花の中の花
目を覚ました私が最初に見たものは、まあ案の定、昨夜チェックインした小綺麗なホテルの一室である。昨夜、といいつつ、ここに来たのももはや日付が今日になってからの深夜だった。昨日の出来事が夢であれば、と何度願っても、現実は無情にもすごいスピードで迫ってくる。壁にかかるシンプルな時計は、午前七時を示していた。
上司はそろそろ起きているころだろうか。私はオフィスで唯一の日本人上司であるひげ面を頭に思い描きながら、のっそりとベッドを這い出した。着慣れないホテルの寝間着や落ち着かないベッドのためか背中が少し凝っていた。
充電器にさしていたスマホを手に取り上司の携帯に電話をかけると、三度コール音がしたのち、いまだ眠たそうな声で相手が応答した。
「おはようございます、すみません、朝早くから」
『お〜、どうした。体調でも崩したか?』
早朝の電話。ただならぬ事情で休みの許可が欲しいのだろうというところまでは、もうすでにばれているらしい。ただ、ことはそこまで単純ではない。
「あの、昨日うち空き巣に入られまして……」
『は? 大丈夫なのそれ?』
「私は大丈夫なんですけど、部屋が今すごいことになってるもので。その、部屋片付けたり警察の人の対応したり色々やることが山積みなので、今日一日お休みいただければと……」
『そりゃあ災難だったなあ。わかった、気を付けてな。なんか引き継ぐことある?』
「販促のワンさんと一緒に午後からOCBAの渉外担当と打ち合わせの予定があります。同行だけお願いしたいんですが……まあ、ほとんど彼主導で進めている案件なので、最悪彼一人でも大丈夫だとは思いますけど……」
『了解。何とか都合つけてついて行くようにするよ』
「ありがとうございます」
そのあとも、手短に業務の引継ぎをして、電話を切った。とりあえずパソコンは手元にあるし、携帯もつながるようにしたし、今日一日くらいなら何とかなるだろう。
身支度、というほどのこともないが、着替えと洗面だけ済ませた後は部屋のテレビを斜めに見つつ、必要な仕事のメールを何通か送った。昨夜の空巣の件は、さすがにニュースにはなっていない。今日もシンガポールの国内は取り繕った平和で満ち溢れているようだ。天気予報の後は、さっさと近隣諸国のニュースへと移ってしまった。
すべきことを手短に終えたあと、私は朝食も取らずにホテルのロビーへと降りた。とにかく、とっととあの部屋をどうにかしなくては。なにせ時間はたった一日しかない。
「あ、おはようございます! 昨夜はよく眠れましたか?」
エレベーターが一階に到着してすぐ、足早にホテルのフロントを目指す私を呼び止める声があった。
「え……あ、あなたは」
「って、眠れるわけないですよね。あんなことがあったばかりで……」
「えっと、あの、リシさん、なぜここに」
声の主、リシさんが昨日見たのと同じようにニコニコと人のいい笑顔を浮かべて当然のようにその場に立っている。捜査の過程でまた連絡する、とは言われて別れたものの、想定の何倍も早い再会に私はひどく混乱した。それに、
「その、日本語を……?」
「あ、はい。僕の父が日本人なので!」
彼の口から紡ぎだされる日本語はとても流ちょうで、訛り一つ見当たらない。昨夜は彼も私もずっと英語で会話していたため、なんだか狐につままれたような心地だった。
「調書を見て日本人のお名前だったので、こっちのほうが良いかと思ったんですが」
頬をかきかき、遠慮がちにほほ笑む彼の仕草がやけに日本人じみていてすこし可笑しかった。近頃言葉に苦労することはほとんどなくなっていたものの、こうして自分の母語でストレスなく会話できるのは正直有難い。特殊な状況に張りつめていた胸が、ふーっと新鮮な酸素で満たされていくような、安堵にも似た心地がした。
「いえ、ありがとうございます。なんだか、ちょっと安心します」
ぽつりと返事をしてみると、自分の声が思いがけずか細くて、情けなさに苦笑する。
「それはよかったです」
目じりを下げたリシさんが、昨夜もしてくれたようにその大きな手で背中をゆっくりと撫でおろしてくれる。「僕に任せて」といった昨日の彼の頼もしい姿がダブって見えた。
「今からご自宅に戻りますか?」
「あ、はい」
「では、僕も付き添います。あんなことがあった後で、不安でしょう」
ここまでしてもらうのはなんだか気が引けてしまうものの、再びあの散らかり切った我が家に一人で戻ることを思うと、彼の申し出は有難かった。しんと静まり返る部屋に響いた誰かの気配が、いまだ耳にしつこくこびりついていたためだ。昨夜さんざん現場を見てもらい、もうそこには何もいないと証明されているにも関わらず、いまだあの一瞬の恐怖を体が覚えていた。
さあ行きましょう、と促され、私は急いでチェックアウトを済ませたあと、彼とともにホテルを後にした。
