小説 | ナノ




※ 年齢操作あり(綾部が六年)



 あのひとと私の間に共通点などと言えるものは特別、ありませんでした。ただ一度、同室の滝夜叉丸に、似ている、と言われたことがあるのみです。「お前と七松先輩は似ている」と滝夜叉丸は言いました。へええ、と私はついぞそんなこと考えたことも無かったので興味深く思い、何処が? と尋ねると、お前は今、筆を止めて何か考えていたが何を考えていたか思い出せるか? と逆に質問で返ってきましたので、いったい何なんだと内心憤慨しながらも首を横に振ると、ほら、たとえばそういうところさ。と滝夜叉丸は漸く答えました。「よく分からないな」と言えば「実のところ私にもよく分からないのだ」と困ったように返ってくるだけなので埒があかず、私は黙り込んで再び考えごとの深く沈む湖のなかへ、足先から己の身をそっと横たえました。そういえばさっき何を考えていたのだっけと私は思い出そうとしました。揺れる水面の奥にきらりと一瞬輝くのはおぼろな誰かの後姿です。確か二年前の春にこの学園を去った彼が今どうしているかなど知る由もありません。ふとした瞬間にその微笑みを思い出すことで私のなかの彼に関する記憶は辛うじて繋がれていますが、同時にそれが彼と私との揺るぎのない終着点でもあるのです。(私があのひとと似ているだなんて……)波間にたゆたいながら私はたぶんあのひとのことを考えていたのだと思います。


 近くにいた人が遠くへ行ってしまうから別れというのは辛く悲しいのであって、もともと遠くにいた人がさらに遠くへ行くとなるとそんなのはもはや他人事の域で、悲しみなどはほとんどありません。ですから私にはあのひとが卒業するからといって泣く理由はどこにもありませんでしたし、滝夜叉丸がそのきれいな顔をぐちゃぐちゃにして泣いたとしてもそこにはちゃんとした理屈があると言えるわけなのです。
 そんな理屈で滝夜叉丸はひどく泣いていました。あのひとが不器用な手つきでその涙を拭ってやっているのを私はすこし離れたところから眺めていました。前の晩に仰々しく並べ立てられた“お別れの言葉”を何度も何度も長屋で暗唱していた彼が結局のところああして何も言えずに嗚咽ばかり溢しているのを見ると、何とも言えない憐みの気持ちが湧き上がってきます。別れというものはむごいものだと私は痛感しました。同時に、執着というもののもたらす醜さも感じました。けれどもその醜さも、今の哀れな滝夜叉丸の前ではむしろ好ましいもののように映りました。きっとあの涙がすべて浄化しているのだろうな、彼はあまりにも純粋で、純情だったのだ。私はそんなことを考えながらその光景を眺めていました。
 やがて滝夜叉丸は長屋の方へ歩き出しました。もとよりこの学園には卒業生の見送りなどという風習はありません。各々が学園を出ていく日はまちまちでも出て行き方はひとつしかないのです。まるで最初から居なかったものの如く、卒業生はみな決まってひっそりとひとりぽっちで最後の門をくぐって去ってゆきます。理由など取り立てて此処に挙げる必要もありますまい。とにかく滝夜叉丸はこの風習の意味するところを充分に理解していました、そしてあのひとも同じように。滝夜叉丸の背中が見えなくなるまでその丸い目をぱちりぱちりとさせてあのひとは立っていましたが、やがて音を立てずに校門へ向かって歩き出すものと思われました。

