穴
目の回るような慌ただしい二日間を過ごしたものの、その翌日からはいつも通りの毎日が待っていた。今まで通りのマンションで眠り、今まで通りの時間に起きて、今まで通りの地下鉄を使ってオフィスへと出勤する。空き巣に遭った、という短い報告しかしていなかったため、上司からはいろいろと心配をされたが、盗られたものは何もなかったということを伝えると、ようやくほっと安堵してくれたようだ。駐在先で犯罪やトラブルに巻き込まれたとあれば、報告に手続きにとなにかと面倒が多いので、その手間が最小限に収まるのを喜んでいるだけかもしれない。まあひとまず、無事職場復帰を果たした私のことを歓迎してくれたことには違いない。
あまりに今まで通りの日常だ。歪んだカーテンレールや割れてしまった食器など、いくつか目に見えて変わった部分もあるが、そのほかはおおむね元通り。こうしていざ出勤してみればそれはますます如実で、いつも通り馬鹿みたいに大量に届く業務メールに、びっしり埋まったスケジュール、どこか眠たげな顔をした現地クルーに、件の上司は相変わらずのひげ面である。この国の気候に合わせてノーネクタイスタイルのため、ビジネスルックといえどどこかラフさが目立つ。日本でも一緒に仕事をしていたことのある人だが、向こうではもう少しシャキッとした印象があったはずなのに、と首をかしげることもしばしばあった。
「災難でしたね。空巣のこと、ダイレクターから聞きましたよ。大丈夫でしたか?」
自分のデスクで、休んでいた間のメールに目を通していると、ふと後ろから声を掛けられた。現地スタッフのワンさんだった。私の二つ年下の男性だが、駐在当初から、いろいろ勝手が分からず苦労しているところをいつも助けてくれる頼もしい人だ。組織図上は上司部下という関係になってしまうものの、この人には助けられてばかりいる。
「あ、はい。結局なにも盗られていなかったので。ものすごく部屋は荒らされていたんですけど、もうだいたい片付きましたし」
「それならよかったです」
惜しげもなく白い歯を見せてニッコリと笑う彼にほっと人心地付きながら、まかせっきりにしてしまっていた数日間の業務の話を聞いた。
今日も、実に平和である。
昼休み、私はオフィスの近くにある旅行代理店のカウンターを訪れた。モルディヴ旅行の代金を納金するためである。言わずもがな、昨日無事手元に戻ってきた、きっかり二千Sドルだ。
スタッフが紙幣を数え、確かにいただきました、とニッコリ営業スマイルをこぼす様子を眺めながら、頭では別のことを考えていた。
リシさんが口にしたいくつもの言葉が、渦巻いては脳内を行き来する。こんな情緒に陥るのは実のところこれが初めてというわけではなく、眠る前、食事中、電車に揺られている時間、ことあるごとに繰り返されていた。
先般の事件。あれは、物盗りが目的ではないと彼は言った。もっと別の目的があるのだろうと。そして彼が見せたのは、私の部屋に仕掛けられていた盗聴器だという見知らぬ物体。ターゲットは、あの部屋か、私か。定かではないが、私は守られねばならないと、彼は言う。自分に任せてほしいと、彼はその手を伸ばしたのだ。
ホーカーズでの食事を終えたあと、再び部屋に戻ったリシさんは、見慣れない機械を携え部屋の中をもう一度入念に調べていた。盗聴、盗撮の類が他に無いかをチェックするとの事だったけれど、作業する間彼は何も言わなかった。ただ、度々ふと手を止めて、いくつかコンセントカバーを外してみたり、シンク下の奥の方をなにやらゴソゴソ触っていた様子だったので、全くの空振りというわけではなかったのだろう。不安にさせまいという配慮だろうが、「もう大丈夫です」という一言に込められた事実の方がよっぽど重たかった。
そんなことを思い出してしまい、せっかく取り戻した日常に、再び非日常がどろりと流れ込んでくるような心地に、思わずぎゅっと唇を引き結ぶ。
「お客様?」
「あ、すみません」
「手続きは以上です。後日、メールと郵送で旅程表をお送りします」
