ユリ柄のワンピース
――いったい、何を、やってんだ。
姿見の前で、もう起きてから何度目になるかもわからない心の声を、今一度叫ぶ。
朝の九時半。太陽は、すっかり高く昇っていた。
テレビでは、日曜朝だけにやっているエンタメ系ニュース番組が流れていて、今日一日の天気予報を楽し気に伝えている。今日は大気の様子も安定しており、スコールの心配もほぼ無いそうだ。行楽日和? はあ、そうですか…………。
今一度、鏡に映る自分の姿に目を移す。そこには、下着姿のまま仁王立ちをしているアラサー女の姿があった。
いったい何をしているのだか。もうそろそろ尽き果ててもおかしくない頃だというのに、口を開けばいくらでもため息が漏れた。
明日、十時に迎えに行きます。
起きてすぐ確認したスマホには、そんな端的なショートメッセージが入っていた。それを見て一瞬、何のことだろう、と思った。迎えに来る? なんだっけ、なんだっけ、なん……そうだった。寝ぼけた頭を必死に回転させて思いあたったのは、つい数時間前の、眠りのはざまの記憶だ。
「私、きっと寝ぼけてたんだわ……」
絶対そう。それ以外に考えられない。
月明かりの薄く差し込む、なんだか幻想的な夜だったのだ。蒸し暑い空気と、ざらざらしたシーツの質感が体にまとわりつく感触だけを、よく覚えていた。
いや……嘘だ。本当は、やけに優し気な男の声も、だらしなく緩んだ自分の心持も、全部をはっきりと思い出した。
「ありえないでしょ」
口に出さねばやっていられない。誰が聞くわけでもなし、私はぶつぶつと独りごちながら、寝ぐせの付いた髪の毛に櫛を入れる。
あの人からすれば、私なんてただの仕事上の付き合いの相手であるはずだ。きっと今日だって、一人にしておくのが不安だとか、そういう理由で誘ったに過ぎないのだろう。たしかに仕事は休みだと言っていたが、あの真面目そうな彼であれば、正義感から休日返上を決めたのだとしても何ら不思議はないではないか。
そう、大した意味はない。そうだ。
とめどなくそんなことばかりぐるぐると考える。頭がいっぱいだ。そのせいで、身支度をする手にもなかなか力が入らなかった。
「…………」
かちゃりとクローゼットを開けて、しばし中を茫然と見つめた。仕事用にそろえたオフィス向きな服ばかりが並ぶその品ぞろえに、我ながら溜息が出た。そりゃそうだ。休日の度に張り切って遊びにいくような生活とはもうしばらく無縁なのだから、浮かれた服装のラインナップが少なくたって文句は言えない。
私は少し悩んだ末、衣装ケースの一番上の段にしまいっぱなしになっていた、ネイビーに水色の花柄のあしらわれた、ゆったりしたロングワンピースを引っ張り出した。今度のモルディブまで我慢するつもりだったおニューだ。買ってきたときのままビニールに入れられた状態のワンピースを手に取り、ゆうに三分ほどの時間にらみ合った。本当に今日着るの? どうして今日着るの? 今日着なければいけないの? 見ようによっては顔のように見えなくもないユリの花柄たちが、無邪気に私に問いかけてくる。いや、そんなのこっちが聞きたい。
結局、ずいぶんと時間をかけてから、私はとうとうワンピースの袋を破り、一思いにタグまで切った。もうこれで後には引けないのだぞ、とまるで清水の舞台から飛び降りるかのような気持ちだった。
ずいぶん大げさに思う。でも、なんだかこんな、浮かれているみたいで恥ずかしいじゃないか。
「おはようございます、お待たせしました!」
「おはようございます……そんなに待ってないです……」
「そうですか、さあ乗って」
午前十時。言われた通り、マンションの車寄せのところに降りていくと、二分ほどしてからいつもの白い乗用車が見えた。もちろんその運転席に座るのはリシさんにほかならず、彼は車を停めると助手席側のパワーウィンドウを下ろし、ニコニコして言った。いまいちどんな顔をして待ち受ければいいのか定まらなかった私は、大層ぶすくれた顔と声で、ローテンションな返事をしてしまう。が、そんな私の様子など歯牙にもかけぬ様子で、彼はさっぱりと笑った。お邪魔します、と変な挨拶を述べながら、私はおずおずとその助手席の扉を開け車に乗り込んだ。
