三つ目
レスリーが初めて私の御守についてくれた日からまた数日が経ち、それから代わる代わる二人の警察官と知り合いになった。四日目には非番であるはずのレスリーまでもが一緒にやってきて、あれこれといつものごとく楽し気にお喋りをしていったくらいで、本当にこんな状況でついていてもらう意味はあるのだろうか? というような具合である。つまり、私の身辺はいたって平和ということだ。そしておよそ二週間目となる今日は、とうとう業務後の飲み会なんかにも誘われてしまい、私の生活はまた別の意味で荒れ始めている。そろいもそろってガタイが良く、男くささむんむんの面子だ。果たして私は今日無事でいられるのだろうか? と、この国を守るお巡りさんたちとの集まりに赴くにはあまりにもそぐわない気持ちにすらなっていた。
いつぞやの日曜日のあれっきり、やはりリシさんからの連絡はなかった。ただ、私の護衛にとついてきてくれる人たちにそれとなく聞けば、彼はアイダン警部補のそばで例の詐欺グループの事件を本格的に調べ始めているとのことで、私の警護につけないのもそれが主な要因なのだと教えてくれた。何度か私が彼のことを尋ねたためか、「なになに〜、さみしいの〜?」なんて、レスリー辺りはずいぶん気安く私をからかうようになった。こんな具合に、私は彼らとずいぶんな仲良しになっている。寂しいのか。それに対する返事は、今はまだちゃんとしていない。いつも適当な話ではぐらかしたり、レスリーが気に入っているという交通課のケイティちゃんの話題を振り返して慌てさせたりしていた。ちなみにケイティちゃんの話は、同じく警護についてくれているジョシュからの情報である。
「あ、おーいこっちこっち!」
今日は一体どんな様相になるだろう、と考えながら約束のレストランの扉を開くと、三人の大男が狭いテーブルを囲んでいる様子はすぐ目についた。ちょうど対面に座っていたレスリーが私の入店に気づき、大きな掌をこちらに向けてぶんぶんと振って合図する。
「レスリー。みなさんも、お待たせ、遅くなってごめんなさい」
「僕らも今来たところだから問題ないよ」
さあどうぞと促された残りの一席に、おずおずと腰かける。物理的な圧迫感が凄まじく、息が苦しいような錯覚すら覚えてしまうが、三人ともがにこにこご機嫌そうにしている顔を見たら、なんだかどうでも良くなってしまった。
「今日はみんなオフなの?」
「ジョシュだけ非番だよ。僕とミッキーは早番。このために一目散にタイムカード切って帰ってきたんだよ!」
「そうなのね、どうもありがとう」
意気揚々とレスリーがそう話してくれる。ちなみにジョシュは初老のダンディなおじさま風の中国系で、ミッキーことマイケルは私の一つ年上の金髪たなびくアメリカ系のアニメオタクである。見目も年齢も趣味もなにもかも様々だ。そして私は生粋のニッポン人ときた。本当におもしろいところだな、と、この国にきてしばらくになるものの、今更のように感じてしまう。
四人そろうと、すぐさまテーブルにビールが運ばれてきて、私たちは初めて四人そろっての対面に乾杯をした。
もしかしたら、あの人も来るかもしれない。なんて、ガチャンと分厚いガラスのジョッキを突き合わせながら、そんなことを一瞬でも思っていた自分を少し恥じた。いけないな。せっかく誘ってもらったのに、今はこの場をめいっぱい楽しまないと。
今日はいったいどんな乱痴気騒ぎになるのかと戦々恐々としていたのもつかの間、意外にも三人は行儀よく食べ、節度を守って酒を愉しみ、いささか大きすぎる声と身振り手振りでお喋りを楽しむにとどまった。大きな声は、周りのお客も同じなのでご愛敬だ。話題は、ジョシュの娘さんに最近彼氏が出来たことだとか、今ミッキーがはまっている古い日本のアニメの話だとか(「なんでニッポン人のくせに知らないんだい、あの名作を!」とはもう三、四回繰り返し言われた)、レスリーとケイティの恋の進捗など、まるで学生か茶飲み友達のおしゃべりのような、かわいい内容ばかりである。
最初、どうなってしまうのかと心配していたのが嘘のようだ。私は、しばらく頻繁に顔を合わせることになるであろう皆の人となりを少しでも知れた気になり、この時間をとても楽しんでいた。
「そういえば、君は? 何か最近いいことないの?」
ジョシュが、あごの無精ひげをざらざらと撫でながら、私の方を見て言った。その問いかけに、レスリーも急に鼻息を荒くしてこちらを見る。
……この流れだと、いつか来るとは思っていたけれど、本当に来た。と、私はこぼれそうになるため息をビールで流し込み、けろっと笑って見せた。
「いいこと……そうね、ちょっと大きい仕事が決まりそうなことくらいかな」
あらかじめ準備しておいた当たり障りのない返事を聞いて、レスリーが案の定ぶーぶーとブーイングを寄越す。そういうことじゃない! とご立腹だ。
「ちがうよそういうのじゃなくて! もっとプライベートの話!」
「近所の野良猫がなついてくれたこととか?」
「違うってば! 君って意地悪だなーもう!」
レスリーの癇癪を眺めながら、ジョシュとミッキーがけたけたと笑い転げている。ミッキーはかわいいそばかすの散りばめられた真っ白な頬をピンクに染めて、だいぶ酔っぱらっている様子だ。レスリーも最初よりだいぶ声のボリュームが大きいし、私だってそろそろまぶたが重い。みんなそれなりに、程よく酔っていた。何時なのだろうと腕時計に目を落としてみれば、もう時刻はすでに夜の十一時である。
