小説 | ナノ




 薄青い空が透き通って見えるような晴天だった。つい昨日までは雪が降るほどの寒さだったのに、と三木ヱ門は思った。外は一面が雪に覆われているものの、ところどころ目につく緑には梅の花が小さなつぼみをつけている。
 紅色の梅が咲き誇った後には、桜のつぼみが見え始めるだろう。毎年見なれているはずの光景が、今年は一味も二味も違うように思えた。
 春が来たら、学年が一つ上がり、難度の高い火器を扱えるようになり、課題も一層難しくなる。それだけではない。後輩も増えて委員会もまたさらに、にぎやかになるだろう。
 そこに、文次郎の姿はない。
 委員会から文次郎がいなくなることで、別段変ったことが起きることはないだろうと思っていた。変わることがあるとすれば、これから先、全ての判断は三木ヱ門に委ねられるということだろう。その判断を、正す人はいなくなるのだ。三木ヱ門は外を眺めた。一面が白い雪で覆われているのを見ながら思う。正しい判断ができるのだろうか、と。こんなことに悩む自身に、付いてくる者がいるのだろうか。と常に思うようになっていた。 ある日、いつもよりは暖かな朝を迎えると、積もっていたはずの雪はすっかり溶けてなくなってしまっていた。それを見て、三木ヱ門は身体の内からすっと冷えるような焦りを感じた。文次郎がいなくなるまで、もう数カ月もない。今もなお、委員会で最年長になることに不安が絶えないでいる自分に気付いた。雪解けがこんなにも憂鬱に思えたことはない。彼は紛らわすように、石火矢のユリコとともに散歩をしよう、と外に駆けて行った。
 部屋の中では感じなかったが、外ははるかに寒かった。上着を着なかったことに後悔しながら、三木ヱ門はユリコを連れて学園内を歩いていた。ころころと、彼女を乗せた車輪が回る。まだ夜も明けきらない頃だからだろう、車輪の音以外に何も聞こえるものはなかった。それがさらに、三木ヱ門の不安を掻き立てる。
 春になれば潮江先輩はいなくなる。あんな風に頼られる人に、なれるのだろうか。あんな大きな存在に。
 ふと、三木ヱ門は後ろからの視線を感じた。ぱっ、と振り返ると文次郎が木陰から現れたのだ。

「潮江、先輩。」

 文次郎の雰囲気はいつもと少し違っているように思えた。何が、とは言えない、何かが違うように思えていた。

「早いな。」
「ええ、まあ。日課ですから。」

 三木ヱ門は彼女を自分の脇に引きよせて屈みながら、上向いた砲口を撫でた。文次郎は、そうか。と言ったきり、何を話すでもなくそこに立っていた。

「…雪が。」

 文次郎が三木ヱ門を見た。

「雪が、溶けてしまいました。」

 彼女に手を添えながら、三木ヱ門は文次郎を見ていなかった。ただ遠くを眺めていた。雪が溶けなければ、文次郎はまだここにいるのに、時だけが少しずつ経っていく。いっそ、眠らなければ明日が来ないのではないだろうか、などと思う日々もざらではない。三木ヱ門自身には自覚がないのかもしれないが、目の下には薄らと隈が見える。

「直に桜も咲くのだろうな。」

 文次郎が言うので、三木ヱ門も近くの桜の木を見た。小さなつぼみが見えるようで彼はすぐに目を逸らした。

「春が来るな。」

 その一言で三木ヱ門は肌が粟立つのを感じた。けして、それが寒さからの震えでないことは彼がよく分かっていた。それは恐れにも似た焦りだった。文次郎の一言で、どっと押し寄せてくる不安の波。
 今まで彼の下で何をして、何を得ていただろうか。文次郎はどんな方法で後輩らをまとめ、指示をしていただろう。いかに自身が文次郎を頼っていたか、頼り切っていたかを思い知るようだった。三木ヱ門はぎゅっと唇を結ぶ。手のひらには妙な汗が、口の中はからりと乾いていた。

「ここ最近。眠ることが、惜しく思えてならない。」

 と、文次郎は呟くように言った。三木ヱ門は彼の言葉を俯きながら聞いていた。これがきっと最後の言葉なのだと、必死になって聞いた。

「なるべく起きていたいと、思って、な。…俺の二つ上の先輩を覚えているか。」

 三木ヱ門は頷いた。彼にすれば、四つ上の先輩だ。その先輩のことはよくよく覚えていた。潮江と似ていてすぐに鍛練、鍛練という人だったと懐かしく思う。すっときれたような細い目が、幼いあの頃は恐ろしく思えてならなかった。