「どこか行きたいところは?」
心なしかはしゃいだような声で、彼が問う。
「いえ、特に……」
そんな彼に、私はこれでもかとそっけない返事をしてしまう。
「困ったなあ」
言葉と裏腹に、男はまったく困っているような様子ではない。
すい、と車が静かに走り出す。迷いなくウィンカーを左に出して通りへと出た。やっぱり、どうせもう行くところもあらかじめ決めているのだろう。
「……ちゃんとウィンカー出すんですね」
「そりゃあ、僕は警察官ですよ?」
「そうでしたね」
とぼけたことを言った私に、リシさんは嬉しそうにくすくすと笑った。この国のドライバーは、道を曲がるときに指示器を出さずビュンビュン曲がる人が多いため(本来はルール違反だ)、あらためて彼の穏やかな運転はまるでお手本のようだと思った。今まではあまり気にしたこともなかったが、ハンドルさばきや、アクセルブレーキの踏み方がとても静かで、同乗者を安心させる走りである。
と、こんなことを改まってじっくりと観察できているのは、それだけ会話が少ないということも、同時に意味しているわけで。
「なんだか静かじゃないですか、今日は」
案の定、しばらく黙りこくっている私に、リシさんが含み笑いを浮かべながら言った。別に、といつぞや話題になった女優のような無礼な返事が出てしまい、内心少し焦った。日本語は上手だが、きっと彼はいっときの間一世を風靡した嬢のことは知らないのだろうな、と、変な方向に意識がそれる。
どうして普通にできないのだろう、と嫌になった。しかしその答えは存外単純なのだ。もう数年ぶりとなるデートという場でどう振舞えばいいのか分からなくなっていること、そしてそもそも、この場をデートと思ってしまっている自分がいること。この二つである。
リシさんはいったい全体、どんなつもりで私を連れだしているのだろう? 昨日の電話よりこちら、ずいぶん楽し気な様子を隠さない彼に戸惑いながら、こっそりと運転する横顔を盗み見る。私のつまらない返事に気を悪くした様子もなく、その顔には今日も柔和な笑顔が浮かんでいた。さんさんと照り付ける太陽に照らされて、彼の褐色の肌が艶めいて見える。私など、どんな絶好のロケーションで煮ても焼いても、真っ赤に爛れて、やがて死んだ肌がボロボロに剥げ落ちるだけだというのに。と、また意識が横へ横へそれる。
「さ、着きましたよ」
「え?」
と、みたび一人物思いにふけっている間に、いつの間にか車はどこかの駐車場に停められていた。ここは? と首をかしげて見せると、リシさんはただにこりと微笑んで返すだけだった。
車を降りて連れてこられた先は、観光客にも人気が高い、オーチャード通りのデパートの一つだった。今日は休日ともあり、よりいっそう賑わいにあふれている。どの店にもひっきりなしにお客が出入りし、店員たちの接客にも熱が入っている様子が見て取れた。
そういえば、つい最近も、ここに来たことがあった。あれは、空き巣のあった、翌々日のことだ。そうだ、私はあの時、壊れてしまった花器に代わる物を探しに来たのだけれど、結局気になるものが無くてやめてしまったのだった。
「なにか欲しいものでもあるんじゃないですか?」
リシさんが、やけに確信めいたように言った。なんでも見透かす、魔法のような目だ。むしろ私のほうが分かり易すぎるのだろうか?
「前も、結局何も買わなかったですが何か探している様子でしたし」
…………うん?
言葉を続けるリシさんに、一瞬頭が真っ白になる。彼の顔を見上げてフリーズしても、彼の表情は変わらず穏やかだ。
ちょっと待て。前も? それってまさか、あの一人で買い物をしていた日のことを言っていたり、するのか?
