白昼夢
※巷で流行りの『○○しないと出られない部屋』の設定です。
「だめだ、やっぱり出口が見当たらない 」
岩泉は、畳んでジーンズのポケットに押し込んでいた紙を今一度引っ張り出して確認をする。やはり、これってことか。下唇をむっと突き出しながら眉をしかめ、その紙を睨む目は、不安というよりは随分と不機嫌そうなそれであった。
事の起こりは、十分ほど前まで遡る。
岩泉と私は、床と壁の境界線がはっきりしない、この真っ白な空間にいた。ここまでどういう経緯でやってきたのか、ここはどこなのか。そんなこともよく分からないまま、とにかくそこにいたのは、私と彼のふたりきりだったのだ。ほとんど同時に目を覚ましたと見える彼が、きょとんと目を丸くしながら私を見ていた。
「うす 」
どこか気まずそうに、岩泉は言った。襟足の髪を心もとなげに触りながら、きょろきょろと目線は白い床と壁と天井を一通りなぞる。私は、そんな彼をただぼんやりと眺めていた。
ここどこだ、とブスッとしながら問われるも、そんなことこっちだって知りたい。何ひとつものが置かれていない空間では、気味が悪いほど、お互いの声がボワボワとよく響く。
ひとまずこのまましゃがみ込んだままでは埒があかない、と立ち上がろうとしたところで、床に着いた手元でくしゃりと紙の鳴る音がした。ふたりともそれに気が付き、些かシワのついてしまった紙を拾い上げて覗き込む。これまた真っ白いコピー用紙のど真中に、印刷された明朝体の文字で短い文章が記されていた。
【どちらかが相手を泣かさないと出られません。80分以内に実行してください。 】
その内容に、ふたりしてしばしのフリーズ。いったいどういうことか。理解はまったく追いついてこないものの、この摩訶不思議な空間からの脱出口を見い出すことが先決だ。私たちは、立ち上がり壁や床をくまなく調べ、どこかに出口がないものかと探し始めた。いったん、このわけの分からないメッセージはポケットの奥に押し込んで。
「…これしないと出れないってこと?」
「わけわかんねえ」
「出口は?」
「知るか」
そして今に至る。
結局、探し求めた出口は一向に見当たらず、時間ばかりがゆるゆると過ぎていた。
観念して、その紙に書かれている内容を今一度確認しながら、当然のごとく、疑心暗鬼の気持ちを抱かずにはいられない。とはいえ、現在この繭の中のような真っ白い空間で、唯一手がかりとも言えるものがこれだけなのだから、無視を決め込むのもそろそろ限界だった。
「もう十分経ったね」
先程まで、私は休日午後の惰眠を貪っているところだったのだ。一週間のうち指折りの楽しみな時間だったと言っても過言ではない。それが、どうしてこうなった。寝苦しさから見る夢なのだろうか。
部屋中に他の手がかりを探し始めてこの方、すでに十分程が経過していた。もしもこの手紙に書かれていることが全て事実だとして、残された時間は一時間と少しばかりしかないことになる。
「…これすれば出れるってこと? 」
「かなり怪しいけどな。他に手もないようだし 」
「岩泉は、あんまり泣いたりしなそうだね 」
「おう 」
岩泉は、いつにも増してそのしかめっ面を険しくしつつ、後ろに手をつきながら胡坐を掻いて再び白い床に座り込んだ。私もそれに倣い、なんとなく背を伸ばして正座した。
固い床は、あたたかいのか冷たいのかよくわからない、変なぬくもりを感じるすべすべとした肌触りである。不思議な空間。再び見回して思うのは、やっぱりきっとこれは夢なのだろう、ということだ。
「ちょっと私のこと殴ってみてよ 」
「は? 」
「いつも及川君のことぶん殴ってるみたいにさ 」
夢の中とは言え、あの岩泉のパンチはさぞ効くことだろう。これで夢が覚めれば、いささか色気には欠けるが儲けたものだ。それでなくても、きっとあまりの痛みに涙の一滴や二滴簡単に出てくれそうな気がする。この二人でこんなことになっている以上、泣かされるのは私の役割で泣かせるのはこの男の役割だ。
