚いファイルに移した山崎は手を止め、
「副長、せっかくの非番なのに仕事ですか?」
 と、意味ありげに土方の顔を一瞥した。
 あぁ仕事だ悪いかと口から出そうになるのを押さえ、そういえばこれは仕事ではなく私用だと思い巡らす。
「いや、これから二度寝するんだよ」
「じゃあその分厚いファイルは枕なんですね」
「...そんなところだ」
「ほどほどにして下さいよ」
 書類をよいしょ、と抱えなおしながら溜息混じりに山崎が忠告した。心配するこちらの身にもなれ。それがありありと表情に表れていた。副長に倒れられては困るのは俺だけじゃないんですから、と。
「俺のことはいい。それより、」
 器用にポケットから煙草を取り出しマヨネーズ型のライターで火をつける。一口吸い、ゆっくりと煙を吐き出して土方が続けた。
「あの天人の件、早急に探り入れて来い」
「吉原付近のアレですか?」
 無言で頷くと、土方は山崎の隣を通り過ぎていく。すれ違いざまにとにかく早急に、と念を押した。それからはもう早足に、足底から染み込む冷気にわずかに身震いしながら自室へと戻って行った。
 空だけが嫌に快晴だ。触れば弾力のありそうな、可愛らしい綿雲が悠々と浮かんでいる。それには赤い花がよく映える。凍てつく冬には酷く不似合いに思えた。

 昼前。山崎は私服を着ていた。
 ぶら提げた袋にはアンパンが入っている。
 目の前を通り過ぎるのはただただ華やかしい雰囲気の人ばかり。煌びやかな着物を纏った遊女に端正な装いの男性。それと対比するように入り組んだ、薄暗い小道の端に座り込んだ乞食だけがくすんだ着物にぎこちなく包まれている。
 町民のような身なりに片手にビニール袋を提げた男は市街では溶け込んでもこの俗世からかけ離れた空間では異質であるらしい。よくも悪くも視線を受けていることは確かだ。
 一夜限りの享楽を求める男達の楽園でもあり地獄ともなり得る場所――地下都市吉原である。
 浮世は憂世と掛ける。表では明るく眩く華やかに光り、しかし暗がりでは辛く儚く、憂き多し世界。
 見上げた空は四角に切り取られている。
 地下全体が機械音に包まれ震えているようだ。
 そんな町の一角を山崎は歩いているのである。張り込みでもないのにアンパンを持参するのはそれが既に山崎の精神安定剤のようなものだからだ。パンを一つ取り出し、頬張りながら山崎はあくまでも自然な風体で脇道に身を滑り込ませた。

 吉原の諍いに真選組が直接手を出したことはこれまでになかった。長らく地上との交流を隔てて来た扉が開こうが自由になろうが、それでも地上の法で地下は縛れないのだ。例え幕府の重鎮であろうと吉原での規則を破れば皆等しく制裁が下りる。上の肩書きは下では紙屑に同じ。無断で干渉など許されはしない。
 しかし今回は話しが違う。真選組が地上で追っていた鼠が吉原に逃げ込んだのだ。
 真選組は幕府直属の機関ではあるが、かといって天人の犯罪を甘く見ることはない。副長の土方、そして各隊の隊長を含めほとんどは局長の近藤を慕っているから幕府に膝を着いているのであって、そして真選組は江戸の安全を守るために存在するのであって、それを乱すのならば天人であっても容赦はしないのだ。

