小説 | ナノ




「乱太郎ー」
「きりちゃん?」
「治療、頼んでもいい?」
「……どこ?」
 部屋の温度が一度か二度下がったように感じるのは気のせいでないだろう。
 一ヶ月ほど前、授業で少しばかり大きな怪我をしてしまい、保険委員長であり親友である彼を怒らせてしまったことは記憶に新しい。保健室に入ることを許されたのも実は、昨日のことだった。
 怪我ばかりする団蔵ときり丸は保健室に入れません! と授業で負った怪我が治りかけたころに宣言され、とばっちりだと泣く団蔵と共に、は組の皆を説得し、最後の最後に庄ちゃんが許したことで乱太郎も折れてくれたのが昨日の話。
「指。本で切っちゃって」
 そんなことがあってわざと怒らせるようなことはしない。本の延滞者を調べていたところ、偶然切ってしまったのだ。
「今日、当番だったんだね」
 ほ、と息を吐く。ようやく、室内温度が元のものに戻った。
「ちょっと待ってね、浅そうだから傷薬だけで大丈夫だと思うけど、まだ当番の仕事が残っているなら軽く包帯も巻こうか」
「うん、そうしてくれると有り難い」
 もし傷口が開いて本に血でも付けたならば、怪士丸の笑顔が怖い。図書委員会委員長だからってあの笑顔まで受け継がなくていいと思うんだ、俺は。
「少し、しみるよ」
 頷く間に治療は終わってしまった。綺麗に巻かれた包帯をぼんやりと眺め、感心する。保健室に来れない数週間小さな怪我は自分で何とかしていたが、それとは全然違っていた。
「乱太郎、すげえ」
「ええ? ただ治療だよ?」
「……なんか久々に一年のときのこと思い出した」
 あれはまだ自分が空色の制服を来ていた頃。この優しい世界に馴染むことができず、ひとりで生きていくと強がり、怪我をしても保健室には行かず自分で治療をしていたときのこと――。
「いらっしゃいませー」
 今日は学園が休みだった。本来ならば子守りのアルバイトをして一日を過ごすはずだったが、今朝アルバイト先の予定が変更し、急きょ骨董品を売るアルバイトをしていた。
 店主は、始めアルバイトがしたいと町でたまたま見かけた求人情報を片手に店を訪れたときは疑ったような目をしていたが、数分話した後、気をよくしたようで、すぐに採用してくれた。
「ありがとうございまーす」
 売上は上々。これならアルバイト代も期待できるのではないかと、頭の中で勘定し笑っていると、店の奥から慌てた店主の声が聞こえてきた。
「どうしたんスか」
「ないんだ!」
 奥を覗くと顔を真っ赤にした店主が立っていた。
「あの茶碗がないんだ!」
 何があったのかよくわからないが、多分、店主が大事にしていた茶碗が無くなったのだろう。
「……お前が盗んだんだろ」
「は?」
 思わず出た言葉に慌てて口を閉じる。
「いやいやおじさん冗談は止めてくださいよ、かっこいい顔が台無しっすよ」
 へらりと笑い、店主の顔色をうかがう。迷惑事に巻き込まれるのはごめんだった。
「気持ち悪いな」
 心の底から嫌悪したような声が聞こえ、頭の中が一瞬真っ白になる。なんだよ、それ。店主の声はもう耳に入ってこなかった。
 お世辞を使わず不細工な顔なんて言う人間をお前は信じるのか。お世辞を言われて悪い気なんかしなかったくせに。だからこそ、雇ったくせに。言葉だけが、頭の中を廻る。
「おいっ!」
 怒鳴り声で、意識を戻す。ゆっくり見上げると、棍棒を持つ店主の姿に血の気が失せていくのを感じた。――殴られるっ!
「すみません、――!」
 鈍い音と共に痛みはやってこなかった。きつく閉じた目を開けると、肩の向こうに焦ったような表情の店主が見えた。
「きり丸、大丈夫?」
「は、い」
「良かった」
 冷や汗でおでこについた髪を優しく払われる。その手からふわりと香る独特の薬草の匂いを知っていた。乱太郎も、たまに同じ匂いをさせている。ケガをしていないことを確かめるように、おびえさせないように、慎重に俺の体に触れるこの人は、忍術学園六年生保健委員会委員長善法寺伊作先輩だった。
「これ外に落ちてましたよ?」
 すり傷以外キズがないことを確認すると善法寺先輩は立ち上がり小さな四角の箱を店主に手渡した。呆然とその様子を眺める。まだ何が起こっているのか理解できなかった。
 何か言おうとする店主を無視し、先輩は店を出た。おれも手を引かれるままに、店を出た。
「ごめんね、きり丸」
 店を出てしばらく歩いた後、先輩の突然の謝罪に驚く。謝らなければいけないのは、自分のほうなのに。
「今日はね、乱太郎の当番なんだ」
 だから嘘を吐かせることになるからごめんね、と。優しい人だ。忍者には向かないと誰かが言っていたが、その通りだと思う。
「……先輩も不幸っすねー、おれなんかに巻き込まれちゃって。すみません、このお礼はいつかします。今日アルバイト代取り損ねっちまったのは痛かったすね」
 話始めると、言葉はすらすらと出てきた。
「違うよ、きり丸」
 更に言葉を続けようとすると、先輩に遮られた。歩みが止められ、目線を合わせるために膝が曲げられる。じっと見られ、体が強張るのを感じた。
「僕らは、不運であるけど不幸ではない」
 ね、きり丸、こんな傷なんてねすぐに治ってしまうよ。この傷は、きり丸と関わったことは、不幸でも不運でもない、僕の幸運なんだよ。
「は……」
 先輩の言葉は想像もしていないものだった。嘘だ。そう叫びたいのに、口からこぼれ落ちたのは嗚咽だった。
「っ、う」
 こらえようとすればするほど、涙はあふれた。止める方法がわからなかった。泣き続ける間、先輩は何も言わず、おれの手を握っていた。
「先輩、」
「うん」
「おれはっ、いても、」
 いいですか、最後は言葉にならなかった。先輩に強く抱きしめられ、また涙がこぼれた。
「当たり前だよ。僕にできることは少ないけど、怪我をしたら保健室においで」
 胸の中で、小さく頷く。
「あ、でもアルバイト代は……ごめんね、きり丸」
「よくないけど、いいっす」
 先輩から離れ、笑顔を向ける。確かに今日のアルバイト代はもったいないことをしたが、良い店主と悪い店主を見分ける授業料とでも思えばいい。
「次のアルバイトは僕が手伝うよ」
「えー……先輩不運っすから」
「ひどいよ、きり丸!」
「でも、ありがとうございます」
「……うん。どういたしまして!」
 こうして、おれの居場所を一つ作ってくれる人がいるからいい。顔を見合わせ二人で笑うと、手を繋ぎ、学園までの道を歩き始めた。
「――乱太郎」
「なあに?」
「伊作先輩、元気かな」
「……私は元気だと思うよ」
「そっか」
「うん」
 治療はすでに終わっている。長居する理由はない。
「乱太郎、ありがとう」
「どういたしまして」
 退室する際に、お礼を述べる。返ってきた乱太郎の笑顔はあの日の先輩によく似ていた。
 包帯の巻かれた指先をそっと見つめる。この傷も、すぐに治ってしまうのだろう。
「きりちゃん?」
「……うん」
 傷跡が残るほどの大きな怪我は、上級生になってからするようになった。先輩に治療してもらった傷は、もう、どこにも、なかった。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -