幕間
「シャワー、どうもありがとうございました」
「あ、いえ……どうぞ、座ってください。お腹空いてますよね」
レースカーテンから差し込む朝日が、所在無げにリビングの入口にたたずむリシさんの姿をくっきりと照らしていた。ぬれた髪の先から、ぽたりと雫がおちて肩に垂らしたフェイスタオルを湿らせている。
気まずさを隠しきれていない彼を、ほら、と再び促すと、スリッパをパタリパタリと鳴らしながら、彼はゆっくりと小さな食卓の椅子へと腰を下ろしてくれた。こんなに頼りなげに見えるリシさんの姿を目の当たりにするのは初めてで、少し可笑しい。いつもの、とびきり頼もしい堂々とした振る舞いはすっかりを形を潜め、まるで借りてきた猫のような大人しさである。初めて見るリシさんの一面に、どうしてかこんなにも安心している自分が意外だった。これから、全てを委ね守ってもらおうと決意した相手だというのに、不完全なさまを見てほっとするなど、矛盾しているにもほどがあるだろうに。頭ではそう考えているけれど、昨日『縋りたい』と切望していた心が、そんなちぐはぐな気持ちを許していた。
「ちゃんとした朝食を頂くなんて、久しぶりです」
ようやく食卓に着いてくれたリシさんが、テーブルに並んだ質素な朝ごはんを見てやっと笑ってくれた。
昨夜は車中でほぼ寝ずの番をしてくれていた彼へのささやかな感謝の気持ちとして、私は改めて彼を自分の部屋へと招いたのだ。さすがに申し訳ない、と渋る彼を半ば無理やりバスルームに押し込めて、シャワーを浴びてもらっている間にパンと卵を焼いた。いつもはそこにベーコンも焼いて一緒に食べるのだけれど、彼の食事について詳しくないため、肉は避けた。一日の初めに普段なら朝一杯だけ入れるコーヒーも、今朝は二人分だ。
「いつもは食べないんですか?」
「家ではほとんど。職場についてからコーヒーと、クッキーか何かつまんで終わりです」
「それ、ごはんて言わないんじゃ……」
「朝に弱いんです」
はは、と小さく苦笑いをこぼす彼が、急にまた幼く見える。普段は市民の安全を守る立派な警察官である彼も、こうして普通の会話を交わせば、ただの年相応の青年ということだろうか。まあ、そんな彼に対してみっともなく泣いて縋り付いていたどうしようもない大人が、ほかでもないこの私なのだけれども。
「コーヒー、おいしいですね」
マグカップに口を付けたリシさんが、ほう、とため息をついて言った。
分厚く切ったトーストに、四角いバターを滑らせながら、私も静かにコーヒーをすする。鼻腔に上る湯気の香りが、寝不足の頭をすこしだけすっきりと晴らしてくれるようだ。ゆらゆら白い幕の向こう、リシさんは、以前ホーカーズで食事を共にしていた時にもしていたように、しばしの間目を閉じて小さく祈りを口ずさむ。神聖で、厳かで、美しい光景だ。この人はきっと、あらゆるものに感謝しながら、日々を大切に生きる人なのだ。そうしている姿を見ていると、なんの疑いもなくそんな風に思ってしまうのが、不思議だった。
ちまちまとパンに噛り付いて食べる私とは対照的に、ひとたび食事を始めれば彼はばくりばくりと大きな口で物を食べる人だということが分かった。私が何口にも分けて食べるパンも、ほんの四、五口。せっかく上手に焼けたサニーサイドアップの目玉焼きだって二口。頬を膨らませてもぐもぐ一生懸命咀嚼する様子にぼんやりと見とれているうちに、彼の食事はあっという間に終わってしまった。その間、多分五分にも満たない。思わず呆けた顔で彼を見ると、彼は頬に残った食べ物をもぐもぐと必死に噛みながら、ふと口元を隠して俯いた。まさか、照れている、のだろうか。思えば、こんな風に落ち着いて彼のことを見るのも初めてだ。
「な、なんですか。なにかおかしなことでも?」
ごくん、と音が聞こえそうなほどしっかり食べ物を飲み下し、リシさんが急に慌てた様子で口を開いた。というより、やっぱり少し照れているように見える。
「いえ、なにも……食べるの速いなあと、思って」
「それは、すみません」
取り繕うような場面でもないかと思った私が、思ったことを素直に口にすると、思いがけずリシさんは気まずそうなかおをする。なにをそんなに慌てているのか。あまりにじろじろ見つめすぎたのがよくなかったか。私はこれといった正解にたどり着くことが出来ないまま、条件反射のように、彼に倣ってこちらこそすみませんと頭を小さく下げた。
最初の通報の時から数えれば、ここに来た回数自体はもう三、四回目になるが、こんな風にただの人と人として膝を向き合わせていることが、今更ながら新鮮だった。
ふたたび漂う沈黙に身を任せつつ、さくさく音を立てて焼いたパンを食べ進めていると、リシさんはそわそわした様子で何度もコーヒーのカップに口を付けた。もうとっくに空になっているだろうに、彼はそれを言い出さない。