「女殴れるわけねえべや 」
「いいって、私の夢なんだから 」
「…そう言う趣味かよ 」
「違うってば。どうせ私のお昼寝の夢の中なんだし、適当にぶって適当に覚まさせてよってこと 」
岩泉一という男は、夢の中でも真面目なのだなあ、と、困ったように腕組みをしながら眉をしかめている彼を見て思った。ああ、私の深層心理という事か。どちらにせよ、通常運転ですら男前が過ぎるこのクラスメイトが、一向にその拳を振り上げてくれないことを悟った私は、真っ白い天井を見上げながら、次なる手を考え始めていた。
目に映る白があまりに単調で、すぽっと吸い込まれそうな感覚に陥ってしまう。掃除機で、誤ってティッシュを吸い込んでしまったときの最後のひと吸い。震える白い、薄っぺらな紙が、あっけなく視界から消える。
ゆっくりと岩泉の方を見れば、相変わらず難しい顔をしながら腕を組んで微動だにしない。
「なんか悲しい事でも考えて泣け 」
「えー 」
「得意だろ、演劇部 」
「え、まって違うよ、手芸部だってば 」
「知ってる 」
「勘弁してください 」
どことなく瞳孔の開いたように見える黒い目で、じりじりと岩泉がこちらに詰め寄ってくる。わけの分からない特殊な設定を押し付けながら、私に迫真の演技を求める彼は、どうやらとても必死のようだ。眉間に寄った皺が、まったく取れる気配がない。生憎私は演劇部でも女優志望でも何でもないのだけれども、彼に涙を求めるよりは望みがあるだろうと、仕方なく言われた通りに一番最近の悲しい記憶を手繰り寄せ始める。
何があっただろう、そうだ、この前見た動物のドキュメンタリーで、ライオンの親子が離れ離れになる話。飢えた子ライオンが切なく鳴きながら母親を探し、結局再会することが出来ずに尊い命を落とす場面。地球の裏側で実際に起きていることだという事が余計に悲しくて、ぼろぼろと泣きながらテレビにかじりついて見ていた。
正座を体育座りに切り替えて、膝に顔を埋めて考える。ライオンの親子、乾いたサバンナ。さまよう子ライオンに集る死の象徴のような蠅。我が子を呼ぶ悲しい母ライオンの鳴き声。命の火が消えていくシーンは、思い出すだけで胸にぐっとこみ上げるものがあった。
「…何考えてんだ? 」
「ちょっと、引っ込んだんだけど 」
「あ、わりい 」
自分の新たな才能に気づきそうになる程度には順調だったというのに、ふとかけられた声により、込み上げ掛けていた涙の衝動は一気に撤退していってしまった。黙り込んだ私に、いてもたってもいられなくなったらしい。ゆっくりと顔を上げて、彼の顔を見れば、言葉の通りにとても申し訳なさそうな表情を浮かべていた。思いのほか近く、じっと見つめられていたのかと思うと、急に恥ずかしくなった。
「ちょっとこっち見ないで 」
耐えかねて、背を向ける。不満げに、「おい」という声が聞こえたが、私は子ライオンのことを考えるのに忙しいのだ。
それから、もう二〇分ほどの時間が経ち、最悪な事態が起きた。
「ねえ嘘でしょー 」
「”泣く” じゃダメってことか 」
見事なまでに、私は泣いていた。結局、ライオンに始まり、はじめてのおつかい、そしておじいちゃんと犬の別れ、といろいろなテーマでようやっと零れた涙は、ただ私の頬を滑り落ちて床にぽたりと落ちるだけで、一向に状況に変化が現れなかったのだ。夢は冷めないし、部屋からは出られない。
どういう事だ。話が違う。裏切られた気持ちで怒りの涙がこみ上げそうになりつつも、やけに冷静に再び指令の紙を眺めている岩泉の姿を見て、ぐすりと鼻を啜った。
「”泣かされ” ないといけないってこと? 」
「かもしれないな 」
「じゃあやっぱり殴って 」
「…それは無理 」
傍から見れば、私はすっかり岩泉によって泣かされている可哀想な女子なのに、どこにいるかも分からないジャッジマンはこれを可としなかったようだ。
ぼちぼち起きないと、夕餉の時間を過ぎてしまう。早々に暴力的解決を求める私に、岩泉はその提案を却下した。
