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「数馬せんぱーい」

遠くから響くどだどたという騒がしい音は、まだまだ忍者には程遠い後輩の足音だ。保健室で当番だった三反田数馬は、読んでいた書物を長持に隠し手元の薬壷もそっと隠し棚にしまった。そしてよく使う傷薬と包帯を取り出して、また騒動と共にやってくるだろう後輩達を待ち受けた。

あの寒かった冬は過ぎ、彼の制服は紫色に染まっていた。



思い出の中の先輩は、夜の保健室の印象が強い。
仄かに明るい燭台の灯りに照らされたその顔は、いつもの穏やかな笑みとは違う真剣な表情を浮かべていた。揺らめく光はより影を鮮明に映し出すようで、数馬はつい顔を逸らしてしまった。今年の冬は寒く、室内なのに吐く息は白かった。

「これで一通りのことは終わったかな。数馬、よく頑張ったね」
「伊作先輩……でも、僕まだまだ不安です」
「大丈夫、学んだことは決して裏切らないよ」

今は深夜とも言える時間、保健委員会に所属している数馬は、保健委員長である六年の善法寺伊作と共に保健室にいた。床に座り込む彼らの間には、乾燥した薬草や薬研、様々な素材と共に、数多くの書物が広げられていた。これらは図書室の所蔵ではなく保健委員会や伊作個人のものだ。
一般生徒には決して公表されないそれは、忍術学園の保健委員会に代々伝えられる処方の数々だ。

六年生である伊作は、今春学園を卒業する。現在の保健委員会には上級生がいない。顧問である校医の新野先生がいるとはいえ、今度四年生となる数馬が実質的に保健委員会を率いることとなってしまう。忍術学園はその特性上、生徒が大怪我や毒にかかることも稀ではなく、保健委員会は文字通り学園の生命線を握っていると言える、重要な任務を担っているのだ。
そのため保健委員会に上級生がいないことがわかり、数馬は三年生になってからすぐ、伊作の教えを受けるようになった。二人で当番がてら夜な夜な実物を使った実践的な講義は、約一年もの間続けられたのだ。

薬は効き目が強力になればなるほど、それは毒と紙一重となっていく。また解毒できるようになるには、自らも毒の知識を得ることが必要になる。致死量はどうなのか、どのような症状が出るのか、そしてどの時点で手遅れなのか。
三年生になったばかりの数馬にとって、薬はともかくとして毒物の知識を学ぶことは苦痛を伴った。時に小動物を使っての実習は、目の前で自ら命を摘む事もあった。そんな日の翌日は、数馬は同級生の伊賀崎孫兵の顔を見ることが出来なかった。生物委員会として数多の動物を飼育する彼は、自ら毒を持つ生物を愛しているため、もしかしたら理解はしてくれたかもしれない。けれど、未だ生きている命を弄ぶような真似をしている気がして、どうしても打ち明ける勇気はなかった。

伊作はおそらく、数馬のそのような葛藤を見抜いていたのだろう。しかし特にフォローすることもなく、気遣うこともなく淡々と講義を続けた。数馬も、始めのうちはあんなに苦しんでいた数馬も、伊作の真意に気付き始めた。
伊作が何も感じていない訳はない。あれだけ仲間や後輩達の身体を気遣っている伊作は、本当なら毒などとは無縁でいたかっただろう。しかし、忍者を目指す自分達には、怪我も毒も決して無縁ではいられないのだ。
たとえ今は後輩を苦しませても、その結果恨まれたとしても、この知識を後続へと伝えていくことが将来的には後輩達を救うこととなると信じているのだ。おそらく、かつて彼が先輩から引き継いだように。

それに気付いてから、数馬の意識は変わった。手をかけてしまう命達対して、後悔と慙愧の念しかなかったものから、多大なる感謝と必ずそれを自らの糧にするという決意を持って向き合えるようになった。一年後には巣立ち、いなくなってしまう先輩から少しでも多くの物をもらえるようにという姿勢は、必要充分にはまだ遠いが伊作や新野先生が認めるまでの成果となった。

「……ごめんね、数馬」

使っていた道具などを片付けていた数馬は、同じように薬草をしまっていた伊作が漏らした言葉に、不思議そうな顔で振り返った。自分に貴重な知識を教え込んでくれた先輩が、どうして今謝るのだろう。

「正直、まだ君には荷が重過ぎる知識ばかりだったろう。まだ上級生にもなっていない数馬に伝えることには新野先生も難色を示していたんだよ。でも僕が無理を言って押し切ったんだ。どうしても、僕の手で伝えたくて」

その言葉に、数馬は答えることが出来なかった。溢れ出してくる涙を止めることが出来ず、口を開けば嗚咽しか出てこない。俯いたまま涙を流す数馬を、伊作はそっと胸に引き寄せた。目の前の胸にしがみつきたいのに、数馬はその手を伸ばすことが出来なかった。腕をだらんと垂らしたまま、ついに涙腺が崩壊して年甲斐もなく号泣する数馬の頭を、伊作はただ抱きしめた。


秘密の講義の最後はいつも、どたばたとした足音で締められた。草木も眠る丑三つ時には、物音はよく響いたものだ。どこぞの先輩まではいかないが、あの一年で数馬も足音でその主を推察できる位になった。ほとんど物音がしないのは教師は平常時の五・六年生、廊下がかすかに軋むのは四年生、それ以下になるとまだまだ日常的に足音を消すことは出来ない。そして、いつも元気でたまにこけるような足音は、まだまだ無邪気な新入生達だ。

昼に夜にとトラブルを引き連れる彼らから逃れるように、講義は行われた。いずれ知る側面だとしても、まだまだ幼い彼らに闇の部分を知らせることは出来なかった。時には間に合わず伊作と二人して天井裏に逃げ込んだことも合った。お互い息を殺してまるで鬼ごっこだ、と笑ったことも懐かしい思い出だ。


あの頃の伊作が、どんな思いで自分に知識を伝えたのか、数馬にも正確なところはわからない。だがあと一、二年もすれば、今度は数馬が伝える側にまわる事になるのだ。今は抑える事を知らないこの元気な足音も、いずれは物音一つ立てないようになる。その日までは、この秘密は自分だけのもの。
いずれ伝えるその頃までに自分も伊作に追いつかなければならない、知識だけではなく体も、そして何より心も。その目標のはるかな距離を、こうして委員会を率いるようになって、数馬は常に感じさせられていた。
しかしそれに戸惑ってはいられない。卒業してプロとなった伊作は、更に研鑽を積んでいるはずだ。あの優しさの中にも厳しさを持つ人は、現実の荒波にもまれてどのように変わってしまっただろう。いずれ合間見えるその時、彼の顔を今度は真正面から見られるように、自分も前に進み続けなくては。

もうすぐ騒がしく開かれる扉を前に、数馬の顔にはかつての委員長のような笑みが浮かんでいた。



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