綻び
今日も終電ギリギリの、ずいぶん遅い帰宅となってしまった。けれどそれも、今日までのこと。しばらく立て込んでいた仕事が、なんとかひと段落ついたのだ。残業や休日出勤つづきだった日々を反芻しながら、身体にのしかかる疲労感を噛み締めた。ただ、それにつけても気分は悪くない。
夜に吹く、ぬるく乾いた異国の風にもだいぶ慣れた。ここにきてから、季節はちょうど一巡したところである。ただ、ふるさとのような春夏秋冬が明確にあるわけでなく、雨がよく降るかそうでないか、この国で季節とはそういうささやかな変化のことを言う。とにかく、人の定めた暦でいうところの一年という時を、私はここシンガポールで過ごしていた。
近くの屋台で買ってきた総菜の袋を手にぶら下げて、コツンコツンとヒールを鳴らしながら人通りもまばらな暗い街をゆっくりと歩く。
ようやく自宅マンションへとたどり着くと、まだエントランスホールには煌々と明かりが灯っていた。ホールの隅にある小さな小窓の奥に、マンションの警備員が腕組みをしたまま小さく船をこぐ様子が見える。
私の住まうここは、外見はそこそこ豪華な高層マンションだが、その中については意外に質素で、よくある集合住宅といった様相である。それどころか時々、排水に難がある。まあ、会社から支給された住居にただ同然で住まわせてもらっている身分で、文句を言えた立場ではないが。日本ではおもわず見上げてしまうようなタワーマンションでも、国土の狭いここシンガポールでは、住宅としてこういった高層階建てが極一般的なのだ。このマンションにも会社の同僚が何人も暮らしており、朝エレベータで鉢合わせになってしまいそこからオフィスまでずっと一緒、ということもしばしばあった。
「はあ、疲れた……」
心地のいい倦怠感を感じつつ、部屋の階でエレベーターを降りると、廊下は薄暗く人気はなかった。ぽつりとつぶやいた独り言が、さみしくエレベーターホールの空気を震わせる。
手にぶら下げた袋から、ローストチキンのスパイシーな香りが立ち上って鼻腔をくすぐり、ふっと空腹感が強くなった。時々は日本食が食べたいな、と思わないでもないが、ここの食事の味も割合気に入っている。
ともあれ、早く帰ってシャワーを浴びて、一杯だけビールを飲んで眠りたい。まだ平日も半ばなのだから、と、気を取り直してふたたびコツコツと歩を進めた。
ホールから十字に伸びた廊下を、自室に向かい歩いていく。やがて我が家の鉄扉の前までやってきたとき、ふいに何か、違和感を覚えた。うまく言えないが、いつもとどこか、何かが違う。まさか、部屋を間違えているなどあり得ないよな、と、今一度部屋番号を確認するが、どう見てもここが私の部屋に間違いない。得体のしれない不安感に、鼓動が少し逸る。いつもと同じ、しんと静まりかえる空気が、やけに恐ろしく感じてたまらない。その妙な感覚をぬぐえないまま、カバンから鍵を引っ張り出してゆっくりと鍵穴に差し込み、キーを回す。
「……!」
―手ごたえが、無い。つまり、鍵は最初から開いていたということだ。心臓が一度びくりと跳ね上がり、ドクドクと早鐘のように鳴り出した。どういうことだ。今朝もきちんと掛けて外出したはずだ。何しろ私は自分が忘れっぽいことを自覚しているため、家を出る前電気のスイッチ、ガス、そして家の戸締りをする際わざわざ「OK」と口に出して意識的な確認をするという習慣まであるのだ。社会人になってから約七年、ずっとそうだ。日本で暮らしているときも、ここへ派遣されてからも。
絶対に閉めた。絶対だ。
いつの間にか背中にじっとりと嫌な汗をかきながら、おそるおそるドアノブに手をかけ、ゆっくりと回した。そのまま引くと、案の定なんの抵抗もなくゆっくりと扉が開いていく。おっかなびっくり手を伸ばし電気を点け部屋の様子が明らかになったとき、私は呆然とその場に立ち尽くした。