「わかった、じゃあなんか泣ける話して。感動するのでも怖いのでも何でもいい 」
この涙の勢いが完全に鎮静化する前に、と、私は目が乾かないうちに岩泉に縋り付くようにして言った。ぎょっとしながら私を見下ろす岩泉の、いつにない強張った顔。
分かっている、普段からあまり口数の多くない岩泉にとって、この課題はいささか荷が重い。ただ話をするならまだしも、ひとを感動させるような話だ。普段ボールとネットとお調子者の幼馴染にばかり向き合っているこの男にとっては、きっと女を殴るよりも難しいことに違いない。
「…やっぱりパンチでいいよ? 」
「いや、それは 」
「意地っ張り 」
「変態どМ女 」
「仕方ないでしょ 」
にっちもさっちも。私だって好き好んで殴られたいわけでもないのだけれど、この事態を何とかするには多少の犠牲はいとわないという話だ。それでも、どこまでも男前な岩泉にとって、こんな私でもどうやら傷つけられないか弱い女の子に見えているらしい。それは、なんだかとてもくすぐったくて、恥ずかしい。思わず続ける言葉が見つからなくなって、再び膝に顔を埋めると、岩泉が背を丸めながら顔を覗き込んでいた。心配そうな顔。なんだってそんな優しい顔をしているのだか。
いくら私の夢だからと言って、これは少し、都合が良すぎるというものだ。
それから、岩泉は朗々と話をし始めた。…いや、嘘だ。朗々とは程遠いたどたどしい彼の話は、私の涙を誘うどころか、心配を、最終的には笑いまで連れて来る始末。必死で話している彼になんだか可笑しくなって吹き出すと、岩泉は無言でがっしりと私の頭を上から鷲掴みにした。
「ちょ、痛いって 」
「笑ってんじゃねえよ 」
「だって、必死だから 」
「しゃあねえだろうが 」
見上げる顔に、ほんのりと赤みがさしているのがどうにも可愛くて困ってしまった。いつも真っ直ぐ正しい男前の化身みたいな岩泉一が、困り果てて顔を赤くしているだなんて、日常生活ではありえない出来事だ。当然ながら、涙の余韻は一ミリだって残っちゃいない。
じっとその顔に見入っていると、彼がふと視線を斜めに逸らす。そして小さく、「なあ」とこぼすように言った。
「なんか、息苦しくないか 」
「え? 」
言われて、はっとする。こうして意識をしないと分からない程度なのだけれど、確かに、岩泉の言うように、少し呼吸が浅くなっていることに気が付いた。お互い緊張した表情で見つめ合いながら、じっと身体に起こる変化に神経を傾けてみれば、じわじわと体温も高くなっている。岩泉の、露わな額を見ると、うっすらと汗がにじんでいた。
「…今何分経った? 」
「たぶん、もう一時間以上経ってる 」
ごくりと、どちらからともなく唾を飲んだ。もしかして、”タイムリミット” が近づいているという事なのだろうか。時間が来たら、いったいどうなるのだろう。すんなりと目が覚めればそれでいいのだけれど、こうして身体に起こっている異変を思うと、なんだか少し、不安だ。
「もうこうなれば殴っていただいて構わないので。でこピンとかでも結構痛そう。岩泉の 」
あはは、と無理やり笑って見せても、岩泉の顔は真剣だ。すっかり涙の乾いた私は、それだけで何とも、申し訳ない気持ちになってくる。けれど、いったいどうしたらいいのか。
夢に岩泉が出てきている。実はこっそりと嬉しかった、舞い上がっていた。もっと馬鹿みたいに明るい夢が見たかった。いつも遠くから見てばかりいたあこがれの君が目の前に居るというのに、私はその人のことを困らせてしまっている。
ぼーっとしてくる脳味噌は、この酸欠状態のせいなのだろうか。どうしようもなく、岩泉の顔を見上げていると、彼はしかめていた眉を少し下げて、小さく息を吐いた。
「そんな泣きそうな顔すんなよ 」
少し距離を詰めながら、岩泉の大きな手が私の頭を撫でる。今この状況下で、矛盾に満ちている台詞だが、とても彼らしくて嬉しかった。岩泉は、どこまでいっても紳士で男前でヒーローなのだ。たとえこんなただの町娘のようなわき役女子にだって、どこまでも優しい。敵わないなあ、と、私はぼんやり思う。
