時計の針は
いつもは定時ごろには問題なく上がれるというのに、こんな日に限って残業だった。
夕方ごろに一度、会社のメインシステムが何らかのトラブルのため一時不安定になったためだ。一時間もせずに問題は解消し、通常業務は平穏を取り戻していたものの、システムオートで管理されていた納品調整やWEB競売に影響が出ていないかどうかを手作業で調べることになってしまった。かなりイレギュラーな対応で、なおかつシステムを管理階層まで利用できる権限を持っている必要があるために、手分けをしようにも頭数はたかが知れている。結局、定時の午後六時を目前に控えた時間から、部長と私、それからオペレーションのチームリーダーを務めているスタッフ四名の、計六名でもくもくと確認作業を執り行うはめになった。
リシさんには、残業が決まった時に、電話を入れた。久しぶりの彼へのコールは、否応なく緊張してしまい、ボタンを押す指が二、三度横にずれてしまったほどだ。「残業になってしまって」と伝えれば、彼は存外さっぱりと「分かりました。待ってます」とだけ言って電話を切ってしまった。それから次いで入ったショートメッセージには、終わる時間が分かったら教えてくださいね。≠ニいう文言。実に事務的である。
何を期待しているのか。と、自嘲が漏れる。朝のあのふわふわと内臓が浮くような心地を思い出して、気が落ち着かなくなった。安堵していいものなのか、否か。久しぶりのあの人の登場は、果たしてなにか意味を持つのだろうか。本当にただ、別の仕事がひと段落着いただけ? いずれにせよ、こんなのこのトラブル真っただ中に考えていていい内容ではないな、と、私はぴしゃりと頬を一つ打ち、気を取り直してオフィスへと戻った。
「おっけ〜終わり、疲れたな―」
「異常なしですね。ひとまず安心しました」
そして、作業に勤しむこと約三時間。夜の九時を迎え、確認すべきデータ全件をようやく洗い終えた。チームリーダーたちには一足先に上がってもらい、最後は私と部長の二人きりだ。結局、見て回ったデータにはどこも不具合はなく、私たちはほっと胸をなでおろしている。
念のため日本の本社と、システムベンダーへの報告と調査依頼のメールを入れてから、PCの電源を落とす。
「久々の作業は堪えるなあ」
部長が、ごきごきと凝り固まった肩を鳴らしながら大きなため息を漏らした。昔はもっと現場に近い仕事もしていたのだろうが、今となっては人の仕事を見てアレコレ差配するのが彼の役割である。確かに、この人が眉間にしわを寄せながらPCのモニタに噛り付く姿なんてもう何年振りにお目にかかったか。
「なんだか昔を思い出しますね」
「昔ってあれか。俺とお前で地獄の四十五連勤したあの横浜港の拠点開通の時か」
「……懐かしいですね。あんなの、やれって言われてももう絶対に無理」
「お前ならまだいけるだろー」
「だめですよ、まだあの時は若くて体力あったから……」
「喧嘩売ってんのか、俺なんてあの時点でもう四十手前のおっさんだったんだぞ」
「部長は、またちょっと別ですよ」
「なんだそれ」
過去経験した修羅場を思い返しつつ交わすじゃれるような会話は、少し楽しい。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、本当にその通りだ。私はかつて自分が経験したいろいろな業務を反芻しながら、急に感じる時の流れにいささか感傷的になった。まだまだ一人でやれることはとても少ない私だが、確実に足跡が出来ている。ちゃんと経験は降り積もっている。この人と仕事をしていると、時折そんなことを感じさせてくれた。
「お前はここにきてどのくらいになるっけ」
「ちょうど一年くらいですかね」
「そうか……相変わらず、ちゃきちゃきよく働くね。俺助かっちゃうよ」
少し疲れた表情で、不意にそんなことを言われてぎくりとした。そんな甘やかすようなことを言わないでほしい。天狗になったらどうするのだ。たゆんでしまったらどうするのだ。私には、私を越える義務がある。人に守られてばかりでなく、自分で生きていく義務だ。もう十年も前に、自分とした約束事である。
「まだ残りますか? 私お先にしつれいしますね」
「お〜、お疲れ。よい週末を」
「はい、お疲れさまでした」
結局、そんな有難い部長の言葉にはうまく返事を返せないまま、私はカバンを持ってデスクを立った。一緒に出るのかと思いきや、部長はもう少しやることが残っているから、と言ってオフィスに残った。
ショートメールで手短に終わったことを連絡すると、すぐさまリシさんからの返事が届いた。了解という一言だけのメールだ。どこで会おうだとか、そういうことは書かれていない。ひとまずエントランスへと向かっていくと、オフィスビルの車寄せにはすでに、今朝も乗った白い車がつけてあった。