「何、これ」
扉を開けた先の自室は、もはや原型もとどめないほどめちゃくちゃに荒らされている。カーテンもレールから外れ、石造りのマーブル柄の床には本やノート、服や食器といったあらゆる部屋のものが散乱していた。テレビも、倒れてこそいなかったものの大きく向きを変え、二人掛けの重たいソファもぐるんとでんぐり返しの途中のようなポーズでひっくり返されている。私は、震える足を叱咤して一歩ずつ部屋へと上がった。扉の所からでは見えなかった部分も、もうめちゃくちゃだった。この部屋だけ嵐にでもあったかのような荒れように、言葉すら出ない。空き巣だろうか。何を取られたんだろう。大した貴重品は置いていないし、とられて困るようなもの、うちには何も……あ、そういえば一つだけ、
と、思った矢先のこと、どこかで「カタン」と音がして、驚きと恐怖に体が縮み上がった。音は、まだ確認していないバスルームの方からしたようだ。
「だ、誰かいるの!?」
思わず日本語で叫ぶ。返事はない。荒らされた部屋よりも、得体のしれない何かが自分の部屋にいるかもしれないという恐怖のほうがもはや大きかった。恐怖で呼吸もままならず、喉がべったりとひっついてしまったように、二度と声を上げることはできなかった。
「ひっ」
再び、先ほどのようなこもった「コン」という音が聞こえ、私は裸足のまま自室を飛び出していた。
とにかく、誰か。すがる思いでエレベーターに乗り込み、一階のエントランスロビーを目指す。あそこならば警備室がある。
ロビーで待つこと十分。やがて、警備員に事情を話して呼んでもらった警察のパトカーのサイレンの音が近づいてきた。うたた寝を邪魔された警備員は最初いささか迷惑そうにしていたが、ファンファンというその音を聞いた途端、さすがの彼もピッと表情を引き締めていた。
誰かと一緒にいられることで、ひとまず心臓の鼓動は落ち着いていたものの、相変わらず背中は汗でじっとりと湿っている。
「空き巣の通報をいただいたのはこちらのマンションですね?」
紺色の警察官の制服の男性が二人、薄いリネンシャツにジーンズというラフな格好をした若い男性が一人。ロビーで到着を待っていた私と警備員さんのもとへ、三人は迷わず近寄ってきた。声を上げたのは、制服姿の二人ではなく、私服姿の若い男性の方だ。
「は、はい」
「お待たせしました。NPCです」
NPC、Neighborhood Police Centerの略称だ。民間警察組織NPP-Neighborhood Police Postの各エリアの統括組織のことを指す。身近な手続きや、事件の初動対応を行う組織として、地域密着型の治安維持を担っているのがNPPや、NPCと呼ばれる機関だ。日本でいうところの交番制度のようなもので、その職員のほとんどは正規警察官職ではなく、非正規のボランティア警官や予備警察官で運営されているらしい。
駐在として出国する前に勉強した知識が、こんな形で役に立とうとは夢にも思わなかったが。
「ひとまず現場に案内してください」
若い男が、私に向かって短く言った。さきほど見せられた警察手帳には、Rsiと書かれていたが、ファミリーネームまでは読み取ることが出来なかった。読み方もいまいちピンとこない。ルシ?だろうか……。
「分かりました」
とにかく、まずは現場を見てもらわないと、と彼らを連れてエレベーターに乗り込んだ。階数表示がするすると上り詰めていく様子を見つめながら、ドクドクとまた心臓が逸りだすのが分かった。先ほど感じた恐怖がぶり返して、身体をじわじわ蝕んでいくようだ。
「大丈夫、安心してください」
「え?」
「我々に任せてください。あなたはエレベーターを降りたらその場で少し待っていてくれればいいですから。もちろん、付き添いに部下を一人付けます」