「あとどんなとき涙って出るもんかな 」
「…びっくりした時とか、嬉しい時とかかなあ 」
意識をしてみれば、すっかり呼吸ははやくなっていた。高山病にでもかかったように、頭もじんじんと痛む。酸欠もいよいよ加速しているという事なのか。
岩泉は、私の言葉を噛みしめるように、小さく独り反芻した。
ごそ、とジーンズの分厚い布が擦れる音がして、私ははっと顔を上げる。再び彼の手が私の頭に伸びて来たと思ったときには、あまりにも近い距離で、彼と目が合った。
じっと、熱っぽい手と目で焼け付きそうになりながら、頭のどこかで考えていたのは、”意外と睫毛が長いなあ” なんてこと。
そして呼吸もままならないうちに、私は岩泉にキスされているのだと、理解した。
「ちょ、え 」
どくどくと逸る心臓は、多分この薄い酸素とは別の理由に起因する。は、は、と言葉にならない言葉が喉のところでつかえて苦しかった。ゆっくり離れていった岩泉は、大きな手で自らの顔を隠してしまっていて、その表情が見えない。私の唇には、どうにも拭えないほど鮮明な柔らかい記憶。混乱する脳味噌が、この状況を咀嚼できずに慌てふためいている。
「わりい 」
小さな声が聞こえ、はっとする。彼はうつむいたまま、そしてもう一言「やだった? 」と言った。さっきからこの部屋はとても静かで、無音なのだけれど、今この沈黙は、今まで以上に静かで肌につき刺さるようだ。
「や、え、岩泉 」
「なんか、ホント、こんな勢いで言うのもアレだとは思うんだけど」
「ちょっと 」
「俺、お前のこと好きなんだわ 」
都合のいい夢だ、と、急に恥ずかしくなった。頬が熱い。おそるおそる目線をちらりと上げてみると、そこには手の甲で口元を隠しながら眉をしかめて床をにらみつける岩泉の姿があった。首からほの赤く肌を染めているのが見えて、私は一層混乱する。
「驚いたか 」
こっちを見ないで彼が言った。驚くも何も、と、出掛かる言葉を引っ込める。言葉が感情に喰われてうまく出てこなかったのだ。だって、こんな、どうして私なんかが。いろんな気持ちが一気に打ち寄せて来るようで、胸の辺りが大渋滞を起こしている様な感覚で苦しかった。
「…そんな嫌だったか 」
岩泉が、私の頬に触れる。バレーを頑張る、ぼろぼろの指。その感触に、ぎゅっと胸が熱くなった。喉が熱くて締め付けられるような感覚で、上手く言葉が出てこない。ただ、首を横に振った。視界はぼんやりと朧げだ。それでも、ふ、と優しく息を吐く岩泉が穏やかに笑っている事だけは分かった。
そろりと再び腕が伸びてきて、後頭部をすっぽりとその手に包まれる。そのままゆっくり、ごつん、と額がぶつかった。今どんな顔をしてる?あまりに近くてよく見えない。
「なあ、なんで泣いてんだよ 」
「…っ 」
「嬉し泣き? 」
「び、びっくりしただけ 」
「素直じゃねえの 」
笑って、岩泉が私の目もとを親指で拭う。その指が温い滴で滑る時、私の景色はホワイトアウトした。素直じゃねえの。本当に、その通りだ。
「…そりゃそうだよね」
ジリジリと、室温は高いままのようだ。開けていた窓からは、蝉の鳴く声もする。少し薄暗くなってきた蒸し暑い部屋。
やっぱり夢だったかあ、と、壁の時計を確認すれば、丁度六時を回ったころだった。汗だくになった首筋に、髪がぺったりと貼り付いているのをはがし、ぼーっとしたまま立ち上がる。そして、それとほぼ同時に、リビングの方から母親の「ご飯出来たよー」と私を呼ぶ声がした。はーいと、掠れた声で返事をしながら一歩足を出す。
裸足のつま先が、クシャと何かを踏んづけた。はっとして見下ろすとそこには。
「……嘘でしょ? 」
【どちらかが相手を泣かさないと出られません。80分以内に実行してください。 】
真夏の黄昏、怖くて幸せな白い夢。
2016.07.04