小説 | ナノ




 気が早い桜がぽつぽつと花をつけ出している三月の暮れのことだ。
 委員会後に私だけを呼び出した七松先輩は、いつも通りの明るい笑顔を浮かべながら、軽い口調でおっしゃった。
 「実はな、明日なんだ」
 「明日…?」
 「ああ、私たちの――六年生の卒業式。それが明日行われる」
 「……ッ!」
 何でもないような調子の言葉に、まるで鈍器で殴られたかのような衝撃を感じて絶句する。
 卒業。
 七松先輩が、この学園からいなくなるということだ。
 衝撃で唇を凍りつかせている私に、バツが悪そうに頭をかきながら先輩が謝罪する。
 「驚かせてしまったな、すまない」
 「…あ、いえ……でも、」
 「わかってるさ」
 軽く頷いて、特徴的な丸い目がすっと細められた。
 「本来なら卒業のことを後輩には伝えちゃいけない。それが忍術学園の掟だってことぐらいな」
 そうだ。それが忍術学園の掟である。
 忍者などというものは、いつ何時別れが来てもおかしくない仕事だ。それに備えるため、忍たまは六年生の卒業で最初の別離を学ぶ。先輩たちが何も言わず、そして悟らせずに突然姿を消すことで、後輩たちは突然訪れた喪失に耐える精神も、委員会などの活動を残された者だけでこなす能力も身につけることができる。そのような仕組みになっている。
 だからこそ、七松先輩の告白には余計に驚かされた。
 掟を破ったところで罰が下されるわけではない。ただ、誇りに傷がついてしまう。六年間をこの学び舎で過ごし培ってきた忍者としての誇りを汚されることは、私たちには何より耐えがたいことだ。すでに人道を踏み外した場所にいる忍たまにとって、その誇りを守ることだけが唯一の人間らしさを保てる行為と言えるのかもしれない。それを忘れたら忍など理性を忘れたただの獣、使い捨てられるだけのどうしようもない道具と同じなのだ。だからこそ守るためには泥水だって啜るし死すら選ぶ、掟にも服従する。
 そんな掟を、七松先輩は破ってしまった。
 なぜ? と音にならない声で尋ねると、先輩は似合わない所作で肩を竦め、「なんでだろうな」と呟いた。
 「最初は黙って行くつもりだったんだぞ。それがお前たちのためだってことは理解していたんだ。……しかし、駄目だった!」
 そう叫んで、からりと笑う。
 「滝夜叉丸、お前のことを思い出すと、どうしたって何も言わずに卒業するなんて出来なかったんだ。これが惚れた弱みってやつだな」
 長次が言っていた、と言葉を続けて、先輩が私の目をまっすぐ見つめた。先ほどから何も言えないでいる人形のような私も、無言でその瞳を見返した。
 「だから、滝夜叉丸――お前に別れを告げにきた」
 別れ。その言葉が、言葉のもつ意味が、ずんと重さを持ってこの胸にのしかかる。
 そうでしょうね、わかっていましたとも。この関係が先輩の卒業までしか続かない儚いものであるということくらい。それでも、覚悟していたつもりでも、実際に彼の口から聞かされると、想像以上に心がざわめいた。
 寂しい、悲しいと。
 「ああ、……やっぱり」
 先輩が揺らぎのような吐息を漏らし、すっと腕を伸ばす。
 「泣くと思ったんだ」
 目元をそっと拭われたことで、私は自分が涙を流していることに気がついた。
 自覚した途端に瞳からぼろぼろ零れる雫。頬が熱い、言葉が詰まる。
 きっと今までにないくらい醜い相好を晒しているだろうに、そんな私を見て困ったように、けれど優しく微笑んでいる七松先輩が視界に入って、緊張を保っていた糸がとうとうぷつりと切れてしまった。
 「……ななまつせんぱい…っ!」
 涙に歪んだ声で叫んで、緑色の胸に飛び込む。支えるようにしっかりと回された腕が暖かくて力強かったことが余計に涙を誘った。
 あの笑顔を見るとどうしても昔に引き戻されてしまう。まだ一年生だったころ、七松先輩と出会ったばかりの、まだ泣き虫だった私に戻ってしまうのだ。先輩のあやし方だって寸分違わず同じだった。
 「たーき、泣くな、泣くな。もう四年生だろう?」
 二人きりのときしか使われない呼び方でそう囁いて、とんとん背中を叩かれる。子供を寝かしつけるような所作ではあるが、赤ん坊のように泣きじゃくっている今の私には調度よいのかもしれない。実際に涙の勢いが緩まり、だんだんと心は落ち着いてきた。
 「泣きやまないとお手玉にしてやるぞ?」
 「……それは、勘弁願います」
 先輩の冗談に思わず顔を上げると、黒い目と視線が絡まった。強い意志に輝く黒曜石。口にしたことは一度もなかったが、何よりも綺麗な色の瞳だといつだって思っていた。その宝石がひどい顔の私を映し、ふんわり細められる。
 「滝は綺麗だな」
 この状況で言われても嫌味にしか聞こえない。
 無意識に怪訝そうな表情でも浮かべてしまったのか、私の思っていることを察した先輩がけらけら笑った。
 「本心だぞ。滝はいつだって、どんなときだって綺麗だ。……自慢の恋人だったよ」
 だったと文末を過去形にすることで、本当にこの関係に区切りをつけようとしている彼の本気を悟って、また視界が歪む。
 そんな私の頬を両手で包みこみ、眉を下げた情けない顔で、先輩は微笑んだ。
 「頼むよ、最後くらい笑ってくれ。お前はいつでもかわいいけど、私は笑顔がいっとう好きなんだ」
 最後。そう、最後だ。これが最後。
 先輩が卒業しても、私は彼の後を追わないだろう。そのためには大きすぎるこの矜持が邪魔をする。それがどんなに愛おしい人だとしても、自分以外の誰かに生き方を委ねてしまうと、きっと私は私ではなくなってしまう。
 そして先輩もこの場所を発ったら絶対に後ろを振り向かない。ひたすら前を、未来を目指して突き進んでいく。そのようにできている人なのだ。
 その時点で、2人で共に歩める道はここまでなのだと終わりを示していた。これから先はひとりだけでも別々の道を歩いていかなければならない――それがこんなにも悲しいだなんて、今まで知らなかった。これまでの人生で味わったことのない、そしてきっとこれからも味わうことのないであろう喪失感で胸が焼け焦げそうだ。
 しかし、別れがこんなにもつらいのは、それ以上の何かを得たからなのだろう。希薄な関係が絶えたところでそれは何の傷にもならない。七松先輩に恋をして、愛し合って、きっと私は色々なものを手に入れた。形には残らないが、それでもその思い出だけで残りの一生を生きていけるような、とてつもなく素晴らしいものをいくつも先輩は私に下さった。そして私からも色々なものを受け取ったと喜んでくれた。先輩と比べると弱くて、くだらなくて、どうしようもない私にも、彼を幸福にすることができた。その事実だけで胸がつぶれそうなほどに嬉しかった。
 そのひとつが私の笑顔だと言うのなら、最後くらい、先輩に恩返しをしよう。
 嗚咽を堪え、口端を無理やり持ち上げる。ぎこちない自覚はあったが、先輩はくしゃりと顔を歪めて、出来そこないの笑顔を喜んでくれた。
 「滝夜叉丸、……滝。やっぱりお前は最高だっ!」
 ぎゅうとたくましい腕に抱きすくめられ、あまりの力強さに呼吸が出来なくなる。
 そんな私に構わず、七松先輩は大声で言葉を続けた。
 「滝、好きだ、大好きだ! 私は、お前に出会えて、幸せだった…ッ!」
 ……はい、私もです、七松先輩。あなたに出会えて、たまらなく幸せでした。
 いえ、幸せです。
 胸の内でそう答え、私は目を閉じて先輩の唇を――最後の口づけを待った。