「おかわり、淹れましょうか」
ことん、とテーブルにカップが置かれたタイミングで中を盗み見れば案の定、底が見えていたので、私は何の気なしにそう言った。
「え、いや、すみません。あの……お願いします」
一瞬、カップの取っ手を握りしめたままのリシさんがせわしなく口をパクパク動かしていたけれど、最後はおとなしく観念したように、空になったそれを差し出した。
…………やっぱり、無理やり誘ったのがまずかっただろうか。
空のカップを片手に、キッチンでコーヒーの支度をしながらふと考える。今までの、そしてこれからに対する感謝が、少しでも伝わればいいと思っただけだった。そしてほんの少しだけ、彼の人となりを深く教えてほしかった。ただ、そんな単純な気持ちからこうして朝餉に誘ってみたものの、もしかしてとんだ迷惑だったのだろうか。これほど所在無げにされてしまうと、好奇心や興味はとうに通り越して、だんだんと申し訳なさが募ってくる。
淹れたコーヒーを携え、ふとリビングの彼の姿に目をやると、相変わらずぴっと背を伸ばしたお手本のような姿勢で座っていた。
「おまたせしました、どうぞ」
「すみません。ありがとうございます」
「いえ……」
湯気を立ち昇らせるコーヒーに、用心深くふうふうと息を吹きかけながら、新しいコーヒーを小さくすする。……もうあまり見つめすぎないようにしよう、と私は意識的にリシさんから視線を逸らし、お皿の上の目玉焼きを睨みつける。つぶれた黄身がこぼれないよう白身で包み、お箸でつまみ上げ、急いで口へと運んだ。ねっとりとした卵の触感と、我ながら絶妙な塩気を舌の上で楽しみながらおそるおそる一瞬だけ視線をあげてみると、彼はもくもくとコーヒーと向き合っている様子だった。
「あの、リシさん……ご迷惑、でした?」
「え?」
「ちょっと無理やり誘いすぎたかなと、反省してるんですが……」
このままずっと黙っているにも限界がある。出過ぎた真似だったのであれば今後改めようと、私は恐る恐る彼に問いかけた。
「いえ、そんなことは。ただ少し、あの……緊張して」
「緊張、ですか?」
「だって、それは……仕事目的でもなく一人暮らしの女性の部屋に上がるなんて、なかなか無いことですから」
「え……」
どんどんか細く絞られていく声のボリュームは、しまいには蚊の鳴く声よりも弱弱しくなっていく。かろうじて聞き取れた内容を頭の中で反芻し、あまりの意外な答えに思わず間の抜けた声とともに口をぽかりと開けてしまった。それ以上のリアクションをとれなくなった私を、じと、と横目で確認したリシさんが眉間にしわを寄せるのが分かった。
「笑わないでください」
「わ、笑ってなんて……」
「その口の端を上げた顔を、この国では笑ってるというんですよ」
「やっぱり怒ってるんですか?」
「……困っているんです、見てわかりませんか」
額に軽く手を添えて、リシさんが「はあ」と大きなため息を漏らす。今しがた、笑っていると指摘された自分の顔に手を当ててみると、確かに両の口角の位置が心なしか普段よりも高い。
照れ隠しなのか、カップに残っていたコーヒーをぐいと傾け、一気にあおる喉につい目がいった。ぽっこり浮き出た骨が、とくりと上下に動く様が、確かにこの人が、大人の男性であることを感じさせる。けれどその顔はあまりに幼く、たどたどしい声で「緊張する」だなんて言葉を吐き出す様子とどうにも似つかわしくなくて、また笑いそうになってしまった。
「そもそもあなた、無防備すぎやしませんか? ほかの男もこんな風に気軽に家に上げたりするんですか?」
「え、いえ、そんなことないです……そんな機会もないですし」
「そういうことではなくて」
彼の語気が、不意に強まる。
「あなたは狙われているかもしれない。僕、以前ちゃんとそう言いましたね?」
「そうですけど、でも、リシさんですし……」
視線を斜め下に俯けたまま、リシさんがまくしたてるような早口で言う声に半ば圧されつつ、苦し紛れの返答を返す。私が言葉に詰まったところでリシさんがやっと顔をあげて、なんだか久しぶりに、ようやく彼と目があった。彼は先の言葉の通り、ずいぶん困ったように、眉の両端を下げていた。
「では、しばらく同じようなことは控えてください。たとえ親しい友人でも」
「あなたでも?」
「……必要に応じて」
「ふふ」
「あ、そうやってまた笑って」
「だって」
だって。こんな風に、無邪気ないたずら心に身を任せて人と話すことなど、本当に久しぶりだったのだ。思えば、もう何年も背伸びばかりして、大人のふりをしている間に本当に大人と呼ばれる年齢になって、背伸びをする前の自分がどんな風だったも思い出せない。こうしてこの国に来てからは、年の近い人たちや、少し上の人たちまで、ほとんどが仕事上の部下になってしまっていた。プライベートを共に過ごせる友達もほんの一握りはできたものの、やはりどこか一枚の隔たりを感じてしまう。それは、言葉のことであったり、文化のことであったり、思想のことであったりする。
