正しい人
一夜が明け、月曜日の朝がやってきた。朝日は今日もまぶしくて、カーテンを揺らす風は今日もカラッと乾いていて熱い。いつも通りの朝が来る。そう、たとえ一人の人間がこんな風に死にたいような心持になっていようとも、時間の流れはすべてのモノ、コト、ヒトの上に平等なのだと思い知る。
昨日は、帰宅してから結局ほとんど何もせず、ただだらだらとベッドの上に体を転がしたまま過ごしてしまった。この前買った日本の小説本を一度は開いてみたものの、気もそぞろで全く内容が頭に入ってこなかったため、早々に読書はあきらめた。プライベートのスマホさえあれば、くだらないゲームや動画でも見ていくらでも時間をつぶせそうなものだがそのスマホすら手元になかったので、結局昨日は日がな一日、太陽がだんだんと沈み夜を迎える空の色を眺めているうちに眠りに落ちた。
「さ、起きよう」
まぶたも身体も何もかもが重たくて、声に出さないと動き出せそうもない。私はいまだベッドに横たえたままの身体を励まし、ようやく起き上がる。さあ、今日もまた新しい一日だ。大人らしい、自律した私でいなければ。
ずりずり足を摺りながらバスルームに向かう。洗面台の鏡に映った顔を見ると、昨日の名残でまぶたがすっかり腫れていた。
朝食を準備する気力も、食べられるだけの食欲もなかった私は、やっとのことで身支度だけを済ませて部屋を出た。時間は、昨日の宣言通り、いつもと同じくきっかり朝八時。腕時計に目を落としつつ、頭ではどうしても昨日のことを考えてしまっていた。
別れたあれきり、リシさんからの連絡はない。あれだけ冷たく突き放すようにしたのは私の方なのだから、それに文句を言える筋合いはないだろう。昨日はどうにも、冷静でなかったという自覚は、少しある。
ヒステリーな女に見えただろうか。あんなところで、あんなふうに声を荒らげて。きっと温厚な彼のこと、あんなふうに怒ったり癇癪を起したりする人間の気持ちなど到底想像もついていないに違いない。ただ、私とてあそこまで取り乱したのは本当に生まれて初めてだったのだ。混乱と、羞恥心と、裏切られたという身勝手な落胆が、私をあそこまで正気でなくさせたのだと、時間を置いた今ならば理解できた。そして、そもそも裏切られたという感触すら、お門違いも甚だしいなと、ほんの少し反省している。
リシさんは、きっとどこまでも正しい人なのだ。さまざまを思案して最良の行動をとっているのであろう彼の考えていることは、私にはみなまで分からない。それも当然のことだ。私はただの一般人、彼はこの国の警察官。彼が守るべきは、決して私一人ではないのだから。
「恥ずかし……」
エレベーターに乗り込み、たまたま一人だったことをいいことに、ぽつりと独り言をこぼす。
昨日感じた気持ちを今一度噛み締めて、ため息をついた。なんで。どうして。いつの間に。繰り返されるのはそんな疑問ばかりなのだ。だってあんな気持ち、私が知る限り、思い当たるものは一つしかない。でも。まさか。頭のなかで、片一方の私が、必死でそのアンサーに待ったをかける。
出会ってまだたったの数日なのだ。その出会いだって、普通とはかなり違うものだった。
確かにあの人は私のことを特別気にかけてくれていたのかもしれない。でもそれは、それが彼の責任≠セから。断じて気持ちに由来するものではない。
「我ながら、ちょろすぎるな」
そんな絶望的な独り言をこぼしたところで、エレベーターがちょうど一階ロビーにたどりついた。こんなにちゃんとわかっているのに、それでも厄介な心が叫んでいる。いやだ、だめだと拒んでいるのに、どうしたって抗えない気持ちがそこにある。
最悪だ。私、どうしてこんなに、あの人のことが好きなんだろう。
「…………ねえ」
「…………」
マンションを出て駅へと向かう道中、すぐに誰かの視線を感じて背筋が伸びた。ただ、彼ではないことはすぐに分かった。きっと彼なら、今までのように全く私に悟らせないだろうから。そもそも、こそこそ隠れる理由ももうなくなったのだから、堂々と姿を現すほうが合理的だ。気まずかろうとなんだろうと、あの人ならば一番正しい方法を選ぶのだろうと思った。
そして、五分ほど歩き地下鉄入口まで来たところで、私は全然隠れられていないその気配の主に声を掛けたのである。
「ねえ……気づいてますってば」
「……やあおはよう! すごいね! 君ってとっても鋭いんだ!」
