ハミング
うん、やっぱり、牛島にはこっちの方がいい。と、私は支度を終えた彼と対面して改めて思った。がっちりとたくましいその身体に、黒の紋付き袴はよく似合っており、その鋭い眼光とも相まってまさしく“日本男児”という感じの風格が漂っている。和装にしてよかったな、と結局最後まで悩みぬいた結果に対して、かなり満足していた。
「しずか、綺麗だ」
隣に並び、入場を待つ間、牛島はピクリとも表情を崩さずに、そんなことを言った。そんなドラマみたいな台詞言っちゃうんだね、と意外に思いながらも、私はほころぶ頬をとめられない。
「牛島も、似合ってる。かっこいいよ」
「違うだろ、“若利”だ」
「うん、ごめん」
真剣に憤慨する彼は何とも可愛く。私は大事に、彼の名前を一度呼ぶ。すると牛島、もとい若利はとても満足そうに頷いてから、きりっと前を向き直った。これから私も牛島になるのだから当然なのだけど、長い間続けた呼び方を変えるのは何ともくすぐったく難しいものだ。
彼とのおかしくも暖かい関係が始まって約1年半ほどが経ち、大学の卒業間際にこうして結婚式を挙げられることとなった。場所は、彼の地元である宮城の神社だ。突然彼の実家に連れていかれたのが丁度1年ほど前。あまりにも立派なご実家だったので、「とんでもない所にきた」と身構えたあの日はもはや懐かしくさえ思う。学生の私たちには資金などほぼ無いに等しく、お互いの両親にはずいぶんと援助をしてもらってこの日を迎えていた。お父さんは、昨日宿泊先のホテルで夕飯を共にした時からすでにボロボロに泣いていて、もうたぶん、式当日の今日に流す涙は残っていない筈だ。そんな、親バカ丸出しのどうしようもないお父さんの姿を、私とお母さんは呆れ気味で眺めていたのだけれど、彼はとても真剣に「すみません」と頭を下げていた。それを見て、私は、この人の傍を一生離れられないという気持ちをいっそう強くした。「やっぱりいい人ね」と、お母さんも嬉しそうに耳打ちしてきたので、私は心がじわりと満ち足りていくのを感じた。
厳かな空気の中、誓詞を読み上げる彼の凛とした声を聴きながら、白無垢の重さを身体に感じて、今更ながらにこの人と家族になるのだということを実感していた。よどみなく最後まで読み上げられた言葉、そして彼の名前に続き、自分の名前を神殿に向かって述べる。かさりと、半紙を畳んで懐にしまう彼の姿を見て、まるで夢みたいだと、頭の中がふわふわとした。
その後、参列してくれた友人たちも交えて集合写真を撮った。彼の地元ともあり、集まっている顔ぶれに、私の知る顔はあまり多くは無い。やんややんやと遠慮なく彼に声を掛けている同年代の男の子たちを見て、彼にもそう言う仲間がいるのだという事に、すこし安心してしまったくらいだ。「仲いいんだね」とこっそり耳打ちすると、「高校の部活で一緒だった連中だ」とまっすぐに答える。少し分かりにくいが、その目の奥には、とても嬉しそうな色が見て取れた。
「まさか牛若に結婚まで先越されると思わなかった」
「え、なんで若利くんの結婚式に及川くんがいるの?」
「一応チームメイトですからね、今は」
そういって、不機嫌そうにするのは、スーツ姿ですらりと立つ及川くんだった。牛島の友人と見える茶髪の男の子が、及川くんの顔を嬉々として指さして目を輝かせている。現在日本代表のチームメイトで仲良くしてくれている顔ぶれも何人か見えていたが、まさか及川くんが来てくれるとは思っていなかったので、これには私も少し意表を突かれた気分だ。
「天童、その辺でやめときなさいよ」
「獅音」
「せっかくのめでたい日なんだから」
うららかな日差しの下、大勢の人が玉砂利を鳴らしながら、穏やかに笑っている。その中心にこの牛島若利がいる光景は、何とも私の心を震わせた。
「しずか、おめでと。いいね、すっごい綺麗。似合ってるよ」