 かくして山崎は今、路地裏にいるのだが、プロの監察である山崎をしても尻込みしそうな険悪な空気がその空間には流れていた。人影はしかし、見当たらない。耳に微かに届く密やかな声を辿っていけば話している内容まで聞こえるようになる。壁に背を付け、周りの雰囲気に溶け込ませるように己の気配を極限まで消し、そして掠れた中年の声に集中した。
「あ?いい加減にしろよ一ヶ月以内とか神サマでもできねーぞ...」
 しゃがれた声色の女だ。男勝りな口調からにして相手とは親しく、また商売の客ではないことが分かる。掠れた声は気管の損傷を示す。恐らく食べたものをよく戻すのだろう。拒食症に見られる症状だ。彼女は不満を露わにしていた。遊女の纏う色香だけではない、今にも爆ぜそうな荒々しい何かを秘めている。
「ならば神を越えるんだな。気長く待つ暇なんてない。一ヶ月で入り用なんだ」
 対して男の声からは感情が読み取れなかった。僅かな嘲りと冷笑と含んでいる。低い、しかし滑らかな声で、これで外見さえよければ彼は間違いなく遊女にモテる。
 感情と気配も押し殺した読めない男はその空虚さがかえって恐怖を招く。この男は遊女より格が断然上だ。なるほどあの不穏な空気は彼が醸し出していたのだと山崎は確信した。
「はぁ?つーか今この下の様子なんて五里霧中だぜ兄貴?」
 この下、と遊女が地面を数回トントンと蹴った。
 五里霧中という四字熟語を使う辺りすごいなと山崎が妙なところで感心する。
「誰がテメーの兄貴だ。とにかく一ヶ月だぞ」
「ちょ、ここじゃねーといけねぇのかよ?別の空き地にしようぜ」
「いい加減にしろ。地下だからここに選んでるんだよこちとら」
 男の怒りを孕ませていく声色の裏腹、山崎は冷静になっていた。脳内メモに大きく赤の太字で地下、と刻んだ。その下に線を二重に引き、更に丸で囲む。
 男女は争い続けたが、もはやそれは夫婦喧嘩のようで、弛みそうになった口元を慌てて手を押さえた。
 山崎はその場を後にしようとした。
 今回の密偵、天人の地球での犯罪に関わっている地球人の動向を調査する広範囲なものだ。一つの用件に深く入り込む必要はない。手にした数々の情報を駆使して吉原という檻を最終的には牢屋の大きさにまで縮めればいい。そしてその中に目星をつけた人物が入っていれば成功だ。
 砂利を踏む足が音を立てないように細心の注意を払いながら一歩一歩慎重に退いていく。しかし細道を抜けきる頃に気配がしたのだ…真後ろの曲がり角から。
 足音と共に、何か重いものを引きずる音がする。着物の裾のような軽い音ではないし、歩調と一致しているので何かの荷物でもなさそうだ。かといって血臭もない。ならば尻尾のような類のものか。そうであるなら天人だ。
 とりあえず隠れようと山崎はとっさに地面を蹴り低い建物の塀を越えようとした。瓦に手をつき、残りの半身を引き上げようと身を捩じらせるが突如訪れた重力に恐る恐る振り返った。
 足首を掴まれていた。
 しまったとその者の顔を見れば人間の男だ。男であるのに、襟から覗く襦袢が赤色だった。
 男の手が更に力を込め下に引けば山崎が塀から転げ落ちる。冷めた目つきの男は山崎から視線を離すことなく、じっと反応をうかがうようにして見つめている。
「何をしている」
 尋問するように平坦に発せられたその声は遊女と話していた男のものだった。
「えっと...屋根の修繕?」
 こりゃ面倒なことになりましたよ副長、と山崎は苦笑するしかなかった。

 土方の携帯電話が無機質な音で鳴る。ポケットに手を滑り込ませて取り出し、耳に押し当てると近藤の野太い声に混じって後ろの喧騒が伝わってきた。現場に赴いていたことを思い出す。
 トシ、と聞く近藤に、ああ俺だと応えればちょっと来てくれとのこと。
「ちょっとヤバイことになっててさ、今日珍しく非番なのに悪い」
 ちょっとヤバイというのはどういう状況か見当がつかなかったが、ともかく土方は手にしていた書物を置いた。続く、本当に申し訳なさそうな声色にほんの僅かにあった苛立ちが消える。
「どうせ屯所で調べものしてた。今から行く」
 すまん、と近藤は繰り返し、そして通話を切った。最後に穴を封鎖しろだとかが聞こえた気がしたが、それば現場に着けば判ることだ。人の歴史を了承なく掘り下げることにそこはかとなく背徳感を感じ、資料を目の届かない場所へ隠す。ツーツーと鳴る画面を見れば26秒と表示されていた。



 
 そしてその紅さに酔いしれ。




――――――
丹英:赤い、小さい花。




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