(夢主と佐伯)



こぽ、とお湯の沸く音、かさ、と紙の擦れる音。これだけがこの長閑な空気を揺らす全てだ。窓の向こう、高く薄い水色をした空からは惜しみなく水っぽい日差しが降っている。
世界の果てのようなここは今年の始まり、松の内どころか三が日も明けない、1月3日の喫茶店である。


「退屈じゃないですか」


何度目かの問いを、向かいに座る縁くんが発する。目は上げず、同じ速度でページの上に滑らせたまま。私はそんなに器用でも読書に慣れてもないので、手を止めて憤然と首を振る。


「そんなことないって」

「すみません。ただ、お正月をこんなふうに過ごしていいのかと」


手を挙げて店主さんを呼び、同じものを一つずつ、と頼んでくれる。アメリカンとカプチーノがカウンター内で用意され始め、これを飲みきるまでは側にいられる、と私は思う。


「年始の挨拶に来て下さったのを引き留めているというのに」

「もー、いいんだって。家にいたってつまらないバラエティ観てるだけだし」


それは本当である。だから日本支部に来てみたのだ。大体のところは仕事始めは4日、5日だろうし、誰もいなきゃいないでいいと思って。誰かいれば、というか鍵を持ってるのは彼なので、まぁ、彼がいればいいのになぁと思って。

で、実際その人はいた。普段のフォーマルさに似ない、ニットとブルゾンという格好で、今日は毎年恒例になっている古書の整理を手伝いに行くのだが、という旨のことを言った。私も行っていい? と言ってから、「行くから(帰れ)」ということだったのでは? と思ったが、連れていってくれたのでいいのだろう。


「結構読めましたか」

「西行が崇徳院に極楽に行けって言ってるとこ」


まだ白峰じゃないですか、と笑って言う。支部で本を読んでいるところを見る機会はなかったが(ずっと仕事をしているからだ)、文学青年なのかもしれない。彼が読んでいる本をちらりと見る。江戸川乱歩。『孤島の鬼』。うーん。何も気の利いたコメントができなくてすまない。


「解説してもらったときは面白く思えたのになぁ」

「難しいものを難しく話すのは誰にでもできる、平易で興味深く話すのは本当に詳しい人にしかできない……というのを、普段神崎さんと話してて思います」

「至言だよ。中高の古典の先生たちに聞かせてあげたいよ」


今日お伺いしたのは、大学で日本文学を教えている、という老紳士のお宅だった。かつて教え子の超能力が云々で縁くんと知り合い、以来毎年、増える一方の古書の仕分けに行く仲になったらしい。
重い物を運べなければ本の価値もわからない私は完全に無駄な存在だったが、先生は雑談相手として歓待してくれた。教科書に載っていたような古典のあらすじを面白おかしく話してくださり、特に値のつかない古い文庫の『雨月物語』を譲ってくださった。縁くんも数冊譲ってもらったらしく紙袋を嬉しそうに提げており、どうせならちょっと読んでく? という運びになったわけである。


「こういう」

「うん」

「一緒に本を読めるような相手と結婚したいですよね」


え? プロポーズ? と思ってしまった。いやさしもの彼もこんな普通のテンションでいきなり求婚はしてこまい。世間話だ。思わず顔を窺ったけど、視線はやはり本の上から離れもしない。一瞬乱れた脈を宥めるようにニットの胸をそっと押さえた。意図せずペアルックみたいになってしまってたいそう照れた青いニット。


「果たして一緒に本を読んでいると言っていいのか……」


私は全然彼のレベルについていけてないと思う。集中度とか、楽しみ度とか。


「読む本の種類とかは問題ではなく……例えば映画デートしたあと、感想が全然違う、俺が面白かったのを彼女がつまらないって言うのはいい、それも含めて面白いと思えるんですけど。『3ヶ月したらレンタルで100円なんだからそれでいいじゃん』って言う人とは結婚はできないなぁ、というような話です」


クラシックやなんかお洒落なジャズがかかってそうな喫茶店だけどここは無音で、低くて通りのよい彼の声は弦楽器のように響く。それならわかる気がするよ、と私も注意深く静かに同意する。


「日々の暮らしで、大切にするものが同じでないとね」


この、今ここに流れるこの時間が大切だ、ということだけは、私は迷いもなく同意できる。


「そうですね。結婚は生活ですから」


目を閉じて感慨深げに呟く。白い目蓋がすっと上がり、ずっと文字に落とされていた青い瞳に、今日初めて見つめられたような気がした。


「結婚しますか?」

「そんなこと誰にでも言う人は結婚できないよ」


そうですね、と他意もなさそうに笑った。誰にでも言うわけではない、と言ってほしかった、とぼんやりと思った。カプチーノのカップを持ち上げる。もうないのに気づいて、唇をつけてから、音がしないようにそっとソーサーに戻した。空なのがわかれば、きっとさすがに3杯目はなく、解散になってしまうだろう。

セピア色のページに目を戻す。崇徳院はまだ過去のことをうだうだ言っている。ついついまたちらりと視線だけ上げて、青い瞳が規則正しく、本の右上から左下まで滑るのを窺ってしまう。視線を察したらしい彼が、古語に慣れたら面白くなりますよ、と慰めるように言ってくれて、私はわかってないなぁと思う。雨月物語はちゃんとそれなりに面白い。なのに読書がちっとも進まないのは、もっと目を奪われるものが、こんなに近くにいるせいなのに。



08.見つめる

さみしいなにかを書く、
「蒼条さんは松の内も明けぬうちに、コーヒーの飲める古書店で冗談でした婚約についての話をしてください。」
からの着想でした。さみなに大活躍。

彼らの読んでる本を考えるのが楽しかったです。キャラの好きなものについて語らせるのが好きなので、好きな本の話などさせてみたいのですが、作者の読書量が……お察し。

20170103
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