ミントと邂逅
ブー、ブー、と強いバイブレーションの音で目が覚めた。どろりとした目覚めである。だいたいいつもならば携帯のアラームの音より先にうっすらと起きているため、こんな風にたたき起こされるのは全く久しぶりのことだ。うるさい……と、サイドボードに手を伸ばし、ガチャガチャとその上をまさぐった。
コトン、とティッシュペーパーの箱が落ちる音がした。
なんだか、いつぞ感じたことのある感覚がする。デジャブというやつだ。どうにもおぼつかない意識の中、音の方に必死で手を伸ばせば、ようやく指の先にスマホが触れる。それを引き寄せ、このやかましいアラームを止めてしまおう。と、画面を見たところ、
「!?」
それはアラームなんかではなく、電話の着信だった。それも、
「……リシさん」
思いもよらない人物の名が示されたスマートフォンの画面。気が動転した。起き切らなかった頭は一瞬にして冴え、端末を握りしめる手には汗がにじんだ。身体の底のあたりに昨日のアルコールの余韻を感じたが、そんなことはもはやどうでもいいことだった。
バクバクと飛び跳ねまわる心臓の音が、鼓膜を内側から叩いているようにうるさい。見間違えではないか、と何度か目をこすって見直したけれど、あの人からの着信に間違いなかった。なんで、どうして、急に。この汗は、きっと暑さのせいばかりではない。
「……はい、もしもし」
『ああよかった! 出ないからどうしたのかと!』
決死の覚悟で応答した電話口からは、あまりにもあっけらかんとした、リシさん、その人の声が聞こえた。
「今まで、寝てました」
なんだかこれも、デジャブである。ただ、あの時よりもずっと、私の気持ちはせわしないけれど。
『だろうと思いました。大丈夫ですか? 遅刻しないですか?』
「……え!?」
説明しがたい、痛いような、苦しいような、甘いような、怖いような、そんな心地に苛まれながらリシさんの声を必死で聞いていると、急に思いがけないことを言われ、今再び意識がもう一段覚醒する。遅刻? なんのこと? と、壁の時計を見上げてみれば、時計の針はもう、朝の八時十分を過ぎていた。
「やばい!!」
『だと思いました。送っていきますので、早く降りてきてください』
「え?」
『今日は僕が、あなたのナイトです』
「え…………」
『ほら、早く』
「は、はい」
色々な出来事に、うまく頭が働かず、口からは心もとない音だけが漏れた。はい、と頷いたはいいけれど、うまく事情が呑み込めない。降りてきて? 今日は僕が? いったい何のことだ、と混乱しながら、一抹の予感に胸がざわざわと騒ぐ。本当ならば、今すぐに準備をして会社へ向かわなければ朝ミーティングに遅れてしまうというのに、私の足はバスルームとは反対の、ベランダの方へと向いた。
スマホを握りしめたまま、がらりと窓を開け、サンダルも履かずにベランダに躍り出る。そして、目を凝らして、マンションエントランスの方を見下ろした。
『何してるんですか。急いでって言ってるでしょう』
くすりという笑い交じりに、電話の向こうのリシさんが言う。そして私の目線の先には、久しぶりに見る白いハッチバックと、傍らにたたずむ彼が、私のことを真っ直ぐに見上げていた。
「な、なんで」
『お話はあとにしましょう。待ってます、早く来てください』
「う、あ……はい、わかりました」
下の人影が、ひらひらとこちらに向かって手を振った。何、どうして。いまだ混乱を極める脳みそをどうにか叱咤して、私はふらふらと部屋の中に戻る。キリがないと思われたのか、通話はすでに切れていた。
なんで、どうして、リシさんがここに。
遅刻ぎりぎりの時間だ。急がなければ。彼も待っている。そう、気持ちは急くのにうまく体がついてこない。クローゼットから適当な服を引っ張り出して、ばたばたと着替えを済ます。そして、バスルームに向かいそこまでひどくない寝ぐせに安堵しながら、歯ブラシを手に取った。手が震えて、何度かそれを落としながら、ようやく洗面を終える。この様子では、きちんとメイクをすることもできないだろう。そう思い、アイブロウだけを手早く書いて、あとは大きめのマスクを付けることにした。風邪でも引いたのかと訝られるだろうかと心配になったが、こんな寝起きのぼろぼろ顔を見られるよりも幾分かマシだ。
慌てふためく心と体を叱咤して、私はようやく部屋を出た。時間にすれば十分にも満たなかったけれど、その時間はひどく長く感じて、続いて乗り込んだエレベーターのスピードもいつもの十分の一くらいのゆっくりしたものに感じてしまった。
「おはようございます。早かったですね」
「お、おはようございます……」
慌てて向かったエントランス横の車寄せには、先ほど上から見下ろしたのと同じように、リシさんの姿があった。信じられないものを見ている、という感覚が、言葉も足の動きもぎこちないものにしてしまう。
「ほら、乗ってください。急げば間に合うでしょう」
私をそう言って急かしつつ、リシさんは運転席へと乗り込んだ。私は、危うく転びかけながらもようやく助手席側のドアの前にたどりついた。一瞬、その扉を開けるのをためらっていると、パワーウィンドウがゆっくりと下がり、リシさんが中からにこりと微笑んで私の顔を見た。
「……なんて顔してるんですか。ほら、乗って。行きましょう」
