小説 | ナノ




 しとり、しとりと雨が降る。傘に落ちて弾けた其の音に暫し耳を澄ませてみた。あの人の居ない、初めての梅雨。雨の日になると火薬のように湿気た一つ年下の先輩を思い出す。一度も先輩、だなんて呼んだことはなかったけれど。桜が舞う春に袖を通した此の深緑の制服は、僕にはあまりに似合っていないような気がする。未だに鏡を見ると違和感ばかりが前面に押し出されて、髪色の問題なのかな。なんて真剣に悩んでいたりもする。見慣れていないだけ、と言われてしまえば、自分でも「ああ、そうなのかなあ」なんて思ってしまったりもするが。あの人が六年生になった時もやっぱり初めは違和感ばかりだった。つい、群青色の服を目で追ってしまって、その度に(いやいや、何やってるの僕。群青色は僕らの学年じゃないか)と思い返す始末。夏ぐらいまで慣れることはなかった。今でも記憶の中、思い返すあの人は群青に包まれている。僕が初めて目にした姿だったから、と格好のひとつでもつけてそういうことにしている。本当のところは自分でも何故なのかよく分かっていない。きっと藍という色が似あう人なのだろうなあ、とは思う。
 さて、この時期になると煙硝蔵に通う頻度が冬よりも多くなる。冬は乾燥で、ちょっとしたことで発火してしまったら大変だからと当番制で確認しに来ていたが、あの人は毎日訪れていた気がする。下級生だけだと何かあったとき、大変だろ?なんて笑いながら。試験の前の日だろうと実習の前の日だろうと忍務の前の日だろうと。僕には到底、真似出来ないなあと最上級生になった今でも思う。成績があまり良くないってのもあるけれど、其処まで委員会に自分の時間を費やせるだろうか。五年生だったあの人は委員長代理ということで持ち前の責任感から委員会に身を置いていたのだろうけど、気苦労も多かったはずだ。それに加えて忍者初心者の僕を抱えて、さぞ大変だったろう。今思うと申し訳ない気持ちでいっぱいです。ごめんね。結局のところ、あの人は色んな意味で強い人だった。誰かに何かを頼るという姿を下級生の僕らはあまり見たことがない。大変なこの時期にも彼は火薬が湿気てしまわぬように何度も煙硝蔵を訪れていたと思う。けれど、この時期は試験やら実習やらが多い時期でもあって、時々、級友たちに心配されているところを見掛けたことがあった。あの人は、同学年の友人たちの前だと随分と子どもみたいに笑うんだなあってのが印象的。普段は、僕より年下なのに大人びて見えるけど、斯うして遠くから見ているとやっぱり年下だと思った。そんな彼が五年生の丁度、今頃。僕がまだ右も左も分からなかった頃。傘を差して煙硝蔵の前で佇んでいた。その姿が、やけに小さく見えて僕はなんだか酷く狼狽した。なるべく、いつものように彼に声を掛けたのを覚えている。

「あれ、久々知くーん」
「え、あ。斉藤」

 彼は、ちょっと驚いた顔で此方を見ていた。僕の垂れ流しの気配に気付かなかったなんて珍しいこともあるものだ。

「どうしたの?こんなところで」
「いや、別に。ただ、火薬が湿気らないか心配で」
「あ、そっかあ。火薬は湿気たら使えなくなっちゃうんだっけ」
「ああ」

 彼の顔は大きな傘が邪魔をして見えなかったけど、どうにもこうにも落ち着かない空気に僕は切り出してみることにした。ただの年上のお節介を空気の読めない後輩のふりをして隠して。

「でも、久々知くん。元気がないよ?」
「え」
「僕は、ほら。髪結いやっていたから、お客さんとかの表情や空気をよく読み取ってたりしていて。だから、その点に関しては結構得意なんだ」
「へえ、凄いな。もしかしたら、斉藤は意外と忍に向いているのかも」

 あ、笑った。と思った。表情は見えなくとも、少し空気が柔らかくなった気がしたから。僕は少しだけほっとした。でも、まだ本題には切り込んでいない。

「で、何かあったりとかした?僕でよければ、お話聞くよー。これでもほら、一応ね。久々知くんより一年多く生きているから何か役に立てることを言えるかもしれないし」
「ありがとう、斉藤」

でも、大丈夫なんだ。と続いた声は、雨音に掻き消されるんじゃないかってくらい弱弱しくて、ねえ、そんな声してどの口が大丈夫だなんて言うの?ざあざあ、と雨の音が響く。向かい合ったまま言葉も交わさずに居心地の悪い沈黙が続く。雨音が煩いのがせめてもの救いだ。この人はなんて頑固な人なのだろう。いつもより幾分も小さく、細く見える彼を思わず抱き締めてしまいそうになり、つい彼へと伸びかけた腕に力を込める。莫迦。抱き締めて、どうするの。この人の隠しているものを受け止める勇気やましてや覚悟なんて僕にはないのに無闇に優しくなんかしたら傷付けることになる。後々、辛くなるのはこの人なんだ。今の僕に出来ることと言えば、言葉をかけてあげることぐらいだ。

