百獣の王
ああ、せっかく買った豚肉と卵がまだ冷蔵庫に入れられていないのに。と、かえってそんな場違いな思考を始めてしまうほど、これはもうどうしようもない状況だ。こうしてこんな猛獣にがっしりと捕まってしまったからには、こんな非力な人間には何もなす術などない。いくら人に慣れているとは言え、相手は百獣の王ライオンだ、なんて、九死に一生ドキュメンタリーのようなナレーションが頭の中に浮かんでくる始末。なんだ、私はとうとう馬鹿になってしまったらしい。
「牛島…ぃ、やだ」
背中に感じるフローリングの床は硬く冷たかった。ふと視線をずらした先には、デザートに切ろうと思っていた熟した桃が、スーパーの袋から落ちて転がっている。あれも冷蔵庫…と、またどこかへ飛んでいきそうな思考をやっと引き戻し、何とかこの男を止めなければとその顔を見あげる。
「…っ」
その目はいつにも増してぎらぎらと熱っぽく、思わずひるんでしまうほどの迫力があった。最近は大分彼の人間らしい部分に触れていた折、この野性的な表情を見るのは、ひどくショックだった。それこそ、半ば無理やり(途中までは完全にそうだ)喰われた最初の晩を彷彿とさせるような、そんな目だ。口を一文字に結んで、何も言ってくれない。ただ、怒ったような鋭い目で、私のことをじっと睨み下ろしている。ぎちぎちと力が籠められ、床に押さえつけられている両手首が押しつぶされそうに痛い。
「ど、どうしたの、牛島」
震えそうになる声をすんでのところで整えて、やけにか細い声で彼に問う。どうしたの、という問いかけが正しいかどうかなんて定かではなかったけれど、それしか浮かばなかったのだ。何か彼の気に障ることでもしてしまっただろうか。さっきまで、明るい照明とBGMのかかる何ともアットホームなスーパーで、並んで買い物なんてしていたというのに。3試合もフルで出場し、きっと疲れているだろうと、今日のメニューは彼が好物だというハヤシライスにするつもりで食材を買った。市販のルーを使うなんて格好つかないからと、以前から調べておいたレシピを頭に思い浮かべながら、トマト缶やらコンソメやら玉ねぎやらお肉やら、ぽいぽいかごに放り込んでいった。きっとそれを見ても、料理をしない牛島にはまだメニューはばれていないだろう。直接訊かれたわけではなかったけれど、籠の中を眺めて少しだけ首をかしげている姿がそれを物語っていた。
「床、痛い」
相変わらず何も声を発さない彼に、私はなんだか泣きたい心地がした。こんな、硬い場所にぺしゃんこに押さえつけられているなんて、まるで本当にこれから強姦されるみたいじゃないか。私が絞り出すように声を出すと、牛島は少しだけ目を伏せて、小さく「ああ」とだけ言った。床に縫い付けられていた手首をそのままぐいと引かれ、いとも簡単に私の上半身を引き起こし、彼は軽々と私の身体を持ち上げた。またも荷物のように担がれる運び方だけれど、前のときのように彼の背中にじゃれつくように叩いたりなどは出来なかった。
「ちょ、乱暴だよ」
「煩い」
「…っ」
彼のベッドのスプリングがぎっしりと大きくなるほど、荒々しく降ろされた身体に、そのままなだれ込んでくるかのように牛島がのしかかってくる。吐き出す息は熱く、首筋あたりにかかり背筋にぞくっとした感覚が走った。快感ではなくて、どちらかと言えばたぶん、恐怖の方。最初の時にはお互いほろ酔いだったから寛容になれたその乱暴さも、素面の今はとてもじゃないが容認できそうにない。ざらざらした掌が、私の顔の半分をすっぽりと覆い、そのまま熱い唇が触れあった。ばくばく食べられるようなキスだ。無遠慮に舌を押し込んで、そうかと思えば今度は唇をちゅぷりと吸われる。自己中なキスに、怒りこそ覚えないけれども寂しくはなった。私の手が、必死で彼の肩を押し返そうと奮闘していることにも全く気を留めず、牛島の大きな手はブラウスの裾を乱暴にたくし上げていた。
「いやだってば」