私の様子があまりに不安げに見えたためか、ルシさんがそう言った。褐色の肌に、優し気に細められた目元。どうにも若く、私より年下のようにも見える。名前の読み方すらろくに分からない相手だというのに、その人の声があまりにやさしく頼もしいので、私は自分でも驚くほどに安心してしまっていた。日本でだってこんなことに巻き込まれた経験がないのだ。それが故郷から遠く海を越えた国で。私は、自分が思っていたよりもずっと心細い気持ちになっていたことに、ようやく気が付いた。
「あの、ルシ?さん……」
「はい?」
やがてエレベーターが目的階にたどり着いた。私とマンションの警備員さん、そして先ほどの約束通り制服姿の警官ひとりを残して、彼はもう一人の警官とともに、私の部屋へと向かおうとする。
「さっき部屋から出るとき、何か物音がしたんです。誰かまだ中にいるのかも……」
私は彼らの背中に、そう声をかけた。カタン。コン。先ほどのこもった物音を思い出し、また背筋がうすら寒くなる。
「これは失礼。僕は、リシ・ラマナサンと申します」
「え」
「大丈夫、僕に任せてください」
にこ、と穏やかな笑みをたたえて、ルシ、基リシさんはさっそうとシャツの裾を翻し歩いて行った。取り残され、ソワソワと指を組んだり解いたりしていると、残ってくれた警官がその強面をにっこりと綻ばせ、「リシさんがいれば安心ですよ」と白い歯を見せた。
「中をくまなく見て回りましたが、不審な影はありませんでした。ひとまずご安心を」
「そうですか、ありがとうございます」
エレベーターホールで待つこと約十分。やがてリシさんが一人でこちらに戻り、先ほどのような温和な笑顔でそう言った。
「ただ、部屋の中がひどく荒らされていますので、少し現場検証をさせてください。おそらく物取りの犯行かと思われますので、取られたものの確認など一緒にお願いできますか?」
「あ、はい。もちろんです」
リシさんに促され、再びとなる自室へと向かう。警備員さんは、一旦一階の警備室へ戻ることとなった。
二人分の靴音が細い廊下にこだまする。ストッキングだけの裸足で出てきてしまった私の足音はあまりしない。足の裏に、ひんやりと冷たい床の感触を直に感じた。
部屋までたどりつくと、中に残って荒れ放題の部屋の写真を撮っていた警官の人が振り返り、小さく敬礼をした。
「あ」
ふとリシさんが、私の足元を見て小さく声を漏らすので、心もとない裸足をさらしていることが、今更のように恥ずかしくなった。きっと足の裏は埃で真っ黒に汚れてしまっている。
「ちょっと待ってて」
早口にそういい残し、リシさんが先に部屋へと上がる。ジーンズのポケットから清潔そうな白のハンカチを取り出し、キッチンの水道でそれを濡らし固く絞ると、玄関で立ち尽くす私のもとへと戻ってきた。
「え?」
「ほら、足を」
「え!?」
戸惑う私を歯牙にもかけず、片膝をつき私の足元にしゃがみ込む。かと思えば、そっと足首に触れられ、そのまま左足を軽く持ち上げられた。たまらず壁に手をつき、転ぶのは何とか回避できたものの、彼の急な行動に心臓がバクバクとわなないた。自分でやります、とおどおど口にするも、彼は「いいから」と言って取り付く島もない。されるがまま、いつの間にか呼吸も短く浅くなる。足の裏にハンカチの湿り気を感じながら、彼の右巻きのつむじを見下ろしている時間はひどく長く感じた。
「あの、ありがとうございます……ハンカチ、汚してすみません」
「気にしないでください。僕が勝手にやったことです」
今夜はいろいろなことが起こるな、と、再びにっこりと笑う彼の顔を見上げながら呆けるように思った。立ち上がる時、ふわりと揺れた空気に、イランイランのエキゾチックな香りが交じっていたのが、やけに印象深かった。
