月の結び
にぎやかだった街並みもいつの間にか静けさを取り戻し、ともる明かりもまばらになっていた。路肩に停めてあったリシさんの車に乗せられて、私はゆっくり呼吸が落ち着くのを待った。チカチカとハザードランプの点滅に合わせて響く微かな音に耳を澄ましていると、だんだんと毛羽立っていた心が落ち着いていく。泣き疲れてぐったり重たい身体をシートに沈めながら、一台、二台、と流れていく車のヘッドライトの明かりをぼんやりと眺めた。ふいに肌に伝わる空気の揺れる気配にハッとする。いつしか感じたエキゾチックな花の香りが、記憶と鼻腔をやさしく甘くくすぐった。その香りに、たまらない安心感を覚えているのが、我ながら不思議である。ずぶずぶ深みにはまり込んでいくような、柔らかな真綿にくるまれるような。そんな得も言われぬ心地が、正常にものを判断することを難しくさせる。
「落ち着いてきましたか?」
「はい、だいぶ……」
子どものように泣きじゃくって、掠れる返事しかできない私に、彼はいつまでも慈悲深いような目を向けてくれていた。泣きすぎたせいでしびれる脳みそが、なにかちゃんとしたセリフをひねり出そうとする私のことをどうにも邪魔して仕方がない。
ふと自分の手を見下ろすと、甲のあたりが落ちたマスカラで黒く汚れていた。この分では、顔もひどい有様だろう。見なくたって分かる。
「……すみません」
年甲斐もなく公衆の面前でべそべそ泣いて、本当にみっともないところを見せた。なかなかこれに勝る醜態も無かろうが、それでも正気を取り戻してきた頭が何とか大人を取り繕おうとやっきになる。
ひどい顔を見せるのも恥ずかしくて、膝に乗せた自分の指ばかり見ながら早口で言うと、隣から短く吐く息の音がして、ますます恥ずかしくなった。呆れられただろうか、笑われているだろうか。彼の表情が分からず、いたたまれない。
「怖かったですよね……遅くなってすみませんでした」
「え、と」
ごそ、と布のずれる音がして、ワンテンポ遅れて花の香りの空気が揺れる。指先から掌、そして腕まで、暖かい体温が私の背中に触れるのをやけにゆっくり感じながら、私は吐く息を思わず止めた。
「守るといいながら、怖い思いをさせてすみません。警察官失格ですね、僕は」
「いえ、そんなこと。こうして来てくれただけで、私は……」
「……あなたはとても優しい人だ」
ぽん、ぽん、とゆっくりとしたリズムで私の背を叩く彼の手に、思わずため息が漏れた。とろんと瞼が下がりそうになる。先ほどまでは、泣き疲れてしびれていた脳みそが、また別のなにかのせいでぼんやりとぼやけていく。リシさんのやわらかい声が心地よく耳の奥を撫ぜるに任せて、私は詰めていた息を一つ二つとゆっくりゆっくり吸っては吐いた。とめどなく溢れていた嗚咽も涙も、いつの間にかすっかりおさまっていた。
「顔をあげて」
見られたくないとあんなに思っていたのに、静かにそう言われた私は何の抵抗もできずに自ら顔をあげていた。熱に浮かされた時のように、視界の端がちらちら明るく揺れている。リシさんの顔を見ると、彼は眉尻を少し下げ、くすりと軽い息を漏らしながら苦笑いを浮かべていた。
「ひどい顔ですね」
遠慮ない言葉と裏腹に、彼の表情はひどく優しく、頬に触れる掌の温度はとろけるように仄あたたかい。きゅ、と親指で左右の目の下をぬぐわれて、思わず目を閉じた。ふたたび目を開けた時、リシさんの指の腹が取れたメイクで黒く汚れているのが見え、気恥ずかしさで目が泳いだ。
「さあ、帰りましょう。家まで送ります」
リシさんはそう言うと、慣れた手つきでハザードを消し、サイドブレーキを下げて静かに車を発進させた。滑るように夜の街を走りだす車の加速を体に感じながら、私は窓の外に流れる眠った街並みを見つめることしかできなかった。
