「殺人事件?」
出社して直ぐに耳にした物騒な響きに、思わず顔をしかめる。何度聞いても慣れない、嫌な言葉だ。
「はい、直ぐに現場に向かうようにと」
「分かった。準備が済み次第、急行する」
デスクに荷物を放り出し、ジャケットの襟元を正すと、急ぎ足で部屋を出た。今しがた登って来た階段を急降下しながらひとりごちる。
ああ、朝から何て日だ。
△▼
「おう」
「早いですね」
小走りに駐車場に行くと、見知った顔が車にもたれ掛かり、紫煙を燻らせていた。
ガスケさん
表向きは僕の部下ということになっているが、実際は何かと助言をくれる、言わば先生的なベテランの刑事だ。
「年寄りは早起きなもんでね」
どこか皮肉めいた台詞を吐きつつ、ガスケさんは助手席へと乗り込んだ。ハンドルは僕。いつもと変わらないこと。
「詳細を教えて貰ってもいいですか?何せ出社した直後に言われたので、何も聞かされていなくて」
「ああ、昨日夜中に、隣家から叫び声がしたとの通報が入ってな。扉には鍵が掛かっていて、入れなかったらしい。近場にいた警官が駆けつけたんだが…窓から覗いてみると、家主とその妻が居間に転がってたんだと。」
「その二人が、被害者ですか?」
「そうらしいな。それからその殺され方がーー
っと、ここで止めてくれ」
ガスケさんが煙草で一軒の家を指した。何てことのない、ただの洋風の民家。家族四人程であれば十分に暮らせそうな大きさだ。
昨日までは普通に、周りと同じようにひっそりと佇んでいたであろう住宅だが、今は危険を表す色のテープが目に痛々しい。
「あ、アート警部。お疲れ様です」
「おはよう、中の様子は?」
ポーチにいた一人の刑事に話し掛けた。一瞬前の締まった顔は何処へやら、僕の問いに若い刑事は眉を八の字にし、今にも泣きそうな顔になる。
「それが…取り敢えず入って下さい」
「…行くか」
ガスケさんが緊張を孕んだ声で呟く。僕も気を引き締め、後について玄関の敷居を跨いだ。
「…っひどい、な」
一歩踏み入れるだけで漂うあまりの生々しい臭いに、思わず口元を手で覆う。血の臭い…だけなのだろうか。何か色々な臭いがグロテスクに絡み合っている。一歩、また一歩と進む度に吐き気が込み上げて来る。
ここまで酷い現場は、今まで経験したことがなかった。
「この先が現場ですが…」
「開けてくれ」
「ですが―」
「、早く」
「…分かりました」
扉の前で、先に来ていた部下が開けるのを渋った。しかし、ここまで来て引き返す訳にも行かない。
臭いの所為だろうか、先程から何故か焦りを覚える。
それだけじゃない。
何か、何か嫌な予感がする。
ぼんやりとした、釈然としないような、そんな不安を掻き立てられる。
ゆっくりと、やけに仰々しくドアノブがひねられた。
後ろで後から来た新米や、部下達の唾を飲み込む音が聞こえる。
「ここが、現場です…」
「ーーっ!!」
一人、また一人、後ろにいた奴らがバタバタと外へ逃げていく。えずく声、吐き出される音。
そりゃあ…これを見たらそうなる方が自然だろう。
遺体は頭部が開かれ、その中にあるはずの脳はなく、ぽっかりと穴が開いていた。
「…こいつは一体」
ガスケさんも愕然とした表情で、そう呟いた。
しかし僕は、別の理由で驚いていた。何故なら、その脳をくり抜かれて床に転がっているその人は
「…せん、せい?」
僕の恩師だったのだ。
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