一夜明け
おはよう、と声を掛けただけなのに、真帆にはおよそ私の様子が普通でないことが一瞬で見抜かれてしまったらしい。朝の挨拶を返すよりも先に、「どうしたの」と怖いくらいの表情を浮かべて、せっかく取っていた前の方の席から立ちあがって迷わず私のもとへ駆け寄ってきてくれる彼女を見て、私は目の奥からこみ上げてくる熱いものがこらえきれなくなった。一晩悩み倒しても、不貞腐れてした二度寝から覚めてみても、涙なんて溢れてこなかったのに、真帆のその心配そうな表情を見てしまったらもう、“実感”することが止められなくなってしまった。
「二限いいの?」
「いいの」
そろそろテスト前の時期なのに、なんとも男前な親友だ。そんなことをぼけっと考えながら、私は小さな子供みたいに、ぼろぼろ零れる涙をそのままに真帆の手に手を引かれて教室を後にした。
「牛若は、やっぱり手ごわかったよ」
二人で移動してきた校舎裏の広場は、授業中ということもありほとんどほかに人はいなかった。野ざらしになって、色の禿げたベンチに並んで座り、ひゅうひゅう吹く風に身を寄せ合うようにして耐えながら、真帆は私の言葉を待っていた。そんな彼女に、まず何から言えばいいのかが分からず、すこし考えてから出た声が、それだ。自分で口にしてから今更のように、本当にその通りだったなあと改めて納得するような気持ちになった。
「…しずか、分からない」
真帆は、呆れたような表情で言いながら、私の顔を覗き込む。だんだんと涙は引いてきたけれど、そんな顔を向けられると、たちまちどうしていいのか分からなくなる。だってこの子は、最初から忠告をしてくれていたじゃないか。それでもずいずいと勝手に深みにはまっていって、勝手に戻れなくなっていたのは私の方だ。
「なんかあったの?」
よしよし、なんて、それこそ小さな子にするようにそろっと頭を撫でられて、止まりかけた涙がまたもあふれ出した。
「牛島に、フラれました」
「は?」
「私は、あの人の彼女には、なれないみたい」
自分の口から発する言葉が、まるでナイフのように自らの身体に刺さっている。言いながら、事態をもう一度反芻してみても、事実を冷静に並べてみたところで私の頭に浮かぶ結論は変わらなかった。昨夜確かに、牛島は私の発した“彼女”という肩書に対して「すまない」と言い否定をしていた。でもそれと同時に、私のことは好きだという。一般人の尺度では測れない感情の機微があったのかどうなのか、こうしてぼろぼろ泣いてはみているものの、実際私の頭の中では、この状況を未だ掌握しきっていないというのが正直なところだった。
真帆が、「いいから落ち着きなさい」とため息をついて、私の背中をゆっくりと撫でる。はい、深呼吸。まるで私のカウンセラーだ。今までも全部を聞いてくれていたこの親友は、今回も私を導いてくれるだろうか。そんなことを思いながら、昨夜、彼の腕の中で巻き起こった出来事について話をした。話しながら、昨日のお鍋の残りのスープに、一度火を入れて来るのを忘れて家を出たこと思い出した。
「ごめん、分からないや」
「真帆様にもお分かりにならない事ってあるんですね」
「私別に全知全能じゃないから」
話し終えてみたところで、今回ばかりは悩みの種をお裾分けしてしまっただけという結果にとどまった。はあ、と二人で晴れた空を見上げて息をつく。牛島若利は難しいねえ、ほんとだねえ。そんな、どうにもならない会話を交わしながらも、話を聞いてもらえたことで存外自分の気持ちがすこし落ち着いてきていることに気が付いた。
「でも多分、それは終わりじゃないよ。牛若に、ちゃんと直接聞きな」
「なんて質問すればいいのかも分かんない…」
「面倒なやつだねえ」
「私?」
「どっちも」
困ったように笑う顔。そんな面倒な私を見放さないでいてくれるこの親友に対しては、ただただ感謝しかない。
