拈華微笑 前 | ナノ



 明かりを灯す術もない古寺の一室は、ただただ薄暗かった。
 一人分の規則正しい呼吸はその者が確かに寝ていることを示している。包帯が傍を囲むようにして散乱し、元々香の匂いしか染み込んだことのないはず部屋にはアルコールと血臭の混じった、なんとも言えぬ匂いが漂っていた。障子さえ開ければ夕焼けの、燦爛でありながらどことなく寂しさを誘う光が差し込んでくるはずなのに、その部屋の中はセピア加工でもされたかのように、まるで周りから取り残されたように、薄暗かった。
 カタリと、僅かな音を立てて引かれた障子に誰かが中を一瞬だけ、覗く。一瞬だけ、光が差し、そして刹那にして消えた。

「銀時は?」
 曲り角に差し掛かった途端に柱に身を預けていた高杉に一言、そう問われ桂は歩を止めた。
「ちゃんと寝ておったぞ」
「馬鹿言え。アレが人の気配感じてのうのうと寝てられるわけねェだろうが。狸寝入りだろ」
「さあな。それより高杉、貴様いい加減戦前に煙管吹かすのやめろと言っただろう。体力落ちるぞ…ついでに身長も」
 全くどこで喫煙なんて覚えてきたのだ。嘆いて見せる桂にテメーの行きつけの宿で教わったんだろ、と一蹴する。見せつけるかのようにまた一息深く吸い込み、緩慢とした動作で紫煙を吐き出した。
「落ち着くからいいんだよ別に」

 三人だけで行こうと言い出したのは坂本で、認可したのは桂で、この事は寝込んでいる奴には秘密だとしたのは高杉だった。
 のけ者にしているわけではない。倒れたのだから仕方がなかった。栄養失調に負傷。本来ならばしばらくは脱退して欲しいほどだが、主戦力である者、体力の限界が押しても許されない。というよりは、何より本人がそれを許さなかったからである。
 そして休ませたのはなにより、銀時なしでも自分達は戦えることを示したかったのだ。
 頼っていたわけではないが、少なくとも己の束ねる者達は畏怖しながらも白夜叉という存在に夢想を抱いていることは事実だった。そしてそれが過剰な期待であることも目に見えていた。
 その考えを打ち消さなくてはと思い至ったところで銀時が倒れたのは、もちろん災いを幸るわけではないがいい機会だと、少なくとも桂はそう言った。
 硝煙にまみれる戦場を包む夜空は青墨のようで密やかに身体に染みこんで行く。不思議と高揚が落ち着くのもおかしな話だが、闇はしかしそれほど澄んでいた。
 下から刀を薙ぎ払えば一拍遅れて天人の身体が斜めに裂かれ、それから血が噴き出す。一口天人と言ってもその種類は千変万化である。身体が小さくすばしっこいのもいるし、巨大な体屈でものを言わせるのもごまんといる。もちろんその内にもそれぞれが異なりを見せるわけで、例えば跳び回るこれは案外足が弱点だとか、棍棒を振り回すのは腹が守りきれていないだとか。殺しながら、そんな分析をしてみる。
 計算があっているなら今頃坂本は着いているはずだ。そんなことを脳の片隅で考えながら、桂は二人目を斬る。左から襲って来た天人の胴に刃を食い込ませながらついでに高杉の姿を確かめた。天人の拠点の一つ、元は藩主の屋敷だった場所を攻め落とすのが目的だ。囮は桂と高杉。中心は坂本。元は銀時の役目だったものだ。
 奇襲の奥手はほとんどの場合、隊を持たない銀時の役目だった。
 前に、確か赤穂藩からの数百人と合流した時だ。坂本にはまだ会っておらず、自分達も参戦したばかりだった。その能力を買われ、銀時が奇襲の中心となったことがある。