こんなの、最初の時よりひどい。もしかしてこの人は特別かもしれない、私はこの人の特別なのかもしれないと、そんな淡く抱いていた気持ちもガラガラと崩れ落ちていきそうだ。所詮、私なんて彼にとっては取るに足らないちっぽけな女だったのか。できれば気づきたくなかったな、踏み入れる前に戻りたい。そんなことを思うと、うっと涙がこみ上げるのを止められなくなった。自分の肩にギュッと顔を隠すように横を向き、我慢を試みるも、それはあっけなくぼろぼろと零れ出してしまった。
「吾妻?」
その気配に気づいたのか、牛島の動きがはたと止まった。自分がいけないのに、なんでそんな不思議そうな顔をするの。私は、涙でぼやける視界に彼を収めつつ、ず、と鼻を啜りながら腕で顔を隠す。きっといろんな負の感情のせいで、ひどい顔をしてしまっているだろうから。
「…泣くな」
今までの力強い拘束がゆるゆるとほどけていき、彼は突然しょんぼりとした声でそんなことを言った。嫌いだ、そんな顔しても許さない。
「牛島は、私のこと、やっぱり好きじゃないんだね」
言いながら、たまらなく切ない気持ちになった。言葉とは厄介だ。口にした途端に現実味を帯びすぎて、どう処理したらいいのか、たちまち分からなくなってしまう。私の声に対して、牛島はくるっと目を丸くして、そしてその次とても困ったように眉を下げた。そろそろと大きな手に髪を数回撫でられて、そのままゆっくりと背中に手を回し抱き起される。ぽすん、とその分厚い胸に抱きすくめられて、先ほどまでの恐怖心にも似た嫌な感じがだんだんと落ち着ていくのが分かった。
「すまない」
「許さない」
「悪かった」
「もう知らない」
「どうすれば、許してくれるんだ」
すっかり彼の腕に収まってしまって身動きが取れない状態のため、牛島の表情を確認することは叶わなかったけれど、いつにないその情けない声に、思わず許してしまいそうになる私がいた。なんて簡単な女なのだろうと、いつか感じた自嘲がまたこみ上げる。しかしすぐに折れてやるのも悔しくて、「怖かった」と声を低めて言うと、彼は心底困ったような声で「すまん」とため息交じりに言った。
「どうして、こんな乱暴にしたの」
ぐずぐずと水洟の止まらない鼻声で言うと、牛島が一瞬沈黙した。たぶんこれは、彼自身の中の答えを一生懸命探している沈黙だ。私は静かに、それを待つことに決めた。
「なぜだろうな」
「…なんで怒ってたの、なんか私、気に障ることした?」
「?怒ってなどいないが」
「怒ってるように見えた」
「…気は、少し立っていたかもしれない」
少し緩んだ腕のすきから、彼の表情を見上げると、ぼんやりと考えるように明後日の方向を見ていた。ふと、昼間の練習試合で、ストレートでやられた二試合目に彼が見せた鬼気迫る表情を思い出した。及川くんにしたり顔をされて、完全にキレたようなぎらついた眼で彼をにらみつけていた。そのあとの試合では、結局フルセットまでもつれ込んだものの、牛島はふかし過ぎなくらいエンジン全開でねじ伏せるように点を積み重ねていったのだった。一度でも負けたことが、相当に悔しかったのか。だとすればこの人は、どれだけバレー馬鹿なのだろう。もうバレー馬鹿というよりもバレーロボと呼ぶことにしよう。いつにないアクシデントに、彼の思考回路はきっとショートしかけていたのかもしれない。それにしてもだ。牛島の八つ当たりは、こんなか弱い女子には受け止めかねる。
「…ほんとに、怖かった」
「もうしない」
「ほんと?」
「ああ」
「約束ね。破ったらもう、お弁当もご飯も作らない」
「…それは困るな」
すっかり平静を取り戻した部屋は、先ほどと打って変わって居心地良い空間となっていた。のっそりと私の上から退いて、牛島はおもむろにジャージを羽織り始めた。無言でその様子を眺めていると、「走ってくる」と短的に言い、カギだけ握って部屋を出て行った。ぽつんと取り残されて、まるで先ほどまでのことは夢だったのではないか、という気にさえなった。とりあえず、彼が帰ってくる前に夕飯を作って待っていよう。きっと少なくとも一時間は帰ってこないだろう。先ほどのあの食材たちが、自分の好物に化けて出て来るのを見て、牛島は驚いてくれるだろうか。ああ、私も相当、馬鹿になったものだ。
-----------
20151007