忘れ物をしたのだと思う。何を忘れたのかはもはや忘れた。でも何か、無しにはその日を過ごせないくらいのものを忘れて、友達と夜ご飯を食べて、自宅に向かっていた足をわざわざ支部へと戻したのだ。

21時過ぎくらい。廃工場群を独り歩きすると怒られる(というか悲しげな目で見られる。そっちの方が堪える)時間帯だが、「帰る途中に忘れ物思い出したから迎えに来て」なんて普通の神経してたら言えないと思う。お姫様かよ、嫌な顔しないだろうけど、しないからこそさぁ、と思いながら、もちろん不気味に思いはする工場群を小走りに駆ける。暗い時間、支部に行くのは行きやすい。うすら明るい方へ行けばいいからだ。


「おはようございまーす」


なんちって! とハイテンションに告げた声がフェードアウトする。駆け込んだ瞬間はほっとしたが、夜の底に沈んだ日本支部はそれなりに寒々しかった。無機質にひとけがなくて、蛍光灯が白々として、ガラス張りの玄関は鏡のようで。こんなところに住む気持ちってどんなんだろう、と思いながら奥へ、ほぼ住んでいる人のところへ、向かう。何か栄養ドリンクとか差し入れ的なものを買ったらよかったかなぁ、と思う。


「縁くんびっくりしたー? 忘れ物しちゃっ、て、さー……」


やはりコミカルに頭など掻きながら自分のデスクに着き、引き出しを開けつつ顔を上げて、固まった。彼も、少し驚いたように、目頭を押さえるような片目を覆うような姿勢で固まっている。

その白い頬を、滴がつっと滑った。

顎の先まで伝った滴が、ぱた、と軽い濡れた音を立てる。その一瞬が、永遠のようだった。滴。なみだ。止まってしまったような頭で考えるうちにも、ぽた、と水滴の音が増える。泣いている。ドラマや映画ではなく目の前で、それなりの年の男の人が。いつぶりだろう。というか初めてではないだろうか。初めてなのに、ここには私しかいない、対処する人が私しかいない、対処って何? 何をすべきなの? すーっと自分が息をする細い音が聴こえた。息を潜めたら消えてしまえる、ここに来たこと自身をなしにできるような気が一瞬した。間抜けな挨拶もしているし目もばっちり合っているのに。


「忘れ物ですか」

「あ、ああ、うん、ちょっと」

「夜、外で食べてることもあるので……先に居るか確認してもらった方がいいです」

「そっか。次は、そうするね」


送りましょうか、と尋ねるのに黙って首を振った。あまりにも、普通だった。声は涙で震えても湿ってもいなくて、自分の状態に触れもしなかった。これは、暗に、触れるなと言っているのだろうか、やっぱり、と引き出しをかき回しながら思う。何を忘れたかなんてわからなくなってしまった、重要なはずだったのに。あったあった、とわざとらしく明るい声で嘘を吐き、何も取らずに引き出しを閉めて、


「じゃ、また、」


明日。と言いながら、玄関の方に体を向けた。すんと鼻をすする音を背中で聴きながら、数秒頭の中がぐるんぐるん回っていた。明日会ったら、縁くんは普通の顔をするんだろう。それが彼の望むところでもあるのだし。偶然見つけてしまったけど、彼にだってひとり泣きたい日くらいあるだろう。支部長の重責とか、家族のこととか。あるだろうし。私も友達とのことや高校の頃のことは支部員には言わないし。だからこうしてたまに、誰もいなくなった日本支部で、昨日も泣いていたのかも知れないし、明日も、明後日も泣くのかもしれないし、それで、それでいいのか?


「あのさぁ」


出した声は私の方がよっぽど震えていた。机の上のティッシュボックスを引っつかんで、彼のデスクの前に立った。戸惑ったように見つめ返す、普段青白いような白目が真っ赤になっている。青い目が充血しているのは普通に黒い目がそうなっているのより痛々しいように思える。銀の睫毛が滴を溜めて光っていた。


「ひとりで泣くっていうのはナシにしよう」


パステルカラーのティッシュボックスを置く。それを見て瞬きをして、また睫毛が濡れる。なく? 音を伴わず彼の唇が動いた。そう、認めたくないかもしれないが泣いていたのだ。それとも泣いていることに自分で気づいていなかったのか、そこまでなのか、と思うと胸がぎゅっとした。涙は止めてあげられないかもしれない、でも、


「こうしてティッシュを差し出すことくらい、できるのだからね」


さすがに恥ずかしいのか、何キャラだというような口調になりつつ言い切る。なく……ともう1度呟くように彼が言う。さすがに反応の鈍さに戸惑った。縁くんの当惑した表情が、見られたことに対する気まずさ恥ずかしさではなく、純粋に意味がわからない、というものに見えてくる。彼はまた片目、右目を覆うように指先で目元を拭い――……ついと出された指先には、魚のウロコのような、頼りないガラスが載っていた。


「……言いにくいのですが」

「ん? んん?」

「コンタクトが……朝から違和感あって。傷でも入ったみたいで、痛くて」


眼科行かないと、面倒そうに言う声はやはり完全に普通だった。傷を探すように、潤んだ目を眇めてレンズを見る、視線は演技ではないように見えた。言葉の、動作の意味を考えるごとに、かーっと血が頬に集まってくる。ま、ま、


「まぎらわしいことするなよー!」

「すみません、洗面所行こうとしてたとこで。戻っていらっしゃるとは思わなかったですし」

「そ、そうだけどさー! 忘れて、忘れてもう」

「何をですか」

「わかんないならいい! また明日っ!」


勢いよく背中を向け、ふっと息を零すように笑う声を背中で聞いた。忘れませんし、と呟くのも聞こえた。コンタクトに傷が入ったとして、両目から涙が出るだろうか、もしかして彼は本当に、と、背を向けるわずかの時間考えた。いやでも、目擦ってたら反対の目も鼻もぐすぐすするよな、と思うとわからなくなった。
わからなくていい、好きに思えばいい、彼も好きにするようだし、言いたいことは言ったのだし。

明日、というかもう12時間後には、朝の光に満ちて全然暗い水槽のようではない日本支部で、今夜のことなど何もなかったような顔をして会う。それをもう寂しくも心残りにも思わなかった。言いたいことは、言ったのだ。夜の中、潤んだ青い瞳は海に沈む宝石みたいだった。寝たら忘れてしまうであろう光景を最後に思い返す。またすぐ見ることになるにしろ、ならないにしろ。



メイクライ


make lieとmay cryをかけてるんだずぇ……照れるなら言うなよ。


神崎もコンタクトユーザです。佐伯はハード、神崎はワンデー。

20170604
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