小説 | ナノ




きっと、この日の月は僕の心に似た弱虫だったのだ。


「うわー、曇ってるねぇ」


相変わらず呑気な軽い口調の尾浜先輩が夜空を見上げて呟いた。その視線を辿ると、先輩の言った通り、月は暗い雲の向こうにすっかり顔を隠してしまっていた。所々漏れる月の光は少しだけ怖かった。


「これじゃあせっかくの月見が台無しだな」



目を細めながら鉢屋先輩も尾浜先輩と同じように空を見上げたて、残念だと、鉢屋先輩は言葉を付け足した。しかし僕はちっとも残念ではなかった。むしろこうなることを望んでいた。もし今日が絶好の月見日和だとしたら、僕は今日のことを一生忘れないだろう。きれいな月の光が目に染み込んで、いつでも思い出してしまっていただろう。だから、これでよかったのだ。この日を特別な日になど、絶対にしたくなかった。


「まあ、お団子があるんだしいっか!」
「お前は本当に花より団子だな」
「いいじゃんいいじゃん!」


ね?とやさしい口調で尋ねられてしまえば、後輩の僕と彦四郎は何も言えない。素直にこくんと頷いておいた。彦四郎も多分、頷いたと思う。はっきりしていないのは、彦四郎の動きが微かだったからだ。きっと、彦四郎は、泣きそうだったんだ。誰に聞いたわけでもないが、なんとなく僕はそう思った。溢れる涙を止めるためにわざと小さな動きをしたんだと思う。だって、これは最後の、


「明日は雨だな」


白いお団子を口に頬張りながら鉢屋先輩はひっそり無感情に言った。同じように見上げて見た空には、やはり月は出ていなかったから、鉢屋先輩の言う通り雨かもしれない。きっとそうだ。どしゃ降りの、さんざんな、雨だ。僕は酷いことにそれを望んでいる。僕の望む夜と鉢屋先輩の望む夜は、あまりにも違う。こんな夜など、僕は早く終わってしまえばいいと思う。早く朝がきて、季節を跨いで、追い越して、染められた色を消したかった。できるなら今すぐにでも。
ちらりと横を見ると、深緑の装束に身を包んだ鉢屋先輩が、遠くを見つめていた。やっぱり、鉢屋先輩には深緑は似合わない。一年も近くで見てきたのに、僕はその色に慣れなかった。鉢屋先輩には、あのいつも静かな哀しい海の色が一番似合っていたように思う。その小さな違いが、僕の心臓を傷めつける。何度も、何度も。繰り返して。


「どうした?庄左ヱ門。食べないのか?」
「あ、いや…いただきます」
「そうするといい」


白い指先に摘ままれた小さな団子を渡される。鉢屋先輩の顔は、見られなかった。ただ黙って渡された団子を口の中に押し込める。そんな僕を鉢屋先輩が笑ったような気がした。途端に僕はなんだかすごく、切なくなった。
僕が切なくなるのと同時に、隣から小さな嗚咽が聞こえた。多分彦四郎だろう。ついに彼の感情のダムは決壊してしまったのだ。暗い夜にその声が響く。僕もあんな風に、泣けばいいのだろうか。泣いて、泣いて、その白い指先にすがりつけば、いいのだろうか。(行かないでほしい。そばにいてほしい)でも、きっと、できない。それは僕にはできない。何故だか知らないが、僕にはそれがどうにもできそうになかった。悲しいし切ない。泣ける感情の要素はある。でも泣けない。(きっと僕が弱虫だからだ)


「なんだ、庄左ヱ門。団子が詰まったのか?そんなに泣くんじゃない」



そう言いながら、鉢屋先輩の手が僕の背中をやさしい手つきで叩いた。しかし、僕は別にお団子を詰まらせたわけではなかった。きちんと咀嚼して飲み込んだから、その心配はなかった。(味はよくわからなかったけど)それに、泣いてもいなかった。鉢屋先輩はぜんぶ分かっているのだ。背中を往復する手がやさしくて、残酷だ。
鉢屋先輩の言葉がぽろぽろとこぼれたような気がした。(ああ、どうして僕は)そうしてその全てがぜんぶ僕の中で染み込んで、広がっていく。けっして消えない。消せない。


「庄左ヱ門」


柔らかい声で名前を呼ばれた。まるで自分の名に息を吹き込まれたような、そんな感覚さえ起きた。しかしそのあとは鉢屋先輩は何も言わなかった。ただやさしい手で何度も僕の背中を撫でた。
僕は切なさとほんの少しの愛しさを抱えて、鉢屋先輩に知られないように心の奥のすみっこで泣いたふりをした。



きっと、この日の月は僕の心に似た弱虫だったのだ。
上手くすがることもできないで、不恰好な虚勢しか張れない。それはまるで暗い雲に身を隠した今日の月によく似ていた。




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