「喜八郎」

 まさか己の名前が呼ばれるなどと思ってもいなかったので私はひどく狼狽しました。彼は立ち止まったまま、今度はその丸い目で私を強く捉えていました。心臓がごぷりと気味の悪い音を立てて跳ねあがり、私は身動きが取れなくなりました。おやまあ、まるで殺される前の動物みたい。冗談ではなく本気でそう感じたものです。風が吹いてばらばらになった髪の毛が一本一本、冷たく緩慢に頬を撫でてゆきました。
 彼は今までの彼の笑い方と何一つ変わらず忠実に、歯を見せてにこりと嬉しそうに笑うと(今になって思うのですが、どうして彼はいつだって嬉しくてたまらないといったようなあの無邪気な笑顔をつくることができたのでしょう?)、元気でな、と言って歩き出しました。私は、しかし、彼に対するねぎらいの言葉など何一つ用意していませんでした。それでもどうしてか、何か言わなければならないような気がしました。私はずっと何か彼に言いたいことがあったのだというような気がしてきました、後輩としてではなく、わたしからの言葉として。それを思い出すことができないのは、今まで私がそのことついて一度も考えたことがなかったからなのだと気付きました。何か特別な言葉を彼に贈りたいという欲求に強く駆られ、私は心のなかでさらに取り乱しました。にわかに泣き出したくなりましたが涙など出てくるはずもありません。涙の種にするには彼は、あまりにも遠すぎました。

「“あなたがいつまでも健やかでありますように”」

 気が付いたら私はこう口走っていました。これは私の言葉ではなく、滝夜叉丸の言うことの出来なかったあの“お別れの言葉”の結びの部分でした。彼は驚いたように足を止め、振り向いてもう一度私をジッと見つめました。私はそれを受け止めるのが精いっぱいで、ただ茫洋と立っていることしかできませんでした。やがて彼は笑いました。にこり、ではなく、ふ、と。まるで波紋のような笑みだと思いました。それは私が生涯、見てきたなかで一番静かでうつくしい笑みでした。そして、それは私が初めて目にした、最初で最後の、彼の微笑でした。
 彼は再び歩き出し、それきり、振り向きませんでした。角を曲がった彼の姿が私の前から完全に消え去ってからも私は其処に立ったまま、彼に贈るためにふさわしい言葉を探し続けていました。彼の微笑みだけが何時までも傷のように心に焼き付いて、ひりひりとしました。そうして私は、彼が私なんかよりもずっとずっと理知的な大人であったことを悟り、同時に、ずっと昔から私が心の奥でそのことを知っていたのだという事実に漸く、思い至ったのです。
 空っぽになったような、はたまた余計に込み入ってしまったような、よく分からない頭のままで長屋に戻る頃にはすでに夕日が沈みかけていました。滝夜叉丸は布団にくるまっていましたが彼が眠っていないというのは一瞬でわかりました。「先輩が、いなくなってしまった」掠れた声でそう言った滝夜叉丸の絶望が、私にも痛いほどに伝わってきました……


 卒業を前に、私はこうして何処に出す当てもない貴方への手紙を書いています。外の世界は冬から春へと季節が変わる柔らかな光に満ちていて、ほそく障子を開けた長屋の畳をも明るく照らし出してくれます。貴方はどのような気持ちで卒業までのこの短い時を過ごしたのだろうか、ゆらりゆらりと水面に浮かびながら私はそんなことを考えます。
 私の横で書物に耽っている滝夜叉丸にはもうあの日の脆さなど面影すらありません。人というのはただ生きていくには充分すぎるほどに強かな生き物です……それでも彼は今でもあの日のことを、貴方に対して何も言葉を紡げなかったことを、ひっそりと後悔しているように見えるときがあります。その言葉の一部は私が伝えたのだということは勿論彼には言っていません。否、言えるはずもありません。ただひとつ言えるとしたら、私は恐らくあのとき、滝夜叉丸よりもずっと絶望していたのだということくらいでしょうか。多分、言ったところで信じてもらえるはずもないのでしょうけれど。
 ふとした瞬間にひりひりと痛む傷はまるで雨の日に疼き出す古傷の如く、治る気配もありません。私は今でも貴方へ贈るための、貴方の微笑みと同じくらいにうつくしい言葉を模索しています。きっとその言葉を貴方の前で紡げることができたときに初めて、私は貴方を思って涙を零せるのではないかと思うのです。あの日、貴方が不器用な手つきで拭ってやっていた涙を、漸く零せるのではないかと思うのです。




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