一通りの写真を撮り終えたあと、割れた食器や、大切にしていた花瓶の破片、その他散乱したものを少し片づける。戸棚の引き出しもすべて引き出されて床に転がっている状態のため、こまごましたものの片付けには骨が折れそうだ。警官の手も借りて、取り急ぎ大きな家具の位置だけは元通りに直す。
「取られたものは分かりますか?」
リシさんが手帳を開きながら、散らばった物をぐるりと見回して言う。ここまでひっちゃかめっちゃかに荒らされた後だと、もはやどこを確認すればそれが分かるのかも皆目見当がつかないが、とりあえず心当たりといえば、友達と計画していた旅行の支払いに充てようと思って降ろしていた現金だけだ。そのほかに金目のものは置いていない。
「多分、封筒に入れていた現金がなくなっているかと思います」
「ちなみに額は?」
「二千ドルです。旅行代理店に支払おうかと思っていたんですけど……」
「なるほど。この様子だと……残念ですが、無くなっているとみて間違いないでしょうね」
「ですね……」
二千シンガポールドル、日本円にすれば大体十七万円くらい。今度の休みに日本にいる友人とモルディヴでのんびり過ごそうと準備していたお金だった。文化の違う土地、全然言うことを聞いてくれない現地スタッフ、のしかかる営業ノルマ、そんなストレスフルな毎日を健気に懸命に生きているしがないサラリーマンに対して、あんまりな仕打ちじゃないか。
現金で持っていた私がバカだった。おとなしくクレジット送金にしておけばこんなことにはならなかったのに。と、さまざま後悔してみたところでもう後の祭りである。
「命が無事だっただけで、今は良しとしましょうよ」
あからさまに意気消沈している私の背中を、リシさんは気遣わしげにそっと撫でおろしてくれる。まあ、確かに。部屋がこのありさまなのだ、万が一犯人と鉢合わせにでもなっていれば、私自身無事では済まなかっただろう。
「そうですね、ありがとうございます」
作ろうと努めた笑顔は、あいにく不発に終わってしまった。ぎこち無い表情を浮かべる私を見て、彼も気の毒そうに苦笑いを浮かべている。
「リシさん、鑑識到着しました」
ふと、開け放していた玄関扉をゴンゴンとノックする音が聞こえ、新たな制服姿の警官が何人か入室してくる。
「ああ、ご苦労様。現場写真は撮り終わっているから、ドアや家具の指紋の採取だけお願いします」
「はい」
手短に会話を交わした後、到着したばかりの警官たちが肩から下げた大きなバッグを開けて作業を始める。テレビドラマでしか見たことのないような捜査の様子を眺めながら、現実とフィクションの狭間にいるような不思議な気持ちになった。
嵐のような時間だった。
約二時間、現場検証やら事情聴取やらで拘束されたのち、私はようやく解放された。今は近くのホテルのベッドで、まったく眠れないままダンゴムシの如くただ静かに丸くなっている。あの部屋では気も休まらないだろうというリシさんの気遣いで、特別に手配してもらった部屋だ。お代はNPCで持ってくれるとのことだった。至れり尽くせりだな、と思いながらも、翌朝にはあの部屋の片づけに向かわなければならないと思うと正直気が滅入る。
時刻は深夜の二時。ひとまず仕事の山は越えたところだし、朝一で上司に連絡すれば、明日一日くらいなら休ませてもらえるだろうか。
明日は起きたらあれをしてこれをして、と頭の中で色々考えている間に、時計の針はあっという間に進んでしまい、床についてから数えるともう三十分が過ぎていた。私がこんな悪夢にうなされているというのに、現実は待っていてはくれないようだ。
左のこめかみの辺りがじくじくと痛んだ。極限の緊張状態から解き放たれたせいだろうか。久しぶりの片頭痛の気配だった。眠って起きたら、いつもと変わらぬ朝を迎えていますように。そんなことを祈りつつ、私は再び瞼を閉じる。肌に触れるシーツの硬さが慣れなくて、眠るまでに何度も何度も寝返りを打った。
2019.05.18