「ええ、どうもありがとう」
スタッフの手元に大切に置かれた封筒を見つめながら、ソワソワと気分が落ち着かなくなった。旅行への楽しみな気持ちが、こころなしかゆらゆらと揺らぐ。
カウンターの席を立ちながら、パンツのポケットに入れているスマホに触れた。
その中のアドレス帳には、新たにリシさんの連絡先が追加されている。
復帰当日の業務は、昨日ワンさんと上司に任せてしまった取引先への再訪問を最後に終わった。今度国内に出店するアパレル新店舗への融資の話をするための交渉だが、もうほとんどが決まり、あとは契約書を取り交わすだけというところまで来ている。これから忙しくなるぞ、と彼と二人、気持ちを新たにしながら先方の企業ビルを後にする。ここ最近よく仕事で訪れるこの場所は、観光スポットとしても有名な、シンガポール中心部の景色が一望できる場所にあった。夜景のキレイなスポットとしても有名な、空高くそびえ立つ人工樹の森も近くに見える。毛細血管のような奇抜なデザインの、天に垂れ込める枝を見上げながら、ほっと息をつく。日はまだ高く、ライトアップまでにはもうしばらく時間がありそうだ。
思いのほか早い終業である。そのまま家に帰ってもよかったが、せっかくここまで出てきているのだしと、ワンさんと別れてから家とは反対方向の電車に乗った。オーチャードステーションで下車し、おおきなショッピングモールへと足を踏み入れると、平日にも関わらず多くの買物客でにぎわっていた。特にあてがあるわけでもなかったが、私は気の赴くままに目についた店をそぞろに見て回った。こたびの騒動でだめになってしまった花瓶の代わりのものが欲しかったが、どうにもしっくりくるデザインのものとはめぐり合えず、ただ時間だけが刻々と過ぎていく。
壊れてしまったのは、まだ日本にいたころ悩みに悩んで買った、赤い切子硝子の花器だった。繊細な細工を施された硝子がきらきら光を乱反射する様が美しくて、かなり背伸びをした買い物だったことを思い出す。身の丈に合ったものでは到底なかっただろうと思うが、慣れ親しんだふるさとを発つ前、自分への激励として買った品だった。こんな形で手放すことになろうとは思わなかったが、まあこれも運命ということだろう。自分の身に降りかかるはずだった災難を、代わりにその身に受け止めてくれたのだと、むりやり自らをなだめすかしながらその破片を掃除機で吸い込んだのは、つい数日前の話である。
そんな調子で、結局なにも買わないまま時間はただ漠然と過ぎた。ふとウィンドウの外に目を向けると、とっくに夜の帳が降りていて、どこか大げさにも思える色とりどりのネオンサインが街を明るく照らしている。
「帰るか……」
ちょうど手に取っていたブラウスを棚に戻しながら、ぽつりとつぶやいた。思いがけずその声は低く、帰路につく自分の足取りの重いことには苦笑いが漏れる。
食欲はあまりない。たしか冷蔵庫に以前作ったおかずの残りがあったはずっだ。今日の夕飯はそれでいいかとぼんやり考えながら、私はようやく帰宅の途についた。
乗り慣れた地下鉄。通い慣れた道。見慣れたエントランスホールに、すっかり顔馴染みになったマンションのガードマン。そんなものをひとつひとつ確かめながら、丁寧に帰り道をたどるのがなんだか可笑しく、ついに部屋の扉を開けて住み慣れた部屋にたどり着いた瞬間には思わずため息混じりの笑い声が漏れた。肩や背中がひどく凝っている。平気平気と嘯きながらも一日中ずっと張りっぱなしだった緊張の糸がぷつんと切れてしまったように、ひとたびソファに沈み込んだらへとへとに疲れた身体をそのまま起こせなくなってしまった。
もういいや。一日よく頑張りました。夕飯もシャワーも、気が済むまで気持ちを休めた後にしよう。
それからさらに二日、私の生活はすこぶる平和に過ぎていく。復帰初日こそ内心びくびくしながらの外出だったものの、あまりにもいつも通りの日々が続いたために、警戒心や不安はだんだんと薄れていった。
