ベイビーネイル
よく見知った人が、どんどん変わっていく様子を見るのはとても怖いことだということに、直面してみて初めて気がついた。この気付きは、おそらくこの先長い人生の中で果たして早かったのかそれとも遅すぎたのか。考えてみたところで、特に意味があるわけでもないのだろうが、こんなことでも思っていないと、ちょっとダメになりそうなのだ。
意外と脆いな。自分の心も、“幼馴染”という確固たる名前の付けられたこの関係も。
「爪、綺麗にしてんだね」
「え?あ。…うん。竹巳はなんでも気づくね」
高校生になった今でも、家族ぐるみの付き合いが当然のように続いている。今日は、毎年恒例の合同のバーベキューの日であった。同い年彼女は、何度も何度も日焼け止めを塗り直しながら、テントの下からあまり出ようとしない。
お互い子供の頃には、この催しが楽しくて楽しくて仕方がなくて、川に入ってびしょぬれになるまで遊んだり、こんがり焼けたソーセージを腹を壊すまで頬張ったりしていたものだ。遊び疲れて、帰りの車ではぐっすりと眠って起きたらいつの間にか家についていて、バイバイを言い損ねたことにほんの少しだけ後悔をしながら自分の家へ入る、という記憶がとても鮮明に残っていた。
「もう川遊びしないの」
ふと、そんなことを言った。彼女は、目を少しだけ見開いて俺を見る。やめておいたほうがよかったか。ここ数年、そんな風に昔のような楽しみ方をしたことなどなかったのに。おそらく、俺の投げかけた質問は、彼女にとって突飛なものに聞こえたに違いない。
「焼けちゃうから、いい」
何いってるの、とか、もっと辛辣な返答を予想していた俺にとって、彼女のその言葉はひどく優しく感じるものだった。
一年中白い肌をしている彼女は、べつに焼けない体質とかいうわけではなく、こうして意固地になったようにお日様の光を避けている努力の賜物なのだ。昔は、ちゃんと俺と一緒に小麦色になるまで日に焼けていた。
紙皿と割り箸を持ったまま、時折携帯をちらちらといじっている彼女は、特段食事を進めるでもなく、ただその場に居合わせているだけというような雰囲気を醸し出していた。その点は、正直言って俺も同じだ。いつの間にか、この場は俺たちの物ではなくて、お互いの両親たちのためのものとなっている。いや、きっともともとそうだったのだけれど、それにようやく気がつきはじめた、という表現がおそらく正しい。
「たのしそうだねー大人たち」
うんざりとした様子などではなく、彼女はとても嬉しそうにバーベキューを取りかこみ酒を飲む両親たちの姿を眺めつついった。どきっとする。いつから、こんな風に穏やかに笑うようになったというのだろう。
先ほど、綺麗だと評した爪を、彼女はいじいじと親指で撫でながら、学校で起きる他愛も無いあれこれを話した。中学までは同じ武蔵森に通っていた彼女も、今は有名大学の付属高校へと進学していた。俺の生活から彼女が切り離されて、久しい。
「勉強大変?」
「うん。みんな頭いいから、焦るよ」
受験勉強だって、かなり必死にしていたことを俺は知っていた。そこに、いったいどんな情熱があったのかは知らないが、彼女は昔から、頭がよかったのだ。羽ばたいていったのは、必然のことのように思えた。
「竹巳は?相変わらず、サッカー楽しい?」
いたずらっぽく笑いながら、彼女が言った。
なんだかんだ今まで、生活の中心にあったサッカーを、俺は未だに高校でも続けていた。中学三年間で培った実力とか地位とか、そんなものは高等部に上がると同時にまるでリセットされたかのようで、今は再び一年生らしく雑用係からスタートしていはいたものの、ボールを追いかけている時間はやっぱりどうにも面白かった。変わらないことの、ひとつである。
「うん」
「そっか、よかったね」
「レギュラー、まだなれないけど」
「すぐだよ。竹巳なら」
「それならいいんだけど」
「試合、また行くから。頑張って」
よく出来た幼馴染だと思った。違和感なく、昔のような、こういうことをちゃんと言える事。そしてそこに嘘偽りはひとつだってないということ。これも、変わらないことのひとつだと言えるだろう。
夏に差し掛かった、蒸し暑い空気を流し去るように、そよそよと涼しい風が吹いた。まだ日は高いものの、腕時計を確認すれば、すっかり夕方と呼ぶにふさわしい時刻となっている。
ひらひらと揺れる髪を、彼女が細い指で押さえつけながらそのまま耳にかけた。ゆったりと動くその指先に、なんだか急な後ろめたさを感じて、思わず目を逸らしてしまった。
綺麗な形に切り揃えられて、ぴかぴかに磨かれた爪。時折、グラウンドに練習を見に来ている女の先輩たちの爪が、不自然なピンクに塗りたくられていた光景を思い出すと、彼女のそれはたまらなく好ましく見えた。媚びるような色味には、どうにもぎょっとしてしまう。少なくとも俺はそうだ。
「あ、」
簡易テーブルに置かれていた、彼女の携帯がぶるぶると振動を始めた。漏れた声は、俺のものだったか彼女のものだったか。まるで混じりあうようなタイミングで、ふたり同時にその画面にくぎ付けになったのだ。そして俺は、その時彼女の横顔に見えた幸福と焦燥の入り混じった複雑な表情を、多分この先ずっと忘れられないのだと思う。
「部活の先輩だー、ちょっと出てくるね」
わざとらしく語尾を伸ばす話し方をしながら携帯を手に持って、先程まで頑なに出たがらなかったお日様の下へと躊躇いなく出て行く後ろ姿を見て、心臓がぎゅうぎゅうと苦しくなっていた。
彼女はしばらく戻らなかった。サンサンと日の照りつける河原でