虎の威を狩る兎 | ナノ



もう一度、ばくばくと五月蝿い胸元を抑え、顔を確かめる。整った顔立ち、柔らかく跳ねる猫毛、ちょんと生えた無精髭。

間違いない。恩師そのものだ。

認識した瞬間、思考が停止し目の前が真っ白になった。全身の力が風船が萎むように急激に抜けてゆく。
その場に膝をついた。
先生の血が、僕の頬に跳ねる。

「アート!?おい!!大丈夫か!?」

ガスケさんが僕の肩を揺するが、反応が返せない。
余りに突然の出来事に、泣くことも、吐くことも出来ず、ただ呆然とする他なかった。

「大変です!」

先程、外へ駆け出した部下の一人が、資料を手に駆け戻ってきた。落ち着きがなく余程慌てていたのか、手に握っている資料はくしゃりと折れている。

「この家には子供がいたそうなのですが」

「そういや、そんなことも書いてあったな」

ふと、思い出したようにガスケさんがぼやいた。ぼんやりとした意識の中に、やけに部下の言葉が引っ掛かる。


…子供?


先生の…子供…


「ッ!!」

「お、おい、アート!?」

ーーそうだ、思い出した。
急いで顔を上げ立ち上がる。僕は何でこんなに重要なことを忘れていたのだろうか。

「その子がどうかしたのか!?」

「あ、し、死体はおろか、何処にもいないのです…!」

僕が掴み掛かると、部下は怯みながらもはっきりと言い切った。

「…誘拐、か」

「いや、まだこの家にいるかも知れない!くまなく探せ!!」

「ハイッ!!」

はやる気持ちを抑え切れず、声を荒げる。
指示を受け、走り去っていく部下を見届けると、自分も足を踏み出そうとしたところを、ガスケさんに腕を捕まれた。

「アート、いきなりどうした?お前とこの家に、一体何の関係があるんだ?」

ガスケさんがじっと僕の目を見つめる。その顔はフィルターでもかかっているように酷くぼんやりとして見えた。
考えるより先に、口が勝手に言葉を吐き出していく。

「その死体は…その男性は…僕の学生時代の恩師なんです」

「なんだと…!?」


あの日、僕は確かに先生と約束したのだ。
だからあの子は、何が何でも、僕が探し出さなければならないのだ。

「先生の子は…うさぎは、僕が必ず見つけといけないんです!そうでないと、先生との約束が…!!」

「…分かった、分かったから少し落ち着け。今のお前じゃ見つかるものも見つからん」

ポンポン、とガスケさんが僕の両肩を数回叩いた。途端に、すう、と込み上げていたものが引いていく。苦しかった息が楽になる。
再び視界に入ったガスケさんの顔は、もう霞んではいなかった。

「…すいません」

「いや、知り合いだっていうんなら無理もない。
で、だ。子供だったな」

「はい。先生によく似た女の子で、一年程前は…僕の腰に届かない位、でした…」

「…となると、逃げられる場所はいくらでもあるってわけか」

呟くガスケさんは、必死で「誘拐」以外の可能性を考えているようだった。
僕だってそう思いたくない…けれど、先程出て行ったきり、部下からの報告はない。
考えたくはないけれど…

「誘拐、されてしまったのかも―」



―…カタン



「っ!」

「アート?」


微かに…本当に微かにだが、何がぶつかるような物音が耳に飛び込んだ。


「アートさんっ!2階には―」

「待ってくれ」

叫びながら部屋へと入って来る部下を手で制し、耳に全意識を集中させる。しかし、もう物音はしない。


「誰かいるのか」


感情を含めずに、ただ問う。返事はない。


「…誰かいるのか」


もう一度、今度は声を張り上げた。窓際にあったクロゼットがはっきりと揺れた。
一直線にクロゼットの前まで行くと、少々乱暴に扉を開ける。そこには




「うさぎ…!!」


「あ…あー、と、く…っ」



小さくうずくまり、口を押さえ、恐怖に震える少女の姿があった。
その少女は、間違いなくー

「…よかった…うさぎ…っ」

「あーと、くん…なの…?」


先生の一人娘であり、先生が学園から隠し、僕に託したミニマムホルダー、うさぎだった。

怯えた双眸は、先生に、そして僕にも似た淡い紫。涙で潤む瞳の中に、僕が写りこむ。

「もう大丈夫。だから出ておいで、うさぎ」

目線を合わせ、出来るだけ優しい声で呼びかける。
瞬間、うさぎは僕に飛び付くと、声を上げて泣き出した。小さな手が僕の肩口を力一杯握り、顔は胸板に痛い位に押し付けられる。そっと背中をさすると、大きく体が跳ねた。

「…怖かったね」

その姿を見て思わず呟くと、うさぎは何度も頷いた。
怖かった、で済まされるわけがない。両親が何者かによって殺されていく様を、声を、この子はここでずっと聞いていたのだ。
自分の目にいつの間にか溜まっていた涙を拭い、振り向くと、背後では安堵の表情を浮かべるガスケさんや、部下達が僕を囲んでいた。

「…署に、子供を保護したと連絡。それから一応、救急車を」

「はいっ!」

元気よく飛び出していく部下を、少し穏やかな気持ちで見送る。
再び腕の中に目をやると、うさぎは、規則正しい吐息を漏らしながら眠っていた。

「…久しぶりだね」

さらり、と先生と同じ色素の薄い猫毛を撫でる。


…こんな形で、再会したくなかったけれど。


続く言葉を心中へとしまい込み、立ち上がると、ガスケさんが呼ぶ家の外へと駆け出した。




これは一人の少女から始まる

「覚悟」と「エゴ」の物語。



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