幸福について
今ふたたび、来た時と同じようにリシさんの隣で車に揺られる。時刻はまだ三時を過ぎたころで、太陽はまだまだ高かった。今日は朝が早かったためか、ずいぶん一日が長い。
「今日は、突然あちこち連れまわしてすみませんでした。疲れましたよね」
「まあ……警察署なんて、ただでさえ慣れないところですから」
「いやあ、申し訳ない」
申し訳ないとこぼしつつも、リシさんの横顔からはどこか高揚した様子が見て取れた。きっと、今すぐにでも警部補の待つ本部へと戻りたいのだろう。体力的にも、精神的にも、きっと楽な仕事ではないのだろうという想像は容易につくが、彼はそんな自分の職に、並々ならぬプライドを持っているようなのである。危険も伴うに違いない。それをこんな、ほっそりとした身体で。なんだか急に、太いいばらの棘でずたずたに傷つくリシさんのイメージがふっと頭に沸いてしまい、私はあわててかぶりを振った。
この世には、幸福の総量がちょうど百になるよう、うまく散りばめられているという。質量保存の法則? そんな俗物的なもので幸不幸を推し量るなど、なんだかひどく不躾な気もするが、私はなんとなくそれは正しいことなのではないかと思うのだ。誰かの幸せの裏に、誰かの不幸がある。どこかで起きた奇跡の反対側に、別のどこかで起こる悲劇がある。だからこそ、太陽よりずっと小さいこの地球という星に、七十億以上の人間がひしめき合いながらも生きていられるのだろうと。どちらか一方が膨れに膨れて破裂するときが、きっとこの世のバランスが崩れる瞬間だ。ただ漠然と、私はそういう眉唾的な話を信じていた。私はその中で、欲張りすぎない程度のプラスの因子に導かれて日々を平和に生きている。高いところから落ちれば大惨事になることも、ほんの小さな躓きであれば大きく幸せの軌道からはじき出されることもないはずだ。そういう、打算的な運命論。
なんとなく、彼は私とは違うのだと感じた。きっとそれは、正しいのだろうとも思う。一歩間違えば、大きな傷を負うかもしれない、あるいはもっと――。そんな世界を生きている彼が目指すもの、欲しい幸福≠ヘ、いったいどんな形をしているのだろう。
考えても考えても、きっと私には一生たどり着けない答えだ。
「さあ、着きましたよ」
柔らかな減速を受け止めると、次いでそっと車が停車する。いつの間にか、私の自宅マンションの下へとたどり着いていた。宙に浮かんだような、とりとめもない物思いにふけっていたため、車に乗っていた時間は本当にあっという間のことだった。道中、何かを話していた気がするが、うまく内容が思い出せない。ちゃんと返事を出来ていたかさえ怪しい。
「ありがとうございます。あの、これからまた、戻るんですか?」
送迎用の一時停車スペースのため、いつ次が来るかわからない。私は、そわそわと後方に視線をやりながら、早口で聞いた。
「はい、警部補に呼ばれていますから」
昨夜だってあまり眠っていないのに、この人はまだ自分を痛めつけようというのだろうか。
そんな私の心配など露ほども気にせぬ素振りで、彼はさらりとほほ笑んで見せる。こうなれば、ただの『守られる私』には何を言えるわけでもないことは、明白だった。
「……無理はしないでくださいね」
「いやに優しいじゃないですか?」
「別に、そんなことはないですけど……」
「ふふ、嬉しいですよ。ありがとうございます」
「もう、そうやって茶化して……」
「茶化してなんていません」
ふふ、と再び小さく微笑をこぼすリシさんは、どうにも今までより、浮かれているように見える。本当に、別世界の人なのだなあ、とまた漠然と思った。
「あ、そうだ、待って」
それじゃあ、と車を降りようとしたところで、不意にリシさんに右腕を取られてハッとする。
「差し支えなければ、もう一台の携帯の番号を教えてください。連絡が取れないのは、不安なので」
そう言って、彼がポケットから自分のスマホを取り出した。ああ、確かに。私が彼とつながっているのはプライベート携帯の方だけで、そちらは今あいにく警察署に預けてあるのだった。