本来なら、今すぐにでも色々な事情を伝えるべきなのだと知りつつも、道中なにも訊かない彼の優しさに甘えた。電源を切られ、じっと沈黙を貫くスマホが、開いたカバンの隙間から見えたけれど、もうその物自体を怖いと思う気持ちも落ち着いている。一人だったらどうだっただろう。あのパニックを抱えたまま、この夜を越せただろうか。沈黙の漂う車内でひとりそんなことを考えていると、ふいに先ほどの恐怖がつま先からぞわぞわと駆け上ってくる心地で身体がすくんだ。めざとい彼のこと、そんな私の小さな変化にも気が付いてくれたのか、じっと口を閉ざしたまま、やけに明るいR&Bの流れるラジオをかけ始めてくれた。
車を降りる間際、リシさんはすっかり意気消沈している私の背をもう一度そろりと撫でおろし、「今晩は安心して眠ってください」と優しく言った。
結局この晩、私はきちんと彼にお礼を伝えることすらできなかった。
マンションの下まで車で送ってもらい、おずおずと自室までたどり着くと、当然ながら、そこには見慣れた我が家が待っていた。スマホの電源を入れる勇気はさすがになくて、気にならないよう敢えてカバンから出さずにクロゼットの中にしまい込んだ。
なかなか寝付けない夜だった。目の前に広がるいつも通りの景色もなんだか嘘くさく見えて、何度も寝返りを繰り返す。普段ならば全く気にならない程度の物音や明かりが気になってしまい、ひどい寝苦しさに小さくあえぐ。歪んだカーテンレールの上の隙間から、差し込む月明かりさえ神経に障り、だんだんと呼吸が浅くなった。気を抜くと、ざわざわと足元から黒っぽい不安に飲み込まれてしまいそうだ。早く朝になれ、明日になれ。そう念じながらベッドの中で浮き沈みする意識をごろごろ持て余していると、壁に掛けた時計は早くも深夜三時を示していた。
眠れない。身体は疲れているはずなのに、なかなか眠りに落ちることが出来ない。
観念した私は、そろりとベッドから足を出し、ゆっくりと床を踏む。裸足のつま先に、硬い石の床の冷たさを感じる。毎夜毎朝、この瞬間は言いようのない心地に苛まれるのだ。それは、こうして不安定な心の今こそ一層如実に迫りくる。
ここは生まれ育った日本ではないのだ。ここに、私のあるべき場所はないのだ。私が心を預けて安らげる場所も人も、ここには何一つないのだ。と。
足裏に石の硬さを感じながら、は、は、と息苦しさに体が震えた。いやだな。帰りたい。なんの心配もなかった日常に、なんの恐ろしさも知らない自分に。
額にべったりとかいていた汗を手の甲で拭いながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ベランダに続く窓を開けた。少し夜風にあたり、汗を乾かしてから眠ろう。
サンダルを履いてベランダに歩み出ると、そよそよと柔らかな風が心地よく頬を撫ぜた。湿り気のない、爽やかな風。空もよく晴れていて、月も星もよく見える夜だ。
「え…………」
ふいに視線を下に落としてみると、そこには白いハッチバックが静かに一台停まっていた。まさか。とくん、と小さく心臓が脈を打つ。
あの車、リシさんの車だ。
上から見下ろすのは初めてのことであったが、あの形と、あの色、同じ車種で間違いない。
それに気づいた途端、脳裏に先ほど別れ際に言われた彼のセリフがよみがえる。
――安心して眠ってください。
きっとほんの気休めだろう、と気にも留めなかった彼の言葉に、こんな感謝をすることになるなんて。笑えばいいのか泣けばいいのか、なんだかよく分からなくなってしまう。
先ほどまでは忌々しくも感じていた銀色の月の明るさを眺めながら、私は二口三口と冷たい水をのどに流し込んだ。こうして見れば、なんとも美しい銀の月夜じゃないか。
眠ろう。あの人がこの夜の静けさを守ってくれるというのなら、今の私がすべきは安心して眠り、次の朝を迎える以外にない。
こんこん、と控えめに運転席の窓をノックすると、中でシートを倒し横になっていた身体がのっそりと動いた。