「あの、リシさん……」
「はい?」
「前もって、なんですか?」
まさかな、と半分笑いながら問いかけた。一瞬、キョトンとした顔で私を見るリシさんの表情の今を、いまいち読み切れない。
「え、事件のあとの日も、終業後に買い物に来ていたじゃないですか」
忘れたんですか? とからかうように言う彼に、悪意も焦りも見られなかった。ただ当然のことを当然口にしたまでだという、清々しさすらある。むしろおかしいのは私の方だとでも言いたげだ。
ちょっと待て―ー!
「リシさん!」
「はい?」
「待ってください! 黙って私をつけてたんですか!?」
「そんな、人聞きの悪い……」
そして初めて、彼の表情がしょんぼりと曇る。ただそれも、理不尽に叱られるのを戸惑うような、とにかく無邪気なものなのだ。意味が分からない。混乱と羞恥心で、頬が紅潮するのが自分でも分かった。
煌びやかで楽し気なこの場所で、こんな言い合いめいたことをしているのは私たちだけだった。いや、一方的に私が声を荒らげているだけなのだけれど。
「私そんなの全然知らなかったです! ひどい!」
「ひどい? そんな、言ったじゃないですか。身の安全を保障しますからと」
「そうですけど……でも! プライベートですよ!? 信じられない!」
恥ずかしさで視界が微かににじむ。別におかしなことをしていたわけでも、いけないことをした記憶もないが、無防備な状態を監視されていたなんて、考えただけでも顔から火が出てしまいそうだ。
「お、落ち着いてください」
リシさんが、きいきい騒ぐ私の肩を、宥めるように撫でおろす。人の視線を浴びているのが分かる。リシさんが困り果てた顔をしながら、私の手を引きすごすごと歩き出した。私は荒ぶ情緒に苦しみながら、連れられるまま彼のあとを追う。こんな思いをしているのは、ほかでもないこの人のせいだ。この際思い切って逃げ出してしまえばいいかもしれない、頭ではそう思うのに、そのゆるくつながれた手を振りほどくことが出来なかった。なぜか。それはきっと、私が彼を嫌いになれないからだ。まっとうな言い訳をして、私に許す口実を与えてくれることを、待っているからなのだ。怒っているはずなのに、死にたいほど恥ずかしいはずなのに、それでも彼から逃げられない。こんなに散らかり切った気持ちを、私は知らない。
「何か飲みますか?」
アーケードに置かれたベンチに座らされ、気遣わし気に尋ねるリシさんを睨む。私の顔を見て、彼はギクッとなさけない顔をした。また、見たことの無い表情だ。いまだ怒り心頭の中だというのに、頭の片隅でそんなことを思う。
「……すみません。たしかに、言葉足らずでしたね。あなたが怒るのも、無理ないです」
隣にそろりと腰を下ろしたリシさんが、気まずそうに頬を掻きながら静かに言った。私はいまだじっとりと彼を横目に睨みつつ、その懺悔に耳を傾ける。
「あの時はまだ、あなたの意志を明確に聞けていなかったから、こっそり護衛していたんです」
私の意志? 一瞬何のことかと思ったが、すぐにその前の日に昼のホーカーズで交わした会話を思い出した。確かに、その彼の問いにきちんとした答えを返したのは、あの電話の騒動があった金曜日のことだ。
「実感もなかったでしょうし、急に護衛なんて言ったら、かえって怖がるんじゃないかと思って。警察の仲間と交替で、見守らせてもらっていました」
とうとうと吐き出される事実に、理解が一瞬遅れた。きちんと咀嚼して、事情を呑み込んでくるとともに、よけい羞恥心が強くなる。ぼーっと生きていたこの一週間、私を見ている目はリシさんだけではなかったのだ。
「ただ、プライベートな空間やお仕事の現場までは入っていません。断じて。本当です」
少し語気を強め、彼は言った。真剣な目だった。嘘を言っている人の顔には、到底見えなかった。
「……分かりましたよ」
彼の必死の弁明に、だんだんとヒートアップしていた頭と心が冷えていく。いや、もう怒り疲れてきただけなのかもしれない。とにかく私は、彼の言い訳を思ったより冷静な意識で聞いていた。それと同時に、今度は別の恥ずかしさで目に涙がにじむ。