本来は仕事の取引相手や社内の相手としか連絡を取り合わない社用携帯ではあるが、事情が事情だ。そして私は、彼の差し出すスマホを受け取り、社用携帯の番号を打ち込んだ。
「それでは、くれぐれも戸締りには気を付けて」
「はい」
「チャイムを鳴らされても、知らない人であれば出ないでください」
「分かりました」
「夜の一人での外出もいけませんよ。また何があるか……」
「もう、わかりましたってば。大丈夫です。子どもじゃないんですから」
今にも降りようとしている足を、彼の声のたびに出しては止め、踏み込んでは止め、立ち上がろうとしては止め、とぎくしゃく動くブリキのおもちゃみたいな様相を強いられて、私は思わず笑ってしまった。過保護にもほどがある。
冷めやらぬ笑いを口の端からこぼしながらリシさんを見ると、思いがけず真剣な瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜いていた。一瞬、ぎくりと肩が跳ねる。
「……あなたみたいなか弱い女性、子ども同然にどうとでもできてしまうんです。残念ながら、ここは善人ばかりの楽園ではないんだ。お願いですから、どうか慎重に過ごしてください」
静かで、それでいて厳しい声色だった。
急に、叱られた子どものような心持になってしまい、すぐには返事が返せなかった。困ったように眉尻を下げながら小さく微笑む彼の顔をじっと見返して、やっと一つ頷き返せた瞬間に、リシさんが小さく「いい子」と呟いた。これでは本当に、まるで子どもをあやす親ではないか。
同い年なのだから、子ども扱いはしないでほしい。そんなささやかな文句も、結局言えずに車を降りた。
遠ざかる白い車の後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。これから彼は、私の知らない顔をして、私の考えすらも及ばないことを成すのだろう。
広いこの世界で、全然違う人生同士が交差している。なぜ私だったのだろう? なぜ、彼だったのだろう? 身の回りを取り巻くすべてのものの輪郭があやふやになって、いつも見ている普通≠ェ音もなく溶け落ちていく――。
「…………だめだ、寝よう」
そう。きっと寝不足だからだ。こんな変なことを考えてしまうのは。
私はとうに姿の見えなくなった道の先から視線を引っぺがし、眠気に重たくよどむ身体を引きずるようにして、マンションのエントランスを潜り抜けた。
夜、首筋にじっとりと掻いた汗で目が覚めた。
今日の帰宅時、あまりに疲れ果てていたため、窓も開けずに眠ってしまったようだ。
「あつ…………」
着替えもままならず、どうにかストッキングとスカートだけは脱いでいたが、上はブラウスのまま。下着も眠りこけた時のままで、実にみっともない恰好だった。
カーテンから差し込む月明かりは今日もほのかに明るく、室内をぼうっと淡く照らしている。ただ、細い時計の針はよく見えない。
いつもの癖で、ベッド脇のサイドテーブルに手を伸ばしてその上をがちゃがちゃとまさぐると、手にぶつかったティッシュペーパーの箱が、コトンと音を立てて床に落ちた。……そうだった、スマホ、預けてきたんだった。見つからなくて当たり前である。いつもは枕元に置いているプライベート携帯は、今は警察署だ。
汗で額にはりついた髪の毛をかきあげながら、ぼんやりと日中の出来事について思い出していると、意識もだんだんはっきりとしてくる。
そういえば、さすがにもう彼は仕事を終えて家に帰り着いただろうか。意識の奥に見る彼の横顔は、まるで子どものように嬉々として、それはそれは輝いて見えた。
けだるい体を叱咤して、むくりとベッドから降りる。中途半端に脱げかけた衣服を全部取り払い、バスルームへと向かう。スリッパを履いていない素足の足音は、ペタペタとひっつくようでなんだか間が抜けていた。
「あっ」
下着を最後まで脱ぎ捨て完全に裸になったころに、キッチンのそばに置いていた食卓でピカリと光るものが目に入る。今私が唯一持っている、社用のスマートフォンだった。そういえば、最後リシさんと連絡先を交換してから握りしめたまま部屋へとたどり着き、そのままここに放り出したのだった。