「その話はまた今度ね。もうそろそろお開きにしない? 明日もみんな仕事でしょ」
もういい頃合だ。と私はパンパンと軽く手を叩く。するとレスリーは「僕は明日非番!」ジョシュ「遅番」ミッキー「夜勤」と、口々に言う。……大人げない大人たちだ。
「もう! 私は朝から仕事なの!」
言うと、三人はまた大口を開けてけらけらと楽しそうに笑った。
「嘘だよレディ。ごめんね」
「終わろうか。今日は楽しかったよ、来てくれてありがとう」
「ううん、こちらこそ。呼んでくれてうれしかった」
「また飲もうね」
「喜んで」
ほろ酔いの中、三人とそれぞれ握手を交わしながら帰りの支度を整える。ジョシュとレスリーがそのままの流れで全く意味のない固い握手を交わす様子を横に見つつ、ミッキーが食事の会計をしてくれているそばに寄る。
「いくら? 私の分払うわ」
「今日はいいよ。僕らのおごり」
「そんなの悪い」
「いいんだよ。じゃあ今度はいただくことにするよ」
もともとそのつもりだったのか、彼は迷いなくカードでの支払いを済ませてしまった。私がいくらか手渡そうと現金を取り出しても、頑なに受け取ってくれないので、しぶしぶお札を財布へとしまう。次か。また誘ってくれるということだ。ただの仕事上の付き合いなのだろう、なんてひねくれていた最初のころの自分が急に恥ずかしくなってしまった。この人たちは、おそらくちゃんと、私と友人としての付き合いを求めてくれている。そうだ、あの人だって、もしかして。
「今度は、リシも呼ぶね」
「え!?」
カードのサインを済ませたミッキーが、不意にそんなことを言うので、思わず大きな声が出てしまった。
……エスパーなのか。なんでわかった。
脳内を覗かれた気分になって、私はあからさまにあたふたと慌ててしまった。ミッキーはそんな私の姿を見下ろして、またけらけらと楽し気に笑った。
レストランを出て、最寄りの地下鉄の駅で解散となった。ジョシュとミッキーはそれぞれ私と別の地下鉄路線へと消えていき、レスリーは私を送ってくれると言って同じ改札をくぐり抜ける。それにしても大柄な男だ。彼に掛かるとこの世のすべてのモノがミニチュアサイズに見えてしまう。と、そんなことを考えながら、その大きな背中を追いかけ、いたって普通サイズの改札を抜ける。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
「そう? よかった! 僕たちも楽しかったよ!」
「今日はもうタイムカード切ったのに、いいの? 送ってくれるなんて、残業になっちゃうじゃない」
「今日はボランティアだよー」
わはは、と気持ちのいい大笑いが地下鉄ホームに響き渡る。わんわんと大声で吠える犬みたいだ。なんて、最初にあった時のようなことを思った。そういえばあの時は、リシさんがいたんだった。おかしな話だ。あの時は、彼の方をあんなに頼りにしていたというのに、もうとっくにレスリーの方が仲良しになっている。
「最近リシとは会ってないの?」
目の前の掲示板をぼんやり眺めていると、急にレスリーがそんなことを言ったため、思わず目を見開き彼を見上げてしまった。ちょっとまて、シンガポール警察はみんなそろいもそろってエスパーか?
「会ってない。会う理由がないもの」
なるべく平静を装い応えると、彼は心なしかしょんぼりと眉尻を下げた。どうしてそんな顔をするの。私はそう聞きたくて、けれどなんだか聞いてはいけないような気がして口を噤んでつま先に視線を向けた。
「それに彼、私のことを避けているでしょ?」
……こんなこと、聞くべきではないことは分かっていた。それなのに、アルコールで緩んでしまった頭がうまく言葉を堰き止めることに失敗してしまう。一瞬の沈黙が漂い、その隙間を反対方向の電車がホームに入ってくる轟音が満たす。いやだな。あんなに楽しい気分だったのに。
「そんなことない。別の仕事が忙しいだけだよ」
「優しいのね、レスリー」
「本当だよ」
静かに弁解してくれるレスリーの顔を見ることが出来なかった。こんなバレバレな態度をとって、もう彼には私の気持ちは知られてしまっているに違いない。きちんと否定しなくては、と思いながらも、どんどん萎れていく元気を取り戻せそうになかった。
「リシはいつも君のことを気にしてる。僕らに会うと必ず様子を聞いてくるよ」
「被害者としてでしょ? 真面目な人ね」
「いやそうじゃなくて、いやそうだけど、でもそれだけじゃなくて……」
もごもごと口ごもりながら、彼は一生懸命続ける言葉を模索する。そんな様子を見ているのもかわいそうになってきて、私は彼にけろっと笑って見せた。大丈夫、と言葉も添えた。ちゃんと私の精一杯の嘘は、届いただろうか。
やがて、私たちの乗る電車がホームに滑りこんできて、会話はそこでおしまいとなった。
先ほどまでえらく元気のよかったレスリーが、まるで叱られた子どものように黙り込んでしまったのが少しかわいそうだったけれど、私にはもうそれ以上どうすることも出来ない。
大丈夫も、ありがとうも、ごめんねも、この空気を打破する言葉にはなりえない気がした。
それからの短い道中は、気分を変えようと彼の明日のオフの予定を聞いてみたりしたものの、やっぱり元の楽しい気分は戻ってこなかった。彼は今日も律義に私のマンションの下まで付き添ってくれて、エレベーターに乗り込む私に大きな掌を振った。ただ、その勢いは、やはり心なしか、いつもよりもおとなしかった。
2019/06/06