亀裂
かさ、と何かが手に触れ、我に返る。
二人で片付けをはじめ、約三十分ほどたったころのことだ。見事にひっくり返されたチェストを引き起こし、散乱した引き出しの中身を片付け始めたところ、折り重なったファッション誌を持ち上げた下に、それはあった。
「これ……」
見覚えのある包みである。四菱の銀行ロゴの入った白い紙袋。ここにはもう無いと思っていたものだ。
「お金! リシさん、盗られてなかったです!」
昨夜、空き巣に盗まれてしまったのだと半ばあきらめかけていた、現金の入った封筒だった。思ってもみない発見に、声が少し上ずっている。札束を袋から取り出し、枚数を確認してみると先日降ろした金額二千Sドルがきっかり耳をそろえて入っていた。
「よかったー、これで旅行いけますよー」
はああ、と深い安堵のため息をつきながらその封筒を抱えてしゃがみ込む。歓喜に満ち溢れた気持ちで、傍らにたたずむリシさんを振り返る。よかったですね、と彼はまた目じりを下げている。―と、思ったが
「……リシさん?」
そんなあては外れ、じっと私を見下ろす彼は、あごの辺りを触りながら難しい顔で何か考えこんでいる様子だった。その異様な雰囲気に気圧されて、彼を呼ぶ私の声は不安に揺れる。微かにひそめられた眉間と、細められた目。唇の形が見えなくて、彼の表情の全容がつかみきれない。
「少しも、盗られてませんか?」
「え、と。はい。ちゃんと二千ドル、そろってます」
「……そうですか」
吉報では、なかっただろうか。いまだ難しい顔を崩さない彼に、なんだかいたたまれなくなりながら、私はひとまず見つけた封筒をカバンの中にそっとしまった。なんと続ければいいかが分からず、もじもじと両手の指先を絡ませていると、リシさんは静かに「続けましょう」とだけ言って、再び物の散らかった床にしゃがみこんだ。無言のプレッシャーがじりじりと肌を焦がし、まるで叱られたばかりの子どものような心もとない気分になりながら、私もおずおずと彼に倣った。
それからまた二時間。家具の位置は全て元どおりに直り、割れた食器や花瓶の破片も掃除機ですっかりきれいになった。引き出しの中はばっちり元通りとまではいかずとも、あらかたの物を元の場所に戻し終わったところである。せっかくなけなしの給料からひねり出して買い集めた、ちょっといいブランドのアイシャドーやチークが割れてしまっていたのがショックではあるが、まあ致し方ない。
「だいぶ片付きましたね」
先ほど見た彼の厳しい表情は、ひとまず影を潜めていた。元のような優し気な微笑みとともに、パンパンと掌についた埃をはたく。
「そうですね」
私も、彼のしたようにぐるりと部屋を見回しながら、ほっと息をついた。無理やり引っ張られたときに歪んだらしいカーテンレールだけが、不格好にかしいでいる。修理にはいくらかかるのだろう、などと現実的なことを考える、少しばかりの余裕もあった。
「それで、なにか被害にあったものは?」
そしてふと、またリシさんのピリついた空気を感じて背筋が伸びた。先ほど封筒を見つけた時に感じたのと同じ空気である。
「あの、実は、多分何もなくて……もともと金目のものもここにはほとんど。それこそ、さっきの封筒くらいで」
再びの難しい表情を見せる彼に、緊張しながらおどおど答えた。自らの罪を告白する罪人のような気持ちで、鼓動がとくとくと微かに逸る。私の返答を聞きながら、リシさんはじっと眉をひそめて頷いていた。
彼はまた、静かにあごの辺りを何度か触り、もう一回り部屋を見回したあと、やがてゆっくりとベランダに続く窓に近づいた。カラカラと引き窓を引いて、靴下のまま構わず外に出る。その間私は、ただ固唾を飲んで彼の一挙手一投足を見守ることしかできずにその場に立ち尽くしていた。マンションの高層階に吹き抜ける風が、彼の後ろ髪をさらさらと揺らす。
しばらくの間、彼はベランダからシンガポールの街並みを東から西にぐるりと見回した後、何の前触れもなくくるりとこちらを振り返った。その急な動作にびくりと跳ねた肩を目ざとく見られてしまったのか、彼は窓ガラス越しにクスリと小さく笑った。
「お腹、空きませんか」
「はい?」
「お腹、空きましたよね? 朝も召し上がってないでしょうし」
「あ、はい」
その表情のどこを探しても、もうさっきまでの陰りは見あたらない。
たった数時間の間に、二転三転する彼の表情にすっかり翻弄されてしまっている。自覚しながら、どうとも抗いようがない自分に少しばかり戸惑った。深層と表層を行ったり来たりして見せる彼の様子から、目が離せなくなっていると言ってもいい。その薄く細めた目の奥で、いったい何を思っているのかが無性に気になってしまう。