「久々知くん。大丈夫なんだって言うならちゃんと大丈夫な声を出してから言って下さい」

 僕からしたら真面目に言ったつもりだったのに久々知くんは、随分と間抜けな声を出して傘から顔を覗かせた。あまりにも幼いその表情に僕の方がびっくりしてしまいじっと見返してしまった。先程とは異なる空気の沈黙にどちらと共なく、ぷっと吹き出して何だかとても可笑しくて腹の底から二人して笑った。

「斉藤っ、はは、なんだよ。その顔っ」
「あははっ、久々知くんだって間抜けな顔してたよっ」

 暫くはそうして、ざあざあと笑い声が重なり合う。笑った彼を見て妙に安心した。呼吸困難になるのではないかというくらい散々笑ったあとに息を整えながら、彼は僕に謂った。

「ありがとう、斉藤」

 そうして、照れたようにはにかんだ彼の顔を僕は今でも忘れることが出来ない。うっかりと心臓が跳ね上がっただなんて口が裂けたって言えるわけがない。
 次の年、僕が群青に身を包み、彼が深緑に身を包んだ梅雨。僕は、既視感を味わうこととなった。ざあざあ、と滴る雨は傘にずしりと重く圧し掛かる。しっかりと柄の部分を掴んでいないと横へと押されてずぶ濡れになってしまいそう。その日は、丁度、煙硝蔵の火薬チェックの当番だった。五年生となった僕はひとりきり。引き継ぎ、というものが委員会にはあるもので勿論、彼の場所を引き継ぐのは僕で。徐々に一人で任せられる仕事が多くなった。それが何故が僕には苦ではなくて、寧ろとても嬉しかった。其の理由は多分二つある。一つは、彼が一年前までは忍者初心者だった僕に此の委員会を任せても大丈夫だと認めてもらえたこと。もう一つは彼の苦労が少しでも減るのではないかということ。彼は、晴れて委員長代理から委員長になったのだが、就職を控えている彼に此れ以上の負担はあまり掛けたくないのが本音である。今まで頑張って来たんだから。そんなことを思いながら、僕は煙硝蔵へと足を向けた。其処で、ぴたりと時間が止まってしまった。煙硝蔵を前にして、ひとり、傘を差す人物が居る。僕の気配に気付いたのか、綺麗な漆黒の髪を揺らして振り向いた。(さ、い、と、う)彼の口がそう動いた気がする。雨音の所為で残念ながら声は響かず、届かない。いやに鼓動が早い僕の心臓には気が付かないふりをして、彼に近付く。

「わ、どうしたの。久々知くん。びっくりしちゃった」
「火薬委員長の俺が煙硝蔵の前に居るのは別に驚くことじゃないだろ?」

 彼は、可笑しそうな呆れたような小さな笑みをひとつ。それから、しんと黙ってしまった。嗚呼、梅雨の時期だからか。湿気た彼を眺めながら、僕は無意識に傘の柄を力強く握り直した。

「今年も梅雨が来たね」
「そうだな」
「この時期は、僕ら火薬委員会は大変だよねえ。ほら、火薬が湿気てしまうから」
「なあ、斉藤」

 小さな声だったのだと思う。けれど、僕には彼の声がそれはとても大きく聞こえて、どきりと心臓が脈打った。ばくばく言う心臓を抑え付けて、平然装って「なあに?」といつもの調子で返す。そんな僕の心内を見透かしているのかは定かではないし、もしかしたら彼は彼自身に対して自嘲的になったのかは分からないけれど、彼は軽く鼻で笑ってから一度俯き、そしてゆっくりと顔を上げて煙硝蔵を眺めた。それから、ぽつりと。寂しそうな、それでいて懐かしむ様な表情で雨の一粒と一緒に言葉を落とした。

「俺は、この場所が好きだよ」

 目を細めて微笑んだ彼に僕は確かに恋心に近いものを感じた。尊敬や憧れとも違う確かな其れに僕はただただ、彼を見つめることしか出来なかった。



彼は、卒業式の日にひとつ。きっと彼なりの本音を僕に置いていった。押し花として栞にされたその花は日々草とカタクリであった。ああ、そうか。だから、君は二年も前から湿気ていたのか。ようやっと合点がいった、とあの時の僕は思った。最後に見た湿気た姿とあの言葉の本当の意味が今の僕には理解出来る。雨は未だ止む気配を見せない。僕は、傘をずらして煙硝蔵を見上げる。ああ、ねえ、今更知ったところで、どうしたって僕は君に届かない。

「タカ丸さん?」

雨音に交じって背後から三郎次くんの声が聞こえる。振り向いたその時に深緑の制服からは、僅かに火薬の匂いと君の匂いが香った気がした。

よいひと向けのよわさ




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