何かあれば連絡するように、と教えられたリシさんの連絡先にも、今のところお世話にならずに済んでいる。こうしてあの日を振り返ってみても、なんだか一夜の夢であったような気さえして、あの時感じていた恐怖感や逸る心臓の鼓動も、うまく思い出せないほどだった。あれはきっと何かの間違いだったのだ。きっとこれからも、変わらず穏やかな毎日が続いていくに違いない。
「胡椒饅食べます?」
「あ、食べたい」
「はいどうぞ」
そんなこんなで、今日はようやく金曜日だ。仕事を終えてから、同僚の女の子と彼女行きつけのチャイニーズレストランで食事を楽しんでいた。彼女は私の一つ歳上の現地クルーで、生まれも育ちもここシンガポールのチャイナタウンだそうだ。普段は流ちょうな英語を話してくれるが、お店の人と話すときにはすらすらと楽し気に北京語を話している。あいにく、中国語は勉強してこなかったもので、本当に簡単な単語しかわからない私は、彼女らの会話が盛り上がっている間は、ただニコニコ笑顔を浮かべつつ相槌を打つことしか出来ないでいた。器量も良く、人好きする性格なので、店員や他の常連客とも直ぐに打ち解けている彼女の周りはいつも賑やかだった。蚊帳の外だな、と思わないでもないが、なんだか学生時代のホームステイのような気楽な雰囲気を感じるので、私は割合こんな時間も気に入っている。
お皿にとってもらったばかりの胡椒饅にちまちま噛り付きながら、楽し気な会話の様子を眺めていると、ふいにパンツのポケットに押し込んでいたスマホがブーブーと震えだした。社用とプライベート、二台あるうち、後者の方だった。
画面を見ると、知らない番号からの着信だった。フリーダイヤルではないようだが、セールスかなにかだろうか? 訝りつつも、なかなか鳴りやまない呼び出し音に折れる形で、恐る恐る電話に出る。
「……もしもし?」
電話の相手は、沈黙を貫ている。
「Hello……? Can you hear me?」
日本語の通じない相手なのかもしれない、と、言葉を変えてもう一度問いかける。しかしそれにも、返事はない。
そんな私の様子に気づき、同僚が不思議そうな表情でこちらを見つめている。無音の向こう側に耳を澄ましながら、彼女に向かって小さく肩をすくめて見せた。
「ただのいたずら電話だったみたい」
「でも、ちょっと気味が悪いですね」
結局、数十秒待ってみても一向になんのレスポンスもなかったため、私は終話ボタンを押した。なんだったんだろう。
私はこの時とくに気に留めることもなく、そのままスマホをカバンの奥へとしまい込んだ。
十分にお腹もふくれ、程よくアルコールに酔った身体を涼しい夜風にさらしながら歩く。あれからもう一時間ほど食事や会話を楽しんだあと、同僚とは店を出たところで別れた。ここから自宅マンションまでは、地下鉄を一度乗り換えてだいたい三十分くらいの道のりだ。まだ眠るには早い時間。立ち並ぶ飲食店からはまだまだ陽気な音楽が漏れ聞こえていた。私は、金曜日の浮かれた喧騒をBGMに、駅までの道をてくてく歩く。
明日は何をしよう。今週は心身ともに疲れていることだし、セントーサまで足を伸ばしてスパでリラックスするのもいいかもしれない。我ながら少し自分を甘やかしすぎているだろうか? と、この週末のことをアレコレ考えると少し胸が弾んだ。一度は崩れかけた心のバランスがゆっくり均衡を取り戻すのを感じて、ほんの少しうれしくなった。本腰を入れて買い物に出よう。この前は見つけられなかった新しい花器を探していれば、もっと気持ちが上向いてくるはずだ。そう思った。
「ん?」
もうすぐ地下鉄の駅にたどり着こうというところで、ふと肩に提げたトートバッグから微かな振動を感じて立ち止まる。気のせいかとも思い、ちょっとの間静止してみると、どうやら本当に鳴っているようだ。カバンに手を突っ込んで、底のほうをごそごそまさぐり震えるスマホを引っ張り出してみると、今度もプライベート携帯の方だった。なんだか、嫌な予感。先ほどレストランで耳に当てたスマホから流れていた長い静寂を思い出し、恐る恐る画面を確認する。と、そこには、
