全く、大変なことを引き受けてしまった。
ふう、と息を吐き出すと、コーヒーカップに口を付けた。 なんの変哲もない平日の昼間の、大通りのカフェテラス。海岸に沿って作られたそこからは、日の光を受けて輝く真っ青な海を一望できる、この辺では人気の高い場所だ。 仲睦まじく向かい合い囁き合うカップル。元気に走り回り母親の手を焼く子供。楽しげに会話に花を咲かせている主婦達。 真逆こんな平穏という言葉をそのまま形にしたようなところに、ポート・マフィアの構成員がいるなんて、誰が思うだろうか。
カップを降ろすと共に心を落ち着け、もう一度、現段階で出揃っている情報を確認する。
一昨日の事だった。頭領が仕事を頼もうと接触を試みるも、何回、どんな手を使っても連絡を取ることは出来なかったらしい。その後、組織内総出で探したが、情報は何一つ掴めなかった。 即ち、失踪。 諜報員だということ以外は、名前、容姿共に不明。声は男だったそうだが、変声器を使えば、声なんて幾らでも変えられる。 つまりは性別すらも不明。
…そもそも諜報員なんて、素性の、得体の知れない奴ばかりだ。これを機に、少しは構成員を見直した方がいいんじゃないだろうか。
組織内で自身を知っていた者や、親しくしていた人間、自身についての情報は、ありとあらゆる手を使って全て消し去っていた。これはもう、逃走とみて間違いないだろう。 一部の臓器密売組織や武器商人―つまりうちの得意先ーの情報と、此方で断罪するつもりでいた、独自で取り引きを行っている調達人の情報を持ち出し、既にその情報の一部は警察の手に渡っているらしい。 今朝の朝刊に逮捕情報が載っていた。警察も莫迦には出来ないな。
今回の私の仕事は、そんな裏切り者の彼、又は彼女の始末…なのだが
「…結局、本人に関する情報は、何一つ判っていないじゃないか」
何時もなら半日で片が付くのに、と首領の前で遠回しにぼやいたところ、皮肉なことに、現在、私が追っている裏切り者の御蔭だったらしい。
そもそも、彼、又は彼女の目的は?警察に情報を渡すのが目的なのだろうか?少しでも罪から逃れたいのだろうか?マフィアが嫌になった? 身を隠すのがそうも上手いのなら捕まる心配はないだろうに、何故。 考えているときりがない。
「却説、一体何時までかかることやら…」
「お疲れ様です」
座ったまま伸びをしているところに不意に話し掛けられ、一瞬身構える。…ああ、よかった。敵だったら今頃、背中に大穴が空いていただろうね。
「驚かせてしまったかしら?」
「ええまあ、気が緩んでいたので」
心配そうな顔をする女性。ブロンドのような色合いの髪に、ふわふわとしたドレスワンピースが良く似合っている。
「またお仕事ですか?」
「ええ、京一さんは?」
「私は、お散歩をしてたら太宰さんが見えたので」
そう云って悪戯っぽく笑うと、女性―京一さんはカップを机に置いた。
「ご一緒していいかしら?」
「どうぞ、貴女が来る気がして、椅子をとっておきました」
「まあ、嬉しい」
対面にある木製の椅子から外套を取り、彼女のために椅子をひく。彼女は両手の平を打ち合わせ、意気揚々と椅子に座った。
彼女との出会いもこうだった。
△▼
「ご一緒していいかしら?」
「えっ」
私が太宰さんと知り合ったのは、一年程前の事だ。今日のように、こうして私から話しかけた。
「探したのだけど、開いてる席がなくて…ここ、借りてもいいですか?」
「そういうことなら、どうぞ」
太宰さんは、困惑しながらも外套を取り、椅子を貸してくれた。 それから、他愛もない話をしていくうちに仲良くなり、以来こうして、たまにここで会うのである。
「大変そうですね」
「今回は長引きそうです」
太宰さんが苦笑した。何の仕事か、なんて野暮な事は聞かない。男性は自分の私情に頸を突っ込まれるのを極端に嫌う人が多い、と、昨日読んだ雑誌に書いてあったのを思い出した。
「頑張って下さい…ああ、でも、無理はなさらないでね。お身体には気を付けて」
「ありがとうございます。京一さんも、お仕事大変なんですよね。其方こそお気をつけて」
「ふふ、ありがとう」
私も彼には仕事の話はしない。なんとなく、其れが二人の規約になっていた。 相手を労い合った後は、最近の世間話。 何処で事件があったとか、駅前に新しく出来た百貨店の話だとか、そういう極ありふれた話。
「おっと、そろそろ行かなくては。上司に怒られてしまいますから」
「行ってらっしゃい。早く片付くといいですね」
「其方もね」
去って行く太宰さんの背を眺めながら、そっと飲み込んだ珈琲は、何だか何時もより苦かった。
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