「何か食べに行きましょう」
カラカラと後ろ手に窓を閉めながら、軽やかにリシさんが言う。返事も聞かないまま、すたすたと部屋の入り口へ向かう彼に、私も慌ててそのあとに続いた。もたもた靴を履く私を、彼はゆったりと腕を組んで待っていた。
再び彼の運転する車に乗せられて着いた先は、マンションから少し離れたゲイラン地区にあるホーカーズだった。食事やデザートの屋台が立ち並び、独特のにおいと空気で満たされた、開放的な屋台村である。シンガポールでホーカーズといえば観光客にも定番のスポットであるが、ここゲイラン地区にあるオールドエアポートロードフードセンターは、どちらかというと地元の人に人気のある場所だ。観光地価格に設定されたほかのホーカーズに比べ、一割から二割ほど安く食事が楽しめるため、私も近くを通りかかる際には何度かお世話になったことがあった。
ひとたびスパイスの利いた料理の香りを嗅げば、忘れかけていた空腹感がよみがえる。思えば、結局昨日の夕飯も今朝の朝食もありつけていないのだからお腹だって空くはずだ。
「何にしますか?」
「えと、じゃあ、チキンライス……」
「なら、あっちのホーカーがおすすめですよ。僕も一緒のものにします」
…………解せない。
颯爽と屋台の前を迷わず歩いていくリシさんの背中を早足に追いかけながら、今更のように首を傾げた。昨夜の今日で、ずいぶん近しい間柄になってしまったような気分だ。私はただのかわいそうな空巣の被害者(結局盗られたものは何もないが)で、彼はこの国の治安を守るNPCの一員。あくまで仕事として関わっている一人の人間を、ここまで親身に助けてくれるのは果たして自然なことなのだろうか?
彼の頼もしい笑顔に何度も救われながらも、深いところを悟らせない掴みどころのなさが、全幅の信頼を寄せることを難しくさせる。信じたい気持ちと、本当にいいのか? という疑問が寄せては返す波のように、心の底辺りをぐずぐずと脆くする。
「……? どうかしましたか?」
そんな私の思考を読み取ったように、リシさんがふいにこちらを振り返る。一瞬ひゅっと狭まる喉を気取られないよう、なんでもないと首を振った。
「ごちそうします。遠慮なくどうぞ」
柔和な笑みを絶やさないまま、リシさんが私の背に触れる。薄いブラウスの布越しに、大きくて暖かい掌の感触を感じながら、屋台の中で忙しそうに働くおじさんの姿をぼんやりと眺めた。遠慮を口にしたところで、きっと押され負けてしまうだろうと思った私は、観念して素直にお礼を言った。多分、彼は満足そうに笑っただろうと思う。なんとなくその顔を見上げることは憚られた。
それから、彼のおすすめの屋台で、同じプレーンのチキンライスを買って、あまり人のいない方のテーブルに椅子を寄せて向かい合った。ペリエの緑の瓶を見つめながら、今更ながらなんと会話すればいいか分からずまごついてみても、リシさんは凪いだ様子でゆったりとその長い脚を組んでほほ笑んでいる。
「どうぞ」
「い、いただきます」
常夏の外気はいつもの通り生ぬるいが、肌を撫ぜる風には少しひんやりとした湿り気が混じっていた。季節外れのスコールが降るかもしれない。
木べらのような軽いスプーンでライスをひとくち口に運びながら、ちらと横目で見たリシさんは、小さく祈りを捧げながらしばし目を閉じていた。まつわる空気がしんと静まる、一瞬の沈黙。ひどく神聖なものを目の当たりにしているような感覚で、私はしばしその横顔に見とれてしまった。
「さて」
他愛もない話を楽しみながらのんびりと食事を終えた後、空になった皿と残り少なくなった炭酸水を前にして、おもむろに彼が静かな声を上げた。
冷たいテーブルにひじをつき、指先をゆっくりと絡ませる仕草を眺めながら、ふたたびピリつく気配に身構える。
「あなたにお伝えしなければいけないことがあります」
これまでの細められた人の好さそうな目元が、にわかに真剣味を帯びた。はい、と声にしたつもりの息はただの吐息となり唇の隙間から漏れる。
「昨夜、あの部屋でこんなものが見つかりました」
いつの間に手に握られていたのか、彼は組んだ指をするりとほどくと、その指先から小さな黒いブロックのような物体を現した。初めて見るそれに、思わず顔を近づけて目を凝らしてみるが、その正体が何なのか分からない。
「なんですか、これ」
「……盗聴器ですよ」
「と、盗聴器!?」
思ってもみない返事に、思わずリアクションする声のボリュームが上がる。その語感の耳慣れなさに一瞬理解が追い付かず、腹に落ち始めたそばからどくどくと血の巡りが徐々に速くなった。盗聴器。それこそ、ドラマなどでしか目にしたことのない物騒な響きに、それ以上何を訊くのが正解なのかさっぱり分からなくなってしまう。