「あ、おつかれさまです!」
今朝と同じように、車の傍らに佇んで待っていてくれた彼は、エントランスドアの開く音を聞きつけてすぐさま私に気が付いてくれた。
先ほどまでは仕事のことで頭がいっぱいだったというのに、いざその姿を目の前にすると、いったいどんな顔をすればいいのか分からなくなってしまう。普通にしよう、普通に。と心に誓ってみても、もう久方ぶりのこと過ぎて、かつての普通が思い出せないのだ。これは困った、と、焦ってしまった。それこそ、さっきのトラブルの時だってこんなに心臓の音はうるさくなかった。
「お待たせしました」
熟考の末ひねり出した、あまりにも平凡な私のセリフに、リシさんは以前のように「いえ」と柔らかな笑顔を浮かべてくれる。それだけで、胸の奥がぎゅっと詰まるような苦しさを感じている私は、もうきっと末期なのだと思った。
会えなかった約半月の時間は、気持ちを風化させるどころか、どんどんそれを浮き彫りにしていった。レスリーたちとの会話で名前が出るだけで、その日の夜にはリシさんの夢を見た。こんな、恋を知りたての少女のような心の挙動が恥ずかしくて恐ろしくて、私の気持ちはいつもぐちゃぐちゃだったのだ。
知る由もないだろう。彼にはきっと、こんなすました顔をした女が、まさか自分へのじりじり焦がれる気持ちに喘いでいることなんて。
「どうぞ、乗ってください」
にこりとやわらかく微笑んで、彼が珍しく助手席の扉を開け手招いてくれる。そんな一挙手一投足にも過敏に心が反応してしまう。時間を置いたのは、薬ではなく毒となってしまったようだ。朝は気が動転していたこともあり、まともに彼のことを考える余裕もなかったが、今はだいぶ落ち着いている。その落ち着きが、かえって仇となっていた。私は、ぎくしゃくとぎこちない身体を何とか叱咤して、車へと向かう。
「お疲れ様でした」
「どうも、お待たせしてすみませんでした」
「いえいえ、待つのも勤めのうちですよ」
チクリと胸が軋む。
勤めか。そうだった。彼にってこれは、あくまで仕事の一環なのだ。半月前にも経験したその絶望にも似た気持ちがぶり返し、ギシギシと胸が痛んだ。
最悪だ。私やっぱり、なんでこんなにも、この人のことが好きなんだろう。
一人、涙で枕を濡らした夜のことを思い出し、息が詰まった。
成すすべなく助手席に沈む私を確認し、リシさんはパタンと助手席の扉を閉めた。それから、車の前をゆっくりと横切って、運転席へ。そんな彼の動作ひとつひとつにも、神経が過敏に反応する。
「何か食べに行きましょうか」
運転席に乗り込んだ彼が、シートベルトを締めながらおもむろに言った。え、と小さく声を漏らす私に、彼は少し頬を掻いて困ったような表情をする。
「って、夜も遅いし……まっすぐ帰りたいですかね」
そうじゃない。そうではなくて。
うまく言葉が出てこずやきもきする。
どうして触れてくれないのだ、あの日のことに。という、怒りにも似た感情が暴発寸前だった。またヒステリックに騒いでしまいそうになり、私は何度も何度もごくりと唾を飲み込んで衝動を落ち着けた。気にしていたのは、私だけなのだろうか。どうしてこんなにも普通に接してくるのだろう。説明しがたい、痛いような、苦しいような、甘いような、怖いような、今朝も感じたそんな気分がぶり返してくるのが、たまらなかった。
言い訳を、してほしいのだ。私を半ばだます形になっていた事実に対して、納得のできる説明を。そしてそれはほんの少し、その心に起因する弁明であることを、私はひどく期待している。
リシさんは、私の返答を待たずに、夜の街へと車を滑らせた。
「あの……まだ、怒っていますか」
走り出してすぐ、彼がそうぽつりとこぼす声に、どくりと心臓がわなないた。あの日の話をしたい、そう望んでいたはずなのに、臆病な私はたちまち弱腰になっていた。
「怒っていません。ただ、すこし……」
「少し?」
「悲しい、だけです」
「悲しい?」
我ながらなんと無防備な言葉だろう。けれどもリシさんは、わからない、というようなナチュラルなトーンで私の言葉をそのままオウム返しする。どうして男女はこんなにも分かり合えないものなのだろう。ただ私の言葉がつたなすぎるだけなのだろうか。言葉だけではなくて、態度で、表情で、温度で、声の調子で、隠しきれない心が漏れている。そんな私を、きちんと見抜いてほしかった。優秀な警察官なら、そんなこと朝飯前なのではないのか。上手く言葉にできない自分を棚に上げ、また気持ちがぐしゃぐしゃに絡まりほどけなくなりそうだ。
「ねえ、もう一度、僕にチャンスをくれませんか」
「はい?」
赤信号で車が減速し、車内がひときわ静まり返ったところで、おもむろにリシさんが言った。
チャンス? いったい何の?
