添えるなら霞草
誰かの気配を感じて薄目をあければ、そこには今ここにいるはずのない鉄朗の姿があった。幻か、まだ夢を見ているのか。まだ眠りから覚め切らないふわふわとした感覚の中で、一生懸命その姿を目に映す。
よう、と軽く手を上げ私を見下ろす彼の手には、かしゃかしゃと音を立てているコンビニのビニール袋。
なんでいるの?ぼやぼやとぼやける脳味噌のまま言葉にすれば、軽い拳骨が頭の上に降ってきた。こんな状況の私に対して随分な仕打ちじゃないか。そんなことを思いながら、その手の主を見上げれば、いつものように穏やかに目じりの下げられた柔らかい表情を浮かべていた。
ごほごほ湿った咳がこみ上げて、じんじんと首から上が熱い。また、熱が上がったのだろうか。
「ただいま」
「…来なくてもよかったのに」
「ばーか」
「馬鹿って言う方が、馬鹿だよ」
「どの口が言ってやがんだ」
粗暴な言葉であるにもかかわらず、その声色は泣きたくなるほど優しくて、髪をかき混ぜる手のひらが大きく心地いい。たったそれだけのことだ。けれど、涙の膜が視界を歪めていくことを、止める術など生憎私は持ち合わせていなかった。
ベッドに横たえた体が、どろどろに溶けて全部染み込んでしまいそうだ。心細くて苦しくて、そんな私の目をしっかりと見つめながら、彼はゆっくりと枕元であぐらをかいた。優しい指が、汗で張り付いた額の髪を剥がしてくれる。やれやれと、そんな呆れた表情をしているのだろうけれど、相変わらずぼやける視界の中ではそれを見ることは叶わなかった。
「ただいま、名前」
瞬きの拍子に溜まった涙がぽろりと一筋目尻から滑り落ちて、突如良好になる視界に見えた鉄朗は、想像したとおりの優しい表情でもう一度言った。
安心したら、なんだか少し、眠たくなってきた。
次に目が覚めたのは、窓の外もすっかり暗くなった夜のことだった。寝巻きがぐっしょりと汗で濡れ、その気持ちの悪さで目が覚めたのだろう。むくりと布団から体を起こしてみると、肌に纏わり付くTシャツの生地が煩わしかったけれど、思いの他体が軽いことに驚いた。
どうやら夢を見ていたようだ。ふとベッドの枕元に視線をやれば、浅い眠りの合間で見た鉄朗の穏やかな表情が目に浮かぶ。じっとりと汗をかいている頭を自分で撫でて、そこに彼の手の温度を思い出そうなどと考えたことには、どうにもすこし、後悔したが。
(いない…)
せまくて暗いワンルームの室内を見渡してみても、さきほどまで夢で見ていた姿はそこに無い。それはそうだ。こんな平日に、いつだって仕事で忙しく日本中飛び回っているような彼が、都合良く駆けつけて来てくれている筈もない。
耳の奥にこびりついた「ただいま」という言葉が、どうしようもなく優しくて暖かくて、たったそれだけで再び鼻の奥がつんとする。どうにも涙脆くてダメみたいだ。たかだかいつもよりも少し体温が高いだけなのに、それは脳味噌の記憶や感情を司る部分の仕事を、思うよりずっとぐちゃぐちゃに邪魔しているらしい。
「あーだから、明日はリスケでお願いします…はい、週明け伺いますから…はい。はい」
え、と思わず声が漏れた。タップリと汗をかいたおかげで少し下がりかけていた体温が、また一度上がるのを感じ、全神経が研ぎ澄まされるような感覚だった。
「はい、じゃあ、すんませんけどそれで。はい、よろしくお願いします」
白い会社用のガラケーを耳に当てながら、からからとベランダの扉を開けて部屋へと上がってくる大きな姿。仕事の電話にでる時の、私のしらない声で話す彼だった。暗い室内に、夜風とともにたっぷりとタバコの匂いが吹き込んでくる。
「あれ、起きた?オハヨ」
「お、おは、おは…」
「落ち着け」
夢でも幻でも無くて、ついさっき切望した彼の姿が今目の前にあった。暗がりの中でもはっきりとわかる。先ほど夢で見せてくれた、優しげな表情をした彼が、緩慢な動作で私の方へと近づいてきている。
「え、な。なんでいるの?」
「お前が呼んだんでしょうが」
「うそ、呼んでない」
「電話してきたろ。熱出ちゃったって」
「うそ」
そんな否定を返しつつ、少し冷えてきた頭でベッドの片隅に転がったスマホを取り上げてみると、昼の三時頃に何度も彼の携帯に着信を入れている履歴があった。そこでようやくことのあらましを理解して、背筋が寒くなるような感覚がこみ上げる。
つまりそういうことだ。寝ぼけていたのか熱にやられていたのかは定かではない。いずれにせよ、すっかりポンコツになり果てた私は、今日も遠く出張中だった彼へ無意識のうちに連絡を入れていたということだ。それこそ、いつもより少しだけ体温が高くて喉が乾く、ほんのそれだけのこと。となれば、私の言うべき言葉は一つしかなかった。
「ごめん、鉄朗」
「なに謝ってんの」
「今日、だって、出張だって…」
「やめた。リスケできる用事だったし」
「でも」
「いーの」
今日はどうやら満月に近い日のようだ。月が明るく暗い室内に薄い光りをもたらして、呆れたような鉄朗の顔を照らし出す。陰影の中に、とびきり甘やかな表情が浮かびあがるのが見えた。そんな些細な事だけで、また再びの涙が込み上げそうになるのだから、存外私はまいっているみたいだ。
「汗だく。ざっとシャワー浴びておいで」
「鉄朗、ごめ…」
「いいから。早くいかねえと身体中舐め回すぞ」
「へ、へんたい」
反射的に出た私の返事に、彼はけらけらと高く笑った。のそっと伸びて来る太い腕に捕まらないよう、慌ててベッドから降りて逃げ出すと、彼がずいぶんと満足そうな表情で手を引っ込めた。
その場で立ち尽くしながら、鉄朗がカバンからノートパソコンを引っ張り出して起動している様子をしばし眺めた。仕事に、とりかかるらしい。見慣れないワイシャツの後ろ姿に、愛しい思いが積もり積もって息が詰まりそうだった。
「てつろ」
出てきた声は、思ったよりも涙声。立ち上がった黒い髪が、ゆらりと揺れる。
「テツ」
その背中に、すがりつきたくて堪らない。熱のせいか、久しぶりに会ったせいなのか、どちらにせよそのシワのよったシャツの後ろ姿に、今すぐしがみついてしまいたいという欲求が込み上げて、まるでアルコールに酔っているような感覚だった。
「名前さ…気づいてる?甘えたいときいっつもそうやって俺のこと呼ぶの、自分で」
「え…」
「さすがのボクも、もうそれ以上はたまらないので、その辺でやめておきなさいね」
顔の温度はかっかと上がり、一方汗が冷え始めた体は少し寒い。顔だけこちらに向けられて、彼の黒目が私の姿をしっかりととらえている。
恥ずかしさやらなにやらでその場に立ち尽くす私を見て、安心したのか満足したのか、鉄朗はクスリと小さく笑い、再びパソコンに向き合った。キーボードをたたく軽快な音が、静かな私の部屋に染み渡っている。
その音が止んだ頃、猫背の背中に少しだけ、寄り掛かってもいいだろうか。
そう思いながら、私はふらふらと浴室へ向かった。
2016.07.13