そんな日常に、図らずも舞い込んだこの瞬間を、とても嬉しく有難く思っている自分がいるのだ。
思えば、ここ数日の間はいくつも怖い目に遭った。こんな悠長なことを言っている場合ではないのかもしれない。自分でも、なんてのんきなことだと呆れてしまう。それでも目の前の頼もしい人が、急に素のような顔を見せてくれたことが、どうにもたまならなく、うれしいのだ。
「少し、リシさんに近づけたようで、うれしいんです」
こんな気持ちを、どうやって説明したらいいのだろう。私は、考えあぐねた末に、そう口にした。
リシさんは意外そうに一瞬目を見開いて、それからふっと小さく笑い、いつもの見慣れた微笑をこぼす。その顔に、さきほどまでの困ったり慌てたりした表情は、無いように見えた。
「……卵、口についてますよ」
ふふ、と柔らかな笑い声を漏らしながら、彼が言った。ちょんちょん、と自分の口の端を指さしながら、私の顔を見る。思わず「え!」と声を上げ、テーブルに置かれたティッシュに慌てて手を伸ばした。口元をぬぐったティッシュに、黄色く卵の黄身がついたのを凝視する私を見て、彼はますます笑った。
こんなふうに、何でもないことで笑う人なのか。
私は、小さく一つ咳ばらいをして、心の奥のほうをつつかれるようなくすぐったい心地に蓋をした。
くらくらと視界がまぶしいことには気が付かないままでいたかった。だってこんな、あまりにも。
「朝食、ごちそうさまでした。おいしかったです」
「いえ、お粗末さまでした」
お互い空になった食器を前に、小さく手を合わせて挨拶をする。そうしてようやく取り戻した平穏は、食べ始めた最初よりもずっと心地の良いもののように感じた。そう思うのはリシさんも同じであるのか、それまでぴしっと行儀よく伸びていた背がゆったりと背もたれに預けられている。
「そういえば、気になっていたことがあるんですけど」
「はい?」
「リシさん……おいくつなんですか?」
「……あなたと同じ、二十八ですよ」
「え!?」
「なんですか、その反応は……」
のんびりした空気に、今なら聞けると思い切って切り出した質問の答えがあまりに意外で、私は重ねて片付けようと持ち上げた食器をガチャンとテーブルに落としてしまった。ああ大丈夫ですか、と手を伸ばすリシさんの顔をまじまじと見つめ、やはり信じられないと息をのむ。その反応が癇に障ったのか、リシさんがむっと唇を尖らせて私の視線を受け止めた。
「若くて不安ですか? これでも僕は犯罪心理学を学んでいて、普通の警察官に比べれば知識や経験も……」
「いえ、そうじゃなくて」
「じゃあなんです」
「……ずっと年下なのかな、って、思ってて」
「はい?」
かっと見開かれた目があまりにも凄みを帯びており、思わず一瞬たじろいでしまう。そんなにいけないことを言っただろうか、と冷や汗を垂らしていると、彼はまた長い長い溜息をじっとり吐き出した。
「よく言われますよ」
「やっぱり」
「でも、そっくりそのままあなたにお返しします」
「えっ」
「まさかあの日本の大企業で、役職までついた歳の女性には見えませんよ」
「よ……よく、言われます」
「そうでしょう」
最後は、ふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らされ、なんだか狐につままれたような気分であった。おそらく、最初の聴取の時に渡した会社の名刺を見てのことだろう。
同い年か。二十八歳。本当に? と、改めて疑ってしまうほど、やっぱり彼の顔立ちは若い。同じ職場の現地クルーで同い年くらいの男性を思い浮かべてみても、ちょっと比にならない若々しさだ。肌の色や名前から察するに、インドの系統なのだろうが、ならなおさら若く見える。この年でも豊かな髭を蓄えた貫禄のある同僚も大勢いる。ああそうか、確か、お父さんが日本人だと言っていたような気もする。どおりで、やっぱり日本人らしい顔立ちとはえてして若く見えてしまうものだということか。
「まあ、年齢はどうあれ」
かたん、と椅子を鳴らし、リシさんがふと居住まいをただす。
「守るという役目は、きっちりと果たしますから、安心してください」
真剣な表情で、見つめられる。
私が、泣きながら縋りついた頼もしい表情だ。若い顔立ちと思っていても、この頼もしさを前にすると私の心はどうにも幼くなってしまう。手を伸ばして、庇護を求めてしまいたくなるのだ。
「はい」
ゆっくりと頷きながら、私は再び伸びてくる彼の右手に、自らの右手を重ねた。
2019/05/22