ホテルから自宅マンションまでは歩いて十五分ほどの距離だったが、リシさんが乗り付けていた車に同乗させてもらえることになった。車はパトカーではなく、普通の乗用車だ。プライベートカーだろうか。だとしたらこの人、若いくせして大層な高給取りだ。車内はとても清潔で、シートには染み一つ見当たらない。お言葉に甘え、車の助手席にそろりと乗り込むと、車内は昨夜も感じたスパイシーな花の香りで満たされていた。
「……もしかしてリシさん、寝ずにいらしたんですか?」
ハンドルを握る横顔を見ていると、一瞬彼が口元を動かしたのに気が付いた。あくびを噛み殺したようなしぐさだった。昨夜別れた時刻はすでに二時だったし、今朝だってまだ早い時刻から、ああやってホテルに駆けつけてくれていたのだ。少なくともぐっすりと十分な睡眠をとるような時間もなかったに違いない。
「え、あはは、ばれてしまいましたか」
はにかんだ笑顔が余計にあどけなくて、昨夜思ったよりもずっと若く見える。本当にこの人、いったいいくつなんだろう。
「何かあってからでは遅いですからね、これも予備警察官としての務めですよ」
「……ありがとうございます」
そんなことを話している間に、車はあっという間に私のマンションへと到着した。
カバンのなかに手を入れ、しっかりとそこに鍵があることを確認して息をつく。減速し、エントランス横の一時パーキングスペースに車が停車する。つきましたよ、とリシさんが短く言った言葉に、私は慌てて返事をして車の扉を開けた。
「……もしかして、まだ怖いですか?」
ゆっくりと車から降りた私に、リシさんが静かなトーンでそう聞いた。また顔に出ていただろうか。なんとなく恥ずかしくなった私は、大丈夫ですと早口に答えて首を横に振った。
「安心してください、僕がついてますから」
「だ、大丈夫って言ったでしょ」
「本当に大丈夫な人は、そんな不安そうな顔で『大丈夫』という言葉は使わないものですよ」
また、うまく取り繕えなかった。見透かされた恥ずかしさと、臆面もなく言い当てるリシさんの図々しさに、少し顔が火照る。
はあ、と小さくため息をつきながら手の甲で頬に触れていると、頭上からくすっと笑うような息の音が聞こえ、思わずその顔を睨み上げてしまった。
目が合い数秒、リシさんはふっと表情を和らげてふっと笑った。
なんですか、と目だけで訴えかけてみれば、
「ノーメークだと、ずいぶんかわいらしい顔立ちをされているんですね」
「なっ」
落ち着きかけた頬の熱が、またカッと一度上がる。そういえば、メイク道具もすべてあのぐちゃぐちゃな部屋に残したままだったため完全なすっぴんで出てきていたことを、今更のように思い出した。褒められたのだか貶されたのだかも分からず、ただまじまじと私の顔を見つめるリシさんの視線から逃れるため、私はじっと下を向きエントランスに向かって足を踏み出した。背後では、「おや」と小さく笑う声がする。
頼もしかったり優しかったり、かと思えば人をからかってみたり、なんだか食えない人だ。
たった一日のうちに、だいぶ許してしまっている。反省とも戸惑いともつかない微妙な心地が、私の足もとをおぼつかなくさせた。
数時間ぶりの自宅。普段通りの鉄扉を前にして、私はまた性懲りもなく緊張していた。カバンから部屋の鍵を取り出して、ゆっくりと鍵穴にキーを差し込む。カチャン、と錠の外れる音がする。その間、隣にたたずむリシさんは何も言わなかった。恐る恐るドアノブを回し、そのまま引くと、やがて一夜明けた事件の現場が目に飛び込んできた。
「…………」
昨夜はあんなに恐ろしく見えたのに、さんさんと朝日を浴びてただただ散らかり放題の部屋は、思いがけず間の抜けた光景に見えた。思ったよりも、怖くはなかった。
「大丈夫ですか」
小さくリシさんが声をかけてくれる。心配してくれているような、控え目な声だった。けれど、
「はい、大丈夫です」
今度こそ、心から大丈夫と笑うことが出来た。きっと一人で来ていたら、こんな風に向き合うことはできなかっただろう。それもこれも、きっとこの人のおかげなのだと思うと、隣にいる彼がどうしようもなく頼もしく感じてしまった。
「今度は本当みたいだ」
そう言って目じりを下げる彼に、今度こそ本当の笑顔で頷いて見せる。
まあ、とはいえ、空き巣に入られた事実もお金を取られた事実も何一つ変わらないし事態は好転したわけでもないけれど。
「さてと、片付けましょうか」
「え?」
ここまで付き添ってくれただけでもう十分だ。あとは一人でゆっくり片付けることにしよう。そう気持ちを切り替えたところだったため、リシさんのその言葉には大げさに驚いてしまった。
「だ、大丈夫です。あとは一人で片付けられますし」
「一人より二人のほうがはやいでしょう。それに、盗られたものの確認も兼ねて。ね、手伝わせてください」
変わらぬ温和な笑顔で、けれど有無を言わさない迫力があった。ここまで言われては、もう断る道理もなく、私には流されるまま首を縦に振るほかにない。
また、彼の手が私の背にそっと触れる。日本人からすると、普通よりも少し近い距離感だ。それでも不思議と、嫌だとは思わなかった。また、ふっとリシさんの動きに合わせて空気が香る。遠い異国の、深い花の香りだった。
2019.05.18