と、客観的にそんな光景に満足していると、隣からこっそりと真帆が声を掛けてきてくれた。ことあるごとに私の駆け込み寺をしてくれている尊い親友だ。最初のころは牛島を大分倦厭するきらいがあったものの、今では彼女も牛島のよき理解者としてなんだかんだここまで傍にいてくれていた。ありがとう、と小さくお礼を言うと、彼女は晴れ渡る空のようにからっと笑った。
「まさか、本当に嫁になっちゃうとはね」
「ね。どうしよ、私も牛島だって、すごいね」
綺麗にお化粧してもらっているのに、顔いっぱいに笑ってしまうのがどうにも止められなかった。そんな私たちの会話が聞こえたのか、牛島がたいそう慌てた様子で「いやなのか?」と訊いてくるので、私は真帆と顔を見合わせてまた笑った。
結婚式や親戚への挨拶まわりなど、もろもろが落ち着いて東京に戻ったのは、それから一週間ほどしてからだった。半月前に引っ越してきた新居は、いまだ段ボールも開けきっていない、中途半端な状態であった。私は、ソファに座って背もたれに頭を預けながら、きらりと細い結婚指輪を光らせている左手を、上にかざすようにしてぼんやりと眺める。マグカップにコーヒーを淹れて戻り、ソファの開いたスペースに座る彼は、そんな私の様子を不思議そうな面持ちで見ていた。その彼の手にだって、同じデザインの指輪がはめられていて、それはますます不思議な光景だった。今までと変わったことと言えば、こうして一緒に住み始めたこと、そして、お互いの指に揃いのリングが光ることくらいなもので。
「牛島、バレーするとき、ちゃんとそれ外してね?」
「?ああ。分かっている」
其れ、と言いながら、牛島の手の指輪に触る。左利きの彼なので尚更、バレー中にこんなものしていたら手も指輪もただじゃすまない。
「それより、いつまで苗字で呼ぶ気だ」
「ごめん、つい」
未だについつい間違ってしまう彼の呼び方。これが本当に照れくさく、いつの間にか自然と私のことを下の名前で呼びだした彼を、ひそかに尊敬しているほどだった。ことり、ことり、と静かな音を立てて、二つのマグカップがテーブルに置かれ、もくもくと湯気を上らせているその香りを、すこし深く吸った。
「しずか」
「はい、なんでしょう」
「ありがとう」
突然、彼が真剣な顔をして言った。何に対してだろう。このコーヒーを淹れてきてくれたのは彼自身だ。何のこと?と小さく質問してみると、すこしその目を伏せてから、まぶしそうに細めた眼差しで私の目を見つめ、それから一度、ゆっくりと頬を撫でられた。
「傍にいてくれて、ありがとう」
「…何をいまさら」
口ではそんな風に返しながらも、私は胸にこみ上げる感情の大きさに押し負けそうだった。こんなにも人を愛おしいと思うことができるのか、と思うくらいに、体中で感じる気持ちだ。きっと、これから子供ができて歳をとって家を建てて、じっくりと家族になって、よぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんになるまで、私はずっとこの人の頭の中身を解明することは出来ないと思うし、だからこそ離れられないのだろうと確信する。
「私が、若利を幸せにしてあげる」
「ああ、よろしく頼む」
「素直か」
そこは、「俺が幸せにする」って嘘でも言うところでしょう。そんなことを思っても、おそらくこの人にはあまりしっくりこないと思ったので、とりあえず私は笑って済ませることにした。もうこの人の大真面目なボケにもさほど戸惑わなくなっている。それは彼と過ごした時間が身体に蓄積されていてるからに他ならないのだと思うと、それだけでとても嬉しかった。
「今日は何が食べたい?」
「なんでもいい」
「じゃあ、久しぶりにハヤシライスにしようか」
こくんと頷く彼の目の奥が、無邪気に嬉しそうに光った。
-完-
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20151017