「もういいです、十分理解しました。ありがとうございます」
恥ずかしい? 何が? 私は、自分が羞恥心を抱いているのを自覚しながら、その理由が分からず戸惑っていた。うつむいたまま、もうこれ以上の説明は不要だと早口で告げると、リシさんは戸惑ったような声を漏らしながら、隣で息を詰めている。
恥ずかしい。なぜだろう。どうして私はこんなに、落ち込んでいるのだろう。
ぐったりと重みを増す身体を支えながら、深くため息をつく。
「大丈夫ですか……?」
彼の遠慮がちな声が隣から聞こえ、もう嗅ぎ慣れてしまった花の匂いが鼻腔をくすぐる。何度も何度も、この人といるときに感じる香り。幼い顔立ちに似合わない、エキゾチックな異国の匂いだ。この匂いに包まれるとき、私はいつだって安心できた。ほんの数日の付き合いなのに、もうずっと昔からそばにあったような、そんな気分にすらなってしまう。ああ、なんてこと。私は――。
「恥ずかしい……」
「はい?」
「私……勘違いをしてました。今日はもしかして、デートなんじゃないかって。やっぱりそうですよね、これもただの、お仕事なんですよね」
恥ずかしさの理由を悟って、情けなさに苦笑が漏れた。いや、笑いきることすらできていない。息が苦しくて、まるで水の中もがくような無様な表情が浮かぶ。
「いえ、あの」
リシさんが、そっと気に私の背中を撫でながら、微かに姿勢を低くして私の顔を覗こうとする。
「すみません、ちょっと今は、見ないでほしい」
言葉を吐き出すにつれて、目頭がじわじわと熱くなる。危うくこぼれかけた涙を必死で飲み込んで、決して見られないよう顔をそむけた。
相変わらず、背中に添えられた腕はそのままである。暖かい彼の体温が伝染し、触れたところから溶けてくっついてしまいそうな、不思議な感覚だった。彼のゆっくりとした呼吸のリズムを、その温度を介して感じる。でももう、それを振りほどく元気さえ残っていない。
お互い黙って、静かな呼吸を繰り返す。
休日のショッピングモールの空気は楽し気で、人々の話声はどれも一様に明るかった。こんな、どん底の気持ちでいるのなんて、きっと私だけなのだ。
「……リシさん、帰りましょ」
「え?」
ようやく、涙の衝動も収まってきた。私はぱっと顔を上げて、精いっぱいの笑顔を貼り付ける。
「心遣いありがとうございました。でも、やっぱり休日はきちんと休まないとだめですよ。帰ってゆっくりしてください」
苦しくても、一息に言った。呼吸するたびに、胸の奥がぎりぎりと痛むからだ。
「でも……」
「心配しないでも、今日はおとなしく家にいますから。明日はいつも通りの時間に出勤します」
もうこれ以上傷つきたくなくて、何かを言おうとする彼の言葉をことごとく邪魔した。
ああ、浅ましい。こんな浮ついた気持ちだから、変な輩に目をつけられたりなどするのだ。私は何のためにこの国に来た? そうだ、仕事のためだ、自分が選んだ生き方を全うするために、この国に来たのではないか。
「帰りましょう、リシさん。お願い……もう帰りたいです」
もう許してください。そんなトーンで言い放った言葉が最後になった。
リシさんはそれ以上もう何も言わず、そのあとはずっと困った表情を浮かべて口を噤んでいた。
その後会話もなく車に戻り、お互い黙り込んだままの帰路となった。私のマンションの下に着くと、彼は最後まで彼らしく、遠慮がちに「戸締りをしっかりと」と言い残し、最後の最後まで私を落胆させてくれた。
最悪だ。
逃げるように部屋へと帰った。新しいワンピースを脱ぎすて床にくしゃくしゃに置いたまま、下着姿でシーツをぐるぐると体に纏う。
悲しくて、涙がぼろぼろたくさん流れていた。ぬぐうことも、止める努力も、もう何もしない。今日だけは、馬鹿な私を甘やかしたっていいじゃないか。明日からはちゃんと、全うな大人として生きるから。
2019/05/31