(夢主と縁とちょっと怜依)


出勤したら珍しく、奥のデスクが空だった。まぁ便利屋的な仕事に行ってるんだろう、という結論を頭に用意しながら尋ねたので、got the flu,と言われても全く意味がわからなかった。場所かと思った。


「ごっざふる?」

「インフルエンザ」


だから4、5日来ないよ、僕がしばらく支部長代理、と、心配より憂鬱が勝っている様子で怜依くんが言うのを聞いて、やっと理解が追いつく。


「た、大変じゃん」

「大変だけど。罹ったものはどうしようもない。毎年引くんだって、去年も引いてた」


予防接種してるから軽いらしい、彼だけ電車通勤だしね、という続きはもはや聞いていなかった。ポケットから出したスマフォを点けたり消したりする。何か言いたい、けど、何を。大丈夫? なんて、大丈夫じゃないし、大丈夫って言うに決まってるし。
君も仕事が手につかなそうだね、と言いながらタブレットで何か検索し、メモパッドに書いてよこす。悪筆に苦難したが、真ん中あたりに、レジデンス、と書いてあるように見える。


「行ってもいいかなんて訊かないように。来なくていいって言われるから」

「え? 縁くんの家ってこと? お見舞う?」

「察しが悪いね。お見舞いというか、差し入れになると思うけど」


彼の家の近くにスーパーがあるかわからないので、買ってから電車に乗った。甘いものが嫌いな人へのお見舞い品を見繕うのは難題で、レトルトのお粥と茶碗蒸しくらいしか買えなかった。桃缶もプリンもリンゴシャーベットも受けつけないなら、縁くんは今まで何で風邪を治してきたのだろう。

遠いから日本支部にほぼ住んでいる、と語られる彼の自宅は確かに遠い(怜依くんは何度も酔い潰れて運び込まれたので知っているらしい)。乗り換えを含め1時間前後、東京を横断する形だ。空いていたがなんとなく立ち、ドア脇の握り棒に背を預け、迷って、メッセージアプリを開く。


『インフルエンザと聞きました。
してほしいことはありますか?』


彼との文字での会話は、敬語が混じってしまう。すぐ既読になり、もしかしてこのメッセで起こしたのでは、とハラハラした。


『ありがとうございます
猫がきたらえさをあげてください』


句読点がない、変換できる漢字がされていない、あたりから普段より余裕のない様子が見てとれる。それより。
猫か。そうか。確かにヒメちゃんを飼うことに否定的な、他のメンバーには頼みづらそうなことだ。してほしいことの一番がこれなのか、私がすべきことは支部にあったのか、もっと冷静になればよかった、時すでに遅しだ、もう、と思いながら向かいの車窓をぼんやり眺めた。手にしたビニール袋が重くなった気がする。


『わかりました、ヒメちゃんのことは心配しないで〜
ドアノブに食料をかけて帰るので、夕方頃回収してください』


駅で下車すれば、アパートへはすぐのはずだった。なんで夕方頃なんて言ったんだろう、と思いながら知らない町を歩く。どうせ会ってはくれない(伝染すのを気にするだろう)なら、おんなじだ、と思ってはみたものの、どうにも虚しい。なんたらレジデンスはアパートというかマンションだった。集合ポストの、佐伯、という達筆で部屋番号を最終確認して、ドアの前に袋をかける。任務完了。

音で彼が気づかないか、そうなってほしいのかほしくないかもわからないまま、少しだけドアの前に立って待った。静まり返った室内に息を吐いて、玄関のすぐ横の壁に背中を預ける。ずるずる座り込む。消火器に頭を預ける。なんだか疲れていた。私は無力だな……と、当たり前のことを思いながら、数秒だけ目を閉じた。





意識が浅いところに戻ってきた感覚があった。体調不良による眠りは絶えず、深まりもせずだらだらと続き、時間の感覚をなくさせる。薄く目を開け、スマフォの画面を点灯させる。17:38。明かりに乏しい部屋で画面の光がまともに目に刺さり、頭の芯が痛んだ。
身を起こせば、水の入った容器を傾けるように、ぐらりと体が傾ぐ。体全体、特に頭が、湯を入れた水風船のように重い。熱い。動くと水が揺れるようにタプタプする気がする。咳や鼻水はなく、ひたすら体が熱く、骨や関節が痛む。インフルエンザらしいインフルエンザだ。スマフォの画面はメッセージアプリを開いたままになっていた。

『わかりました、ヒメちゃんのことは心配しないで〜
ドアノブに食料をかけて帰るので、夕方頃回収してください』

何と返そうか迷っているうちに眠ったのだ、と思い出す。来てもらう必要はない。遠いからだ。買い物をしてもらえるのはありがたいが、家の近くに住んでいる友達はいくらでもいる。それでも、結構です、とすぐ言えなかったのはなぜだろう、厚意を無下にされてしょんぼりする顔を想像したくなかったのか。

帰りに寄る(寄る、という方向でも距離でもないのでこの表現は適切ではない)という言葉の通りなら、もう来てくれたのかもしれない、と思うと急に喉の乾きを覚える。壁に半身をずりずり擦りながら玄関に向かう。チェーンをかけたままドアを開く、そのわずかな隙間で、手首を掴まれた。冷たい手に。
反射的に腰の後ろ、ホルスターに手を伸ばしたが銃は枕元であることを思い出す、


「縁くん!」

「は? 愛さん?」

「今、来たの、偶然、」

「……う、伝染りますよ」

「大丈夫、も、帰るし! 顔見れてよかった、」


お大事に! と言い残して、返事する間も与えず階段の方に消えていった。しばし唖然とする。嵐のようだ……と思っていると目眩がした。
玄関の壁にずるりと凭れたまま、袋から500ミリのポカリスエットを出す。開けて飲む。普段なら飲めない甘さだが、五感が鈍ってほとんど味は感じない。朝から水道水しか飲んでいない体に、電解質を調整された水が染み入る。少し意識を清明にする。

右手首を持ち上げ、何度か握ったり開いたりした。動かす度関節が軋んだ。彼女の手の冷たさを思い出す。思い出そうとする。熱い、薄く汗ばんだ自分の皮膚にはもう蘇らないほど遠い感触。そう、自分の体が熱いからそう感じただけかもしれない、それでも冷えきった肌だった、と思う。今来た、という台詞も、本当に今来たところだったら出ないような気がする。

ずっといたのかもしれない。

あそこに。昼頃、ちらりと彼女のことを考えた瞬間ももしかしたら。愚にもつかない妄想だ。最低に無益な時間の使い方だし、そんなことをしたら彼女の方が風邪を引いてしまうだろう。それでも少しだけ、そうであったらいいのにと思った。一瞬だけ。多分熱のせいで。
ポカリスエットを冷蔵庫に入れる。明日は来なくてもいい、と送らなくては、意思強固なうちに、そう決めながらベッドに戻った。



70.甘える


廊下で寝落ちられる程度の夢主力。

行ってもいいかと訊いていたら、来てくださいと言われていたのかもしれない。
甘えるという題なら普通もっとイチャイチャ看病ストーリーだろ、と思ったのですがそれはまた別のCPにやってもらいましょう……

20170218
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