ピカ、ピカ、とゆっくりしたテンポで断続的にきらめき、何かの通知を主張している。
もしかして。と、胸がざわついた。いまだ少し寝ぼけている頭では、迷わずそれに伸びる手を止めることが出来なかった。
――不在着信が二件。つい先ほどのものだった。その発信者は、当たり前のように私が頭に思い描いたその人だ。
その着信に折り返すことに、何の抵抗もなかった。当然のように思えた。我ながら、こんなにも内側に彼の介入を許しているのは、結構意外だ。
ルルル、と低くこもったような呼び出し音を聞きながら、食卓の周りをうろうろ歩く。素っ裸のまま、何をしているんだろう。いつもならば「あとで」と真っ先にシャワーを浴びに行ったところだろうに、こんなに酩酊しているのは、ひどく暑い、この熱帯夜のせいに違いない。
『はい、リシです』
「……お疲れ様です」
『よかった、出てくれないからどうしたのかと』
「疲れて眠ってました」
『そうかなとは思いましたけどね』
電気もつけない薄暗い部屋の中、まるでため息のような弱弱しい声で話をした。寝起きだからだろうか、全然声に力が入らない。
「まだお仕事ですか?」
『いえ、今帰っているところです。もう一度かけて出なければ押しかけようかと思ってたところですよ』
「えー」
リシさんも疲れているのだろう、声に昼間のような覇気が感じられなかった。ただ、かえってそのゆったり冗談めかした物言いがくすぐったくて、私はまともな返事が返せなくなる。いや、もしかすると彼のことだ、冗談ではなく全く本気の可能性もある。どちらにせよ、こうして真夜中につながるコールは、いつもより少しだけ、心のどこかを柔くする。
『明日はお休みですか』
「ええ。おかげさまで一日のんびり。リシさんは、相変わらず仕事ですか」
『いえ、僕も休みにしました。もともと今週は出ずっぱりでしたから』
「そうですか。もう何日も夜まで働き詰めだったでしょう、ゆっくり休んでください」
『ねえ、一個提案なんですが』
「……?」
まるで親しい相手にするような呼びかけに、一瞬ピクリと呼吸が詰まる。何も返せないまま、つながるこちらと向こうに、一瞬の沈黙が漂った。その静寂の奥に、ちかちかとハザードランプの音がしていたのに気がつき、彼がまたどこかの路肩で車を停めてこうして電話に出てくれたのだと、今更のように気が付いた。
『明日、一緒にどこか出かけませんか?』
「……はい?」
『買い物がいいと思うんです。いろいろと壊れてしまったものがあるんでしょう? 新しいものをそろえれば、きっと気分も変わりますよ』
「え、でも」
さも名案だと言わんばかりの明るい声に、こちらの反論をさしはさむすきがない。私と、リシさんが? 二人で? 買い物? いや、でも、だって。
「明日、リシさんお休みなのでは……?」
そうだ、ついさっきそう言っていたではないか。
この際、浮ついた気持ちがとくとく心臓を逸らせているのには気が付かないでいよう。
『……それは、その』
どんな時も言いよどむことなくはっきりと言葉を発するはずの彼が、珍しくもごもごと口ごもっている。ただでさえ無防備な気持ちが、またグラグラと揺れる。気づかない、気にしない、あり得ない。私はいつの間にか、心もとなさからベッドの上に座り込んでシーツを素肌に巻き付けていた。包まれると安心するのは、いつだって人類の真理だ。
『シャワーと、朝食のお礼です』
「でもそれは」
『だから先に逸脱したのは、僕の方なんですよ』
あくまでも、自分だと言い張る彼に、絆されそうになっている自分がいる。
『どうでしょう。結構、いい考えだと思いませんか?』
ふふ、と含んだ笑いが電波に乗って鼓膜を揺らす。どんな技を使ったのだ、あの男。ああ、耳が熱い。胸が痛い。喉が苦しい。
「……とても、いいと思います」
思わず、なし崩し的に口にしてしまった一言は、もう今更引っ込めることなどできない。
一瞬聞こえた彼の息の音は、笑ったのか、それともため息だったのか。顔が見えない今では、あまりにその判断は難しかった。
2019/05/30