もともと柔和な顔つきをしている人だが、寝起きの顔はますます幼く、いつものふたつみっつは若く見える。車の窓から覗き込む私の方に視線を寄越して数秒、最初はぼっとした様子だった彼が、急に眼を見開き身体を起こすので、こっちまで驚いてしまった。優しく微笑んでいるときには見えない、小さな瞳の三白眼と視線がしっかり絡み合う。
「なんでここに」と、おそらくそんなことを言っている様子だが、窓ガラスを隔てているせいで正確には何を言われているのかが分からなかった。パクパク金魚のように口を懸命に動かしている様子は、失礼ながら少しかわいらしい。褐色の肌にあっても見て取れるほど、彼の頬がほの赤いことにも気が付いた。あんまり慌てて見せる彼に、ほんの少し申し訳ない気持ちを抱きながら、私は小さく車内の彼に会釈する。
昨夜はあれから、眠れず過ごした時間が嘘のように安らかに眠ることが出来た。目覚めたのはいつもよりも少し早く、まもなく六時になろうというころだ。
まだ、あの車は停まっているだろうか。起きてすぐに頭に過ぎるのは、夜、ベランダから見下ろした先にあった光景だった。あの車は、きっと彼のものに違いないという、根拠のない確信があった。ふたたびベランダに出て下を見下ろしてみると、昨夜と変わらぬ姿がそこにある。
私に知らせることもなく、ただ黙然と控えているような光景に、思わず胸の奥がぎゅっと締め付けられる心地に苦しんだ。嫌な痛みではなく、多分もう少しやわらかい、なにか。
いてもたってもいられなくなった私は、身づくろいもそこそこに、部屋着にカーディガンだけを羽織ったみっともない恰好のまま、こうしてマンションの下まで降りてきて、車内で微睡む彼のもとへと駆けつけたのであった。
「……もしかして昨夜ずっと、いてくれたんですか?」
ひとしきり驚き終えたリシさんが、慌てた様子でようやく車の窓を開けてくれた。おはようもありがとうも、もっと先にかけるべき声もあったろうと思うが、最初に出てきた言葉はそんな甘ったれたものだ。
「まいったな……あなたに見つかるつもりはなかったんですが」
頬を掻きながら、少し疲れた顔をしたリシさんがふんわりと笑う。
「あの、リシさん」
唇が一瞬言葉を探して震えた。
言おうとする一言は、たぶん一番正解なのに、少し重くて口にするのがためらわれる。自分でも、その明確な理由はうまく説明がつけられない。こんなに迷うのはなぜなのか。頑なに言葉が出ない訳はどこにあるのか。ここが終わりなのか、始まりなのか、入り口なのか、出口なのか。
ただ確かなことは、今私は、こんな天地が入れ替わるような脆弱な日常の中に、やっと縋る腕を見つけたような、幼い心持であるということだけなのだ。
はい? と穏やかな声とともに首をかしげるリシさんの目を覗き込んだ。先ほど見た彼の瞳は、何色だっただろう。
「……ありがとう、ございました」
私の言葉を聞いて、彼はまたふっとほほ笑んで見せた。
心の奥底が、ぐずぐずとまた脆くなる。とろけてこぼれ落ちそうになる。
信じても、いいのだろうか。私は彼を、信じることが出来るだろうか。
いつぞ心に問うた逡巡が再び頭をよぎる。その答えは多分、昨夜の丸い月をきれいだと思えた時にようやく決まった。
「リシさん。……私、あなたを信じます。任せます。だからどうか、よろしくおねがいします」
以前は、きちんと返せなかった明確な返事。
ここが境目だという漠然とした意識があった。いや、もしくは、もうとうに踏み込んでしまっていたのかもしれない。それでも、私は今確かにはっきりと、彼のことを信じて託そうという意思を固めたのだった。
トクトクと脈打つ心臓の鼓動を感じながら、リシさんの顔を見る。彼は、また少し驚いたように切れ長の目を薄く開け、それから再び柔らかな笑顔を見せた。
「もちろんです。僕があなたを、必ずお守りしますから」
あの日の約束をなぞるような誓いを聞いて、私はとうとう差し出される彼の右手を取ったのだった。
2019/05/20