「……また、知らない番号」
数字の並びを見てみると、先ほどとは違うがまた私の知らない番号からの着信だった。ブー、ブー、と懸命に震え続けているスマホを手にしたまま、少し悩む。今しがたまで感じていた弾んだ気持ちも、アルコールに浮かされた心地も、何もかもがあっという間に吹き飛んでしまった。
私はそのコールに応えずに、そのまま終話ボタンを押した。
ふっと静まる端末。次の瞬間、ぱっと切り替わった画面を見て、ぞっと背筋が寒くなった。
「何、これ?」
そこには、なぜ今まで気づかなかったのだろうと思うほど大量の着信履歴が残されていた。不在着信、十五件。そのどれもが別の番号からのもので、市外局番からなにから規則性なくばらばらだ。
忘れかけていた不安が、再び津波のように押し寄せて、溺れてしまいそうな心地に足がすくむ。地下鉄入口で立ちつくす私を避けて、迷惑そうに横を通り抜けていく人波にも構っていられないほど、正気でなかった。こくりと唾を飲み込むと、まるで重たい鉛でも飲んでしまったかのように喉からみぞおちの辺りが痛む。どうしよう、どうしよう、どうしよう。全く建設的にものを考えられないところまで、私は完全に慌てふためいていた。とにかく、もうこれ以上は着信を見たくなくて、夢中で電源ボタンを長押しにする。早く切れろ早く切れろ早く切れろ。バクバク張り裂けそうな胸を押さえながら、祈るような気持ちでスマホを見つめていると、再びその画面がびかびかと光りだす。今度は、非通知の着信だった。ひっ、と飲み込んだ空気の塊が喉につかえて、息がうまく吸えなくなった。反射的に何度も終話ボタンを押下するも、震える指先ではうまく操作が出来なくて、無情にも端末はブーブーと振動を繰り返す。もういやだ、もう嫌だ、もうやめて! どうしようもなく動転したまま、思わず端末から手を離したその瞬間、右肩を誰かにたたかれる感触に、身体がすくみ上がった。
「いや……っ!!」
「落ち着いて! 僕です! 大丈夫ですから!」
「え…………?」
完全に平静を失い、思わずしゃがみ込んだ私の頭上から聞こえたのは、つい数日前にも聞いた声。流ちょうな、私の母国の言葉だった。
「リシさん……?」
相変わらずバクバクと騒がしい心臓を押さえつけながら、すっかり浅くなっていた呼吸をふうふうと整える。リシさんは、ゆっくりと私の背中をさすりながら、そばの建物の壁際まで私のことをいざなってくれた。どうしてここに? という疑問もとっさに口にする余裕もない。彼に「大丈夫」と繰り返しささやかれるうち、だんだん心臓の鼓動は落ち着きを取り戻しつつあったが、今更のように背中がじっとりと汗でぬれた。息を深く吸い、長く細く吐くのを二、三度繰り返していると、冷たくなって小刻みに震えていた指先にもだんだんと体温が戻ってくるようだった。
「落ち着きましたか?」
どのくらいの時間そうしていただろうか。気づけば、腰をかがめて私の顔を覗き込むリシさんと目が合った。控え目に笑って見せる彼の表情にどうにも安心してしまい、泣き出してしまいそうだった私は、返事の代わりにこくりと小さく一つ頷いて見せた。思わず手を離してしまったスマホは、今はおとなしく沈黙したままリシさんの手の中にある。
「もう大丈夫ですよ」
何度も言い聞かせてくれたその言葉を、もう一度はっきりと声にされると、自分の表情がくしゃっと歪んでしまうのが分かった。大の大人がこんなところでみっともない。頭の片隅ではそんな風に思うのに、極度の緊張から解放された安堵感でじわじわと視界が揺れるのをとめられなくなった。泣いているところを見られたくなくて、そっと顔を手で隠すと、リシさんはそろりと私の背をなでおろしながら、ふいと夜空を見上げ、素知らぬフリを装ってくれる。そんな彼の厚意のおかげで、私は少しの間こみ上げる涙をこらえずにこぼすことができた。
泣きじゃくりながら頭の片隅で考える。ここ数日の安寧など、臆病な自分の強がりがもたらした、仮初だったのだということを。
2019.05.18