 梅雨時の昼間だ。
 桂は厨房に居た。
 その日の戦には駆り出されていなかったし、偶々食事当番だったのである。食い扶持は増えたがその分幕府からの支給も増えた。これなら蕎麦の出汁はバリエーションをつけて革新を図ってみることも夢には終わらないと、桂は満足そうに口角を吊り上げる。彼の頭の中には様々な蕎麦と出汁が共に踊っているシュールな場面しか映し出されていない。この頃の彼はまだ、んまい棒というすばらしき食品の存在を知らなかった。
「そこで俺は考えたわけだ」
 野太い声が桂のポップな想像世界を破いたのはその時だ。声を辿りに視線の先に映った人物に桂はあからさまに眉間に皺を寄せる。
 好きになるには理由はいらないと言うが、嫌いになるにも理由はいらないと最近ことさら思うようになった。つまりはただ、桂は新たに加わった赤穂藩の、あえて言えば脱藩者の一部の人間が気に食わないだけの話だ。
 不自然な顔立ちをした男だ。一つ一つのパーツを食い入るように見ればどれも恐ろしいほど整っているのに、驚くほど協調性がなく天人の持ち込んだ合成写真とやらと対して変わらなかった。その男を中心に、三、四人が周囲に群がる。男が薄い唇から息を吐き出しながら、続けた。
「すごい策を考えたわけだ」
「そんくれぇすげーことは親分にしかできませんかんなー」
 どういう策だ。男の顔を見上げながら、口々に尋ねる。媚びるあれは人間などではない。それともそれが人間というものなのか。
「あの例の白いをだよ、」
 あー、あの天人みたいな。そういえば今日いやせんでしたね。それよりあんな間者みてーの、死ねばいいのに。飛び交う言葉に男は満足の笑みを深める。
「始末するすげー策をだ」
 ああ、これで嫌う理由は揃った。嫌悪する正当な理由をだ。
 大切にしている者を蔑まれてこれでも憎悪してはならぬと言うのか。だが桂は黙々と手元の作業を続ける。今顔を上げて、男を視界におさめてそれで尚冷静に判断を下せる自信が桂にはなかった。
「ここじゃああれなんで...」
 外で話しましょうよ。そして外へ退出していく。行き場を失った爆ぜそうな感情だけがぽっかりと浮いていた。ポツリポツリと、雨が降り始めていた。この季節は天パが更に爆発すると確か銀時がこぼしていたことを桂は思い出す。もう既にその酷い様だ、これ以上悪くなることがあるものか。そう返して叩かれたことがある。
 こんな嫌がらせもそうだ。これ以上悪くなることがあるものか。
 追うか、追わないかで、葛藤したつもりだ。今己の目の前に置かれているまな板に転がっているみじん切りとも角切りとも付かない歪で哀れな野菜を見て今日は誤魔化してカレーにしようか。そう決めた瞬間でもある。
 追わねばどうなる。しかし追ってもどうすることができる。次第に遠ざかる蟠りを見つめ、茫然としながら思い悩んだはずだ。開け放たれた戸の更に遠くを見つめた。あくまでも自然な風体でゆらゆらと散歩でもするように歩く背中を捕らえる。
(高杉...?)
 呼び止めようとする直前、狙ったかのように振り向かれた。何も言うな、何も気にするな、と鋭い睨みで警告してくる。鋭く、そして純粋な怒りに塗れていた睨みはしかし、彼自身も恐らく気付いていないだろう慈愛を裏付けていた。
「...お前こそ莫迦だ。大莫迦だ」
 包丁を仕舞いながら桂は笑ってしまう。桂の心配には及ばない。確かに高杉はそう訴えていたのだ。貴様の方が心配しているではないか、馬鹿杉が。桂は再びふっと、笑いを零した。

 ポツリ、と雨音が耳で反響する。格子窓から外を覗けば、紫陽花に数滴、水が滴り落ち居ていた。場所に関係なく、花は咲くものなのだと、改めて気が付く。こうして些細でありながらも、自然を見つめるのはいつぶりか。桂自身にも分からなかった。忘れるほど遠い、遠すぎる昔だということだけを、記憶している。
 銀時が高杉と共に戻ってきたのはカレーを温めては、冷め、冷めてはまた温める繰り返しを四回ほど行ったときだった。二回目で、俺はどこの新妻だ、と桂は自分でツッコミを入れた。
 正午にかけて土砂降りとなった雨はすでに影を潜め、日照時間の長くなった所以での青空をバックに、二人はずぶ濡れの姿で帰って来た。高杉の切れた口端に桂はわずかに瞠目する。
「銀時はともかく、高杉。この時間までどこでほっつき歩いてたのだ。心配掛けるんじゃありません、もう!そんな悪い子にしてたら、お母さん、あんたのことなんてもう知りませんからね!」
「うっせー黙れヅラがうぜーんだよヅラ。母親面してんじゃねェ」
 それは新種の寒い駄洒落か何かなのかと生真面目な表情で尋ねた桂に高杉は違ェ!とキレながら叫ぶ。傷口が広がってしまったのか、すぐに口元を押さえた。それを横目に銀時が一言、馬鹿杉と呟いた。
「てか、今まだ日も沈んでねーだろ。それに高杉のことは知らねーよなんで俺までが叱られる感じになるのつーかなんでヅラに説教されねーといけないの?」
「ヅラじゃない、桂ママだ」
「うぜー」
 桂は湿った睨みをよこしながら視線を上へとずらした。広がる陣地の上、連綿する山々の更に上には空がある。戦場と青空。両者は不似合いで、純粋な蒼と茜の混じり始めた空は戦の荒涼、あるいは意義や建前や希望を全て見越しているようだ。
「あーもう疲れた。寝る」
 わざとらしく大きな欠伸を一つして、銀時は中へと進んでいった。あ、先に身体乾かせ、と振り返った桂は白い羽織から覗く肩から腰まで斜めに裂けた傷を目の当たりにする。飯は後で届けにきてくれなー。飄々とした声と、何事もなさそうにまるで散歩を彷彿させる悠々とした背中だけを残していった。


拈華微笑・前





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