とは言ったもののだ。昨日の今日、いや今朝の今というこの熱々の状態で、いつも通り第一校舎前で牛島と合流するなんて芸当は出来そうになく、今日は大学駅前のカフェで真帆と二人早めのランチとすることにした。昼休みが始まる時間になり、店内が同じ大学の女の子たちで徐々に騒がしくなりはじめ、ふと“牛島が待っているかもしれない”という気持ちでそわそわといたたまれなくなった。彼女はおそらくそれに気づいていたけれど、あえて気が付かないふりを決め込んでいてくれた。それどころか、にやりと笑いながら「乙女心を弄んだバツよ」とそんなことを言って、サクサクとサラダを口に運ぶ彼女は、何とも快活で頼もしかった。
そして来る部活の時間。体育館はいつも通り、シューズの音とボールを打ち合う音と気合の掛け声がこだまする活気ある空間だった。そこにはもちろん牛島の姿もあった。いつも通り眼光鋭く、練習だろうとなんだろうと、徐々に力の入れ具合を上げていき最終的には大砲のようなスパイクを打ち出して、ミニゲームの対戦相手を蹴散らしている。練習開始から約2時間、ここまで、彼とは一言も会話を交わしていなかった。いつもだって、練習が滞り無く流れ始めれば、選手と交わす会話など数えるほどだ、別に特別おかしな状況というわけではない。けれど、先ほどから感じる牛島の鋭い目線、こればかりは気のせいでもなければいつも通りでもないということは明白だった。いつも通り練習中の真剣な顔であることには間違いないのだけれど、私はその中に、かすかな彼の怒りを感じてしまい、背中がひやりと寒くなっていた。
「しずか、帰ろ」
「え?」
「映画見たいのあるんだ。付き合ってよ」
部活が終わり、着替えを終えてロッカールームから出るときに、真帆が突然そんなことを言った。普段そんなことを言いだすことはあまり無かったため、私は少し意表を突かれた思いで間の抜けた声を出してしまう。真帆は静かに笑い、そしてふと、後ろを振り返る。
「いいでしょ?牛島。たまには、しずか貸して」
つられて振り返った先には、ギュッと眉間に力を入れて鋭い表情を浮かべる牛島が立っていた。壁にもたれて、もしかして私が出てくるのを待っていたのだろうか、なんて都合のいいことを考えて少しばかり、くすぐったいような気持ちがこみ上げる。けれど、一日会話を交わさなかった彼と、果たしてうまく話すことなどできるだろうか。嬉しい気持ちと困惑した思いが交差して、ひとまず今は真帆の背の後ろに隠れることしかできなかった。
「俺には決める権利など無い。吾妻の、好きにしたらいい」
真帆のどことなく挑発的な匂いのする発言に対し、牛島はよどみなくそう返す。私はいったいどうしたいのだろうか。けれど、今は少し、考える時間をもらいたい。
「行こう、真帆。牛島、またね」
一瞬、牛島の瞳の奥が揺れるのを見た。それを見て、単純な私は少しだけ、離れがたいような気持ちがこみ上げて、自分の意志の無さもたいがいだと呆れるに至る。ちゃんと、直接聞いてみないと分からない。けれど、いったい何をどうやって聞いてみたら、牛島の思いが掬い取れるのかが全く持って分からなかった。知恵の輪を解いていくような、ジグソーパズルのピースをはめていくような、ゆっくりとしたペースで紡ぐ牛島との会話。久しく、そんな風にじっくり話すこともしていなかったなと思い、少しばかりの申し訳なさがこみ上げて来る。今まで、どんな風に彼と会話をしていただろう。自信の無い私の気持ちは、心もとなくゆらゆら揺らぐ。心の中で、ごめんなさいと思いつつ、私は真帆と二人、踵を返して彼に背を向けた。何も言わない、追いかけても来ない、牛島はいったい、今何を思っているだろうか。
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20151015