急なことに理解が追い付かず、何も返せないまま信号はやがて青に変わる。
「……もう一度、ふたりで出かけませんか。明日、もし、あなたの都合が悪くなければ」
どく、と再び胸が大げさに鼓動する。じわじわと、あたたかい血液が身体じゅうをめぐり始めるのが自分でも分かった。痛くて苦しくて甘くて怖い。
「それは、また、お仕事としてですよね」
「いえ」
思ったよりずっと情けない声が出てしまう私に、リシさんはぴしゃりと迷いのない返事をくれる。もう、手放してしまいたい、無くしたほうが楽だ、とさえ思っていた気持ちが、またそわそわと胸の中で騒ぎ始めていた。期待しても、きっとこの人は裏切るのだ。
「ちゃんと話がしたいんです。だから、逃げないでください」
頑なに身を守ろうとする心のバリアを、いとも簡単に叩き割って中まで無遠慮に踏み入ってくる彼に、憤りすら覚えた。けれど、そんな風に言われてしまえば、もうとっくに彼の手中に収まっていた私には抗いようもないわけで。
逃げないでください、と今朝も言った彼の横顔をこっそりと確認する。暗くて、顔色は見えなかった。見えたのは、固く一文字に結ばれた薄い唇だけだ。
「……分かりました」
気づけば自宅マンションはもう目前に迫っていた。私は、最後の一声を振り絞るように、精いっぱいの平静を装って返事を返す。その声をどう思ったのか、彼の方を確認するには、残念ながら勇気が足りなかった。
緩やかな減速をして、ぴたりと車はマンションの車寄せに停車する。リシさんがいつものように、「さ、着きました」と短く言うのを、懐かしく思った。
「それからこれ」
「?」
「お返しします、長い間不便をかけてすみませんでした」
「あ」
カバンを持って車を降りようとしたところ、ふいにリシさんがスラックスのポケットをごそごそやり始め、抜き出した手に持っていたものは、もう半月お目にかかっていなかった私のプライベートのスマホだった。
「……もうすっかり無い生活に慣れてて、忘れてました」
最初こそ不便を感じていたそれも、なくなってしばらくすれば、案外何とかなってしまうものだと思っていたところである。必要な連絡ツールのアカウントは別の端末でもきちんと見れるし、本当に不自由などしていなかったからだ。地道にこつこつ育てていたアプリのクラゲなどが、生活からいなくなったくらいである。
「ご協力感謝します。無事、解決しました」
「え?」
「例の詐欺グループですよ。表沙汰にはなっていませんが、無事、主犯をおさえました」
「本当ですか! それは、お疲れさまでした」
「あなたのおかげです」
「そんな、私なんて……ただリシさんたちに守られていただけで」
突然の吉報に、声が少し上ずった。そして自分の言葉を反芻し、本当に、我ながらその通りだと苦笑いがこぼれてしまう。守られていただけ。無防備に怖がっていただけだ。リシさんが慌てて、そんなことありませんと付け足すのが、なんだか可笑しかった。
「あなたも、もうこれで怯えずに済みますね」
「あ、ありがとうございます……リシさんは、大変だったみたいですね」
「ええまあ……でも、もうこれでひと段落です」
リシさんは、ほうとため息に似た短い息をこぼしながら、ゆるりとほどけた表情を見せる。いつもの、きっちり整えられた微笑ではなく、少しくたびれたような、ナチュラルな笑顔。
そうか、事件は片付いたのか。
あれ? でもそうしたら、もう私は――
はたと気が付き、思わず口を噤んだ。もう怯えずに済む。彼の意図するところは、きっとつまり、そういうことだ。もう一連の事件は解決し、私を取り巻く脅威は、去ったということ。それじゃあ、私は、もう守られる理由もなくなってしまう?
「……っ、リシさん」
「はい?」
咳こむような唐突さで話かけた私に、彼はほんの少し肩を震わせ、不思議そうな顔をする。頭でぐるぐる考えていたことが、途端にすっと胃の腑の底へと消えていた。それを明け透けに尋ねてしまうのは、あまりにも怖いことのような気がして。
「明日は、その……楽しみにしていても、いいんでしょうか」
梯子を外されると見るや、手の平を返したようで我ながら滑稽だった。でも、それでも、これが最後であるとしても。
「もちろんですよ」
ぱっと明るい笑顔を見せてくれる彼に、私はもう何も返す言葉がなかった。
車を降りる間際、また彼は「戸締りに気を付けて」と正しいことを言った。
それから、眠る間際、今度は、ようやく手元に戻ってきたプライベートの携帯の方へ、一通のメッセージが入った。明日、十時に迎えに行きます。≠ニいうたった一言だったけれど、そのたった一文が、どうにも私の心を震わせるのだった。
2019/06/19