 翌日、学園から深緑が綺麗に消えた。
 何も知らなかった後輩たちは驚き、悲しみ、うろたえた。そして掟どおり、言いようもない寂寥感に堪えながらも新しい仕組みを作ろうともがいていた。
 そんな中、私は縁側に座ってぼんやりと咲きかけの桜を眺めていた。
 ふと背後に気配を感じて振り返る。同室の綾部喜八郎が私のことを見下ろし、怪訝な顔をしていた。
 「滝夜叉丸、へん」
 「変とはなんだ、変とは」
 「だっていつもみたいに、馬鹿みたいに笑ってないよ」
 よいしょ、と当たり前のように私の隣に腰掛けた喜八郎は、普段となんら変わらない無表情であった。先輩たちの卒業に対する悲しみを隠しているのか、それとも本当になんとも思っていないのか……相変わらず読めないやつだ。
 「ああ、そうだな」
 いつもなら噛みついて否定する馬鹿みたいという表現も気にせず、私は頷く。
 昨日、先輩と別れてから、私の顔は表情を形作ることをやめてしまった。無理やり作った昨日の笑顔で打ち止めだったとでもいうような仕打ちに、しかし今は何とも思わない。
 七松先輩が本当に卒業してしまった。檻から放たれた獅子のように、この学園を飛び出していった。もう追いかけても届かないし、そもそも追いかけるつもりもない。
 きちんと別れの挨拶を告げられたとはいえ、やはり底知れない喪失感は拭えるものではなかった。
 「……ずるいよね」
 ぽつり、傍らから聞こえた呟きに反応する前に、私の肩に暖かいものが寄りかかる。
 横目でちらりと窺えば、喜八郎は拗ねたように唇を尖らせていた。
 「立花先輩、一度も僕に勝たせてはくれなかった」
 「後輩に負けるような御方ではなかっただろう」
 「わかってるよ。でも、そのせいで僕はずっと先輩を忘れられなくなっちゃった。思い出すたびにああ一度も勝てなかったんだって悔しくなるんだよ」
 先輩は、ずるい。
 めずらしく悔しそうな表情を浮かべる喜八郎が子供っぽくて面白い。笑みこそ零れなかったものの、うっすらと自分の口元が緩んでいるのに気づいて驚いた。
 私は笑顔がいっとう好きだ。先輩の言葉が脳内で蘇り、目を閉じる。
 先輩はずるい、喜八郎の言葉はその通りだ。こうしてふとしたきっかけで思い出されて、その度に焦がれてしまう。どうしたって忘れさせてくれない。
 しかし、そちらの方が好都合だ。なにせ私は七松先輩のことを忘れたくないのだから。もう会えなくても、いや、会えない人だからこそ、どんなことでも全て覚えていたい。愛していたい。
 「……滝夜叉丸、いつもみたいに笑ってよ。そうじゃないと僕まで調子が狂う」
 「ああ、待っていてくれ。……そうだな、桜が散る頃には、」
 木々が最後に見た彼と同じ色の衣を纏う頃には、あなたが好きだと言った顔で笑うから。



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