ばれちゃあ仕方がない、と、わざとらしく広げていた新聞をばさばさと豪快にたたんで現れたのは、先日リシさんに連れられて赴いた警察署で出会った、彼の同僚のレスリーさんだった。まいった降参だ、といった風に、大きな両手を広げてハンズアップの恰好でこちらへと歩み寄ってくる。じとっと睨み上げると、どうにも困った様子で白い歯を見せ笑った。たしか二つ年下といったか。なるほど、こういう顔を見ると年相応に見えなくもない。
「リシさんに頼まれた?」
「そんなところまでお見通しか。本当に鋭い」
「昨日、全部聞いたから」
淡々とそんな風に言ったものの、心の奥のところがきしきしと痛むのが分かった。ぜんぶ、全部聞いた。ちゃんと理解した。そう、ちゃんと全部、分かったのだ。
背の高いレスリーさんが、ふいに背中を丸めて腰をかがめるのが分かった。なに? と目線で訴えてみれば、彼はぽつりと「大丈夫?」などと藪から棒に聞いた。大丈夫ってなんだ、大丈夫って。大体、大丈夫な状態って何なんだ。
「……大丈夫じゃない」
「え!?」
「……部屋のカーテンレールがまだ、曲がったままなの。全然大丈夫じゃないわ」
笑ってそう言うと、彼はようやく安心したように満面の笑顔で豪快に口を開けて笑った。まぶしい。この国の、丸くて大きな太陽みたいな人だな、と、そんな風に思った。
聞けば、今日も昨日に引き続きリシさんはオフの日らしい。そして今日の私の警護の当番は、レスリーさんなのだという。彼がこの任につくのは今日が初めてで、昨日急に抜擢されたらしく、それまではリシさんを含む三名で交替で守ってくれていたらしい。まさかスタート十分でばれるとは思わなかった、と彼は笑った。
「ということで、もうちゃんと理解したから、隠れてくれなくても大丈夫。ほかの方たちにも伝えておいてね。むしろ、きちんと挨拶をしたいくらい」
「オーケー、じゃあ今度みんなで飲みに行こう!」
「うん? うん……」
そういうつもりではなかったんだけれど。と、口を挟もうとしたが、まあ彼がずいぶんご機嫌な様子だったためもう何も言うまいと口を噤む。
おかしな気分だ。今まで現地の友人なんて数えるほどしかいなかったというのに、急に知人が増えた。それも、これまでの人生で縁もゆかりもなかった警察関係者だ。人生何があるかわからないものである。
それからレスリーさんは、私の短い通勤の時間しっかりとお供をしてくれて、無事会社ビルの下までたどりついた。その間、以前あった時に引け劣らないマシンガントークで私のことを楽しませてくれた。朝からこんなに笑ったのなんて、いつぶりだろう。電車の周りの乗客たちは迷惑そうに眉をしかめていたが、レスリーさんはあまり気にしていない様子だったのも、なんだか笑えた。
「それじゃあ、帰りにまた迎えに来るよ!」
「ありがとう。じゃあね」
ぶんぶんと太い腕を振って盛大に見送られるのはいささか恥ずかしい。エントランスをくぐる、同じビルで働く人たちの視線がなんだか痛かったので、明日からはもう少し手前で別れてもらおうと心に誓い、私は自分のオフィスへと踏み入れたのだった。
さあ、気持ちを入れ替えよう。私がすべきことを、きちんとするために。
「ねえ、今朝の大きな男の人、彼氏ですか?」
「え!?」
そんなことを言われたのは、午前の業務も終わり、会社のラウンジでランチを食べていたときのことだ。先日、チャイニーズを一緒に食べに行った彼女の発言である。
一通り周りを見渡し、知り合いがいないことを確認したつもりだったが、見られていたらしい。どこにいたのかと聞いたら、エスカレーターで二階から三階に昇っているところから見えたのだという。吹き抜けの開放的なエントランスがウリのこの企業ビルの、そこが仇となった。今度からはやっぱり、もっともっと手前で別れよう、と今二度、決心を新たにする。
「違うよ……なんていうか、友人?」
「え〜? ただの友達でわざわざ会社まで送り届けてくれるなんてありますか!?」
ありのままを説明しても、ことを大きくするだけのような気がして、私はとっさに苦しい言い訳をこぼす。まあ、まったくの嘘ではないはずだ。結局何を言っても、信じられない、と目を丸くする彼女に、それ以上なんと説明すればいいのか考えてみたものの、適当な文句が思いつかず、結局あははと笑ってごまかしてしまった。ただし、他言は無用だ。と念を押して。
とはいえこの分では、早々に社内には広まってしまいそうだ。
2019/06/02