「あの方が春に卒業されてから、俺は焦ってばかりだった。何かする度に苦い思いをした。それでようやく己の中に自分しか見えていなかったことに気がついて、俺はお前たちをどうやってまとめればいいか分からなかった。」

 三木ヱ門は、はっと文次郎を見上げた。自分しか見えていないという時期が、彼にもあったのだろうか。こんなにも頼りがいのある人が、焦りなど抱くことがあるのだろうか。二年前に文次郎が抱いた焦りや不安はまさに、三木ヱ門と同じなのだ。文次郎に焦りや不安があったなど信じられない。と驚きを隠せない。
 文次郎は三木ヱ門の困惑したような視線に気づくと、懐かしむような眼差しで受け止めた。

「お前も、そうなのか。」

 三木ヱ門は頷いた。文次郎にはいつでも見透かされ、越えられない壁のような存在だった。今も、身体の内から湧き上がる苦い焦りを見透かされ、三木ヱ門はまた俯いた。ユリコを繋ぐ紐を握る拳に力が入る。

「今の私では…」

 三木ヱ門は叫ぶように言った。

「今の私では、潮江先輩のようになるのはおろか、あいつらを引っ張って行くことすらできません。」

 彼は奥歯を噛みしめた。溢れる苦い毒を飲み込むように、唾を飲み込んだ。言葉にすると恐ろしいもので、それが本当にできないことに思えてくる。
 彼が自分のことばかり構うことができたのは、上の学年の先輩たちがいたからだ。文次郎や四つ上の先輩もそのまた上の先輩も、無茶苦茶なことを言う人たちばかりだった。それでも三木ヱ門にとっては、文次郎のように頼れる存在、間違いを正してくれるような人たちだったのだ。
 火器に惹かれたのも、四つ上の先輩のおかげだった。
 三木ヱ門が二年生の頃。輝くような艶やかな黒髪のその人は、潰れたような声で優しく、火縄や石火矢について教えてくれた。その火器を持つ彼のきらきらとした姿に惹かれたのだ。こんなふうに、きらきらと華麗に火器を操るような人になりたい。と。
 思い返せば、そんなふうに憧れた先輩とは程遠い。などと三木ヱ門は自嘲気味に思う。

「…今、己の器が見えているお前なら、あいつらを引っ張ることもできるさ。」

 文次郎は三木ヱ門の肩にそっと手を添えた。彼には三木ヱ門の葛藤が手に取るように分かる。
 三木ヱ門には文次郎の言っていることがさっぱり分からなかった。文次郎や先輩達のように凛々しく、皆の支えになれるような人には分からない。己を含めた今の後輩たちは、文次郎だからこそ付いてこられたのだ。文次郎の焦りと自分の焦りは全く程度の異なるものなのだ、と三木ヱ門は苛立った。彼は文次郎に視線を向けずに、また俯いていた。
 文次郎はそれ以上何も言わなかった。ただ、二年前に三木ヱ門と同じようなことを言った己を見ているようで、照れくさく思う。上に立つことの重さが、今になってようやく身の丈に合うようになったと思っていた。三木ヱ門はまだ、その重さに潰されそうになっているだけなのだろう。文次郎は今、それを乗り越え、更に大きな壁に直面している。けれど、一度経験したからだろうか、三木ヱ門のような焦りは少ない。
 文次郎は三木ヱ門の背中をそっと押した。二年前に、文次郎自身も同じように背中を押してもらったように。もう、春はすぐそこだ。

「自信を持てとは言わん。焦るなとも言わん。ただ、身を任せろ。あいつらをよく見れば、自ずと答えも見えてくる。…俺もそうだった。」

 背中を押され、三木ヱ門は文次郎をふり返った。顎で、行け。と急かされ、三木ヱ門は渋々といった様子で歩き出した。その言葉で、不安が消えたわけではない。もう少し気のきいたことでも聞かせればいいのに、と不満を思っただけだ。けれど文次郎が卒業して、三木ヱ門が卒業するまでには、今の言葉が身にしみる時がいつかくるのだ。
 その後ろ姿を見つめながら、文次郎は二つ年上の先輩を思い出した。火器を扱うのに長けていたはずなのに、黒い艶やかな長い髪を振りながら、潰れた声でよく叱られた。と懐かしく思った。あのときの先輩も、こんなふうに自分の情けない後ろ姿を見て何かを思ったのだろうか。とまた照れくさく思う。
 ようやくあのころのあなたと同じ立場に立てた。二年前のような苦い焦りは、言われた通りすっと消えていくようでした。今、雪が降るような静かな焦りは、春の仄明るい日差しのようなものになったような気がしている。
 と、文次郎はすっきりと晴れた青空を見上げながら、広い背中の面影を思い出していた。春になれば文次郎もここを巣立つのだ。



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