「コンセントカバーに不自然なゆるみがあったため、外してみたところ見つけました。ああ、ちなみにコレの盗聴機能は昨夜のうちに破壊してあるので、もう音を拾われることはありません」
「は、はあ」
あまりに現実離れした説明に、気の抜けた返答しかできないでいると、リシさんはおもむろにその黒いブロック型の、盗聴器だというものを床に転がし、そのまま靴のかかとで踏みつぶした。コンクリートと軽いプラスチックがぶつかり、メキリとそれが壊れる音がした。
「……盗聴されるような相手に心当たりは?」
「…………いえ、ないです」
彼の質問に、ぐるぐると逡巡してみても、ピンとくる相手など当たり前ながら思いつかない。そもそも、この国で仕事以外に深い付き合いにある友人も、ましてや恋人なんてものもいないのだ。職場とマンションの往復。お酒の付き合いだって月に二、三程度。我ながら無味乾燥な日々を送っていると思うばかりだ。
「最近親しい男性とか……」
「だから、いませんて」
改まってそういう問い詰められ方をすると、なんだかみじめな気持ちになってくる。どうせ私は、いい歳して浮いた話の一つや二つもない寂しい社畜駐在女子ですよ。と、そんな苦言を口にできるはずもなく、厳しい表情を崩さない彼の視線から逃れるように視線を斜め下に逸らす。
そうですか、とつぶやいて、リシさんはまた少し眉間の皺を深くした。何かを思案するように、微かに睫毛を揺らす。
今の会話を今一度反芻し、じくじくと不安に蝕まれる胸の前を掻き抱いた。家荒らしに盗聴器。一晩の間にすっかり様変わりした世界が、音もたてずに私の日常を飲み込んでいくような焦りで呼吸が短く浅くなる。
もうすぐ昼時を迎えるホーカーズは、平日お昼の活気に満たされつつあったが、どうにもここは、すっかり隔離された別の空間のように感じてしまった。
「おそらく、今回の空巣騒動、目的は物盗りではありません。きっと、それよりもっと質が悪い」
じっと眉根を寄せたまま、こそっと声を低くしたリシさんが恐ろしいトーンでそんなことを言う。上手く返事が出来ないでいる私に対して、彼は優しく微笑んでくれたりなどしなかった。彼のその言葉が、きっと本当なのだと用に足る、真剣な表情だ。
「昨夜のうちにこれをお伝えするか迷いましたが、混乱させるだけだと思ってここまで黙っていました。もう少し詳しく調べてみないと何とも言えないですが、盗聴器もきっとこれ一つではないはずです。あのマンションでほかにこんな被害は一件も起きていない。ということは、あの部屋をピンポイントに狙った、明確な理由があると考えるのが自然でしょう。その目的が、あの部屋なのか、あなた自身なのか。現時点ではまだはっきりしません」
静かにつらつらと述べられるリシさんの言葉を、飲み込み切れずに溺れそうになる。ただ、小さくこくこく頷きながら彼の言葉をこぼさないように追いかけるので精いっぱいだった。
「でも……何も説明しなかったことで、かえって不安にさせていましたね。すみません」
そこまで言って、ようやく彼の眉間からふっと力が抜けた。昨夜も今朝も、私の心をするりとさらった、優しい笑みがその顔に再び宿る。その砕けた表情を見て今までじわじわと全身を蝕んでいた緊張が、ひとひらずつ剥がれ落ちていく。
自分でも全容を測りかねるほどかすかな不安と欺瞞も、きっとこの人にはすっかりばれていたのだろう。そんな風に思うと、こわばっていた肩の力もだんだんと抜けていた。
「顔色、あまり良くないですね」
テーブルをはさんだまま、彼の右手がふっとこちらに伸びてきて、左の頬に、暖かい指が触れる。その、ほんのわずか一瞬にも、花の気配がふっと香る。彼は困ったように笑いながら、また「すみません」と口にした。
「僕に、あなたのことを任せてくれませんか」
「任せる、ですか?」
「僕が、あなたの身の安全を保障します」
ね、お願いします。なんてことの無いようなトーンで、温和な笑顔の彼が言った。
信じても、いいのだろうか。私は彼を、信じることが出来るだろうか。
「信じてください。僕があなたのことを、必ずお守りしますから」
なんとドラマチックなセリフだろう。彼の言葉を聞きながら、私一人が現実に取り残されるような心もとなさを感じて、テーブルの上でもじもじと指を結ぶ。縦に頷いて見せることも、横に首を振ることもどちらもできないまま、私はただ彼の笑顔の口元を見つめるばかりだった。
ああ、なんだか。昨夜からいろいろなことが起こりすぎて、少し疲れてしまった。
2019.05.18