小説 | ナノ




*竹谷六年、伊賀崎四年

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 澄明な風がさらさらと草木を揺らして巡る。それは長屋の廊下を歩く彼にも届いたのだろう、紫の袖をふわりと靡かせた。まだ冷たさは残るものの、その中には若草の芽ぐむ匂いも淡く感じられる。風の行方を追う様に視線を上げれば、花弁の欠けはじめた梅の終わりを待たずして桜の木々が小さく蕾をつけているのが見えた。そんなに急いてくれなくても良いのに。孫兵は小さく呟いた。

 絶えず騒がしいこの学園が、毎年この時期は息を潜めたような静けさに包まれる。入学してから初めて迎えた春も、次も、その次の年もそれは同じで、決して行われることのない卆業の儀であるようにも思えた。去る者と残される者、その誰もが近くやってくる日の別れが恐らくは今生のものとなるということを解っている。だからこそ、纏まりきらない心に終着点を探してどうにか折り合いをつける猶予でもあった。皆が漆黒の衣を背負う覚悟や矜持をまたひとつ呑みこんで、そうして閉ざされた長い冬のような空気は、土深く眠る生き物が目覚めるようにして元に戻っていく。いや、きっとよく似た別の日常に慣れていくのだ。

 もう春がきてしまった――言い聞かせるように零した言葉は薄明るい闇の中に溶けて消えていく。孫兵は足を止め、まだ少しばかり星の残る明けの空を眺めた。彼にとっての春は冬篭りをする友人達との再会の時であり、嬉しいことに違いなかった。しかしそれがいつの頃からか、暖かな季節の訪れをどこか素直に受け入れられないでいる。
 春の足音を怖れる理由などとっくに気がついているのに、どうしたら良いかなんてまるでわからない。過ごした歳月の分だけ溢れてしまった心を、皆はどう片付けていくのだろう。

 仰いだこの空に太陽が姿を現したら。自身は学年が上がり、あの人はここを去っていく。ずっと追っていた背中が遠ざかっていくのを思い浮かべただけで、何度も、何度も胸の奥が潰れてしまいそうになる。黎明を迎えるのがこんなにも苦しいだなんて知らなかった。
傍にいられたことが途方もない幸福であることを今更思い知らされて、孫兵はその場に崩れるようにうずくまった。




「……孫兵?」

 伏せて小さくなった孫兵の頭上に慣れ親しんだ声が響いて、温かな手のひらが幼子を宥めるようにして触れる。静かに顔をあげると、私服に身を包んだ八左ヱ門が大きな荷を脇に抱えて立っていた。少し離れたところには、彼と同じような格好をした者達が正門の方へと歩いていくのが見える。
 わかったつもりでいた猶予の終わりだった。
言葉なくたたずむ孫兵に、こんな朝早くにどうしたんだと八左ヱ門は穏やかに微笑む。しっかりと目を合わせてこちらに向く眼差しはやわらかな陽だまりそのものだった。春を目の前にして、孫兵は全てをさらけ出してしまいたかった。長くひそめていた慕う心も、抱えた劣情も焦燥も何もかも。あなたを想うことがこんなにも辛いのです、と。



「もうすぐ……ジュンコ達を迎えてやるので、その準備です」

 滑らかについた言葉はいつもどおりの自分だった。上手く笑ってみせたのだろう、八左ヱ門は相変わらずだなぁと苦笑しながらも、頼んだぞと力強く孫兵の肩に手を置いた。触れられたところからどくどくと全身に脈打つ音が広がって、ざわつく胸は今にも叫びだしそうだった。思わずきつく握り込んだ拳は、爪先が食い込んで白くなってゆく。


「先輩もどうか、お元気で」

 仲間の方へと歩を進めた背中に告げると、八左ヱ門は大きく振り返りながら有難うと破顔した。離れていく軽やかな足取りに天翔ける鷹隼(ようしゅん)の姿を重ねながら、孫兵は深く息を吐いた。ああ、これで良かったのだ。僕は間違えることなく選んだのだと。自分でも持て余してしまいそうな感情をそのまま預けてしまったなら。それは膿んだ傷口のように汚く痕が残って、きっと苦々しいものに姿を変えただろう。もしかしたら、身体中をじわじわと侵食する毒となるのかもしれない。
 伏せた目から次々と零れ落ちる雫を袖で乱暴に拭って、ずっと追いかけていた姿をもう一度見つめる。小さくなった影は間もなくして外の世界へと静かに消えていった。
 
あなたを想って成した毒ならば――。孫兵は飲み下す仕草でごくりと咽喉を鳴らした。
こうして冬眠から目覚めることなく、死を迎えたのだ。



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