優しい笑顔。穏やかな声。何が何だか、ちゃんと説明してほしいという気持ちと、もうなにもかもどうでもいい、という気持ちが心の中で反駁する。
私は声にならない声を漏らしながらこくりと頷いて、ようやくそのドアノブに手をかけ、久しぶりに座る助手席のシートに沈んだ。
シートベルトの装着を確認し、リシさんが静かに車を発進させる。
何を話せばいいのかが、まったく分からなかった。久しぶりですね? それとも、起こしてくれてありがとう? あれこれ言葉が頭をめぐるが、どれも違う気がして結局黙りこんでしまう。けれど、右に感じる彼の空気は柔らかで、依然と少しも変わらないということだけが、確かだった。
「……風邪ですか?」
「え、と……お化粧、ちゃんと出来なかったので……」
「しなくたって綺麗なのに」
そんな歯の浮くようなセリフ、私の気持ちを知っていて言うのだったら、本当にひどい人だ。なんだか泣きたいような心地で、私はスカートのすそを握りしめた。
「しばらく、連絡できずにすみませんでした」
すいすいと車を走らせながら、リシさんが静かに言う。うまく返事のできない私は、いえ、と蚊の鳴くような声しか出てこない。
本当は、たくさん言いたいことがある。プラスもマイナスも、今いろいろな気持ちが胸に渦巻いて破裂してしまいそうなのだ。久々に会う彼に突然ぶつけるには、あまりにもありったけ過ぎる感情だ。このまま吐き出せば、きっと彼を驚かせてしまうだろう。そんな風に思うと、私にはただ息を潜めて前を見つめ口を噤んでいることしかできない。
「……きょ、今日は、ほかの三人ではないんですね」
苦し紛れに出てきたのが、そんな声だった。昨夜楽しく飲んだ三人の姿が、順番に脳裏に浮かぶ。
「レスリーは非番、ジョシュは遅番、マイケルは夜勤です」
流れるように言うリシさんの言葉に、はっとする。確かに、帰り際そんなことを言っていたのを今更思い出す。……なんで誰も教えてくれなかったんだろう。どうして私は、あの時気づかなかったのだろう。後悔なのかなんなのか、恥ずかしさにも似た気持ちが、カッと頬を熱く焦がすのを感じた。
「昨日はずいぶん楽しかったようじゃないですか」
「え?」
「レスリーが自慢げに連絡してきました。楽しそうに食事をしている、あなたの写真付きで」
「え!? い、いつの間に」
「気づかないほど酔っていたんですね」
「そういうわけでは……」
「相変わらず警戒心の薄い人だ」
何を言っても慌ててしまう私に、彼はどうにも容赦がない。久しぶりに話す彼の丁寧な日本語が、やけに鋭利に聞こえてたまらなかった。からかわれているだけなのだろう、そう理解しているのに、うまく反論できずにたじろいでしまう。リシさんの顔を盗み見ると、その横顔はニコニコと温和な笑顔である。しばしその目元をこそこそ見ていると、ふいに、彼の目線がこちらへと向いてばっちり目があってしまった。たまらず、ばっと前を向くと、また彼のクス、と笑う息の音がする。
久しぶりの再会だというのに、どうしようもなく翻弄されている。久しぶりの再会だからこそだろうか。
彼は、あの日のことをどう捉えているのだろう。
私が、あなたことを考えて、どれだけぐちゃぐちゃな気持ちになったのか、きっと知る由もないのでしょう。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、あっという間に車は会社のエントランスまで到着してしまった。
「着きましたよ。っと、時間は……まだ大丈夫ですね」
「はい、ありがとうございました……」
ギッとサイドブレーキを上げて、リシさんが腕時計を確認しながら早口に言う。結局何も話せなかった落胆と焦燥感から、私はまたたどたどしい言葉を返してしまう。降りなくちゃ。と、身体だけが状況に対応しようと躍起になった。
「あ、待って」
ドアに手をかけたところで、ふと右腕を引かれた。いつかも感じた感触だった。今日も、その掌の温度は、とても暖かい。
「帰りも僕が迎えにきます。その……逃げないでくださいね」
「え?」
「……じゃあ、どうぞ、いってらっしゃい。お仕事頑張って」
「ちょっと……」
「それでは」
まともな返事をする前に、今度は背を押されてさっさと車を下ろされてしまった。
降りるとすぐに、同僚の一人と鉢合わせになり、おはようございますと声を掛けられる。それに気を取られているうちに、彼の車はさっさとその場から走り去ってしまった。
「あれ、今のもしかして噂の旦那さんですか?」
ぼーっとする頭をもたげて、しぶしぶ彼の方に歩み寄っていくと、そんなことを言われて思わず頭痛がした。どこからどう否定すればいいのか。噂の出どころは多分あの子だろう、と以前ランチを食べながら交わした会話を思い出しつつ、「その人ではないんだ」「そもそも旦那でもなければ彼氏でもないんだ」と弁明が頭をぐるりと一周めぐるものの、結局出てきたのは大きなため息と、NOの一言だけであった。
それにしても、もしかして。
最後、少し彼も慌てていなかっただろうか? それとも、あれは私の都合のいい勘違いか? 私ばかりが心かき乱されているのは悔しいから、という深層心理が見せた幻だったのだろうか。
私は、最後に見た彼の、ほんの少し頬を赤く染めていた表情の確かさを手繰り寄せながら、同僚と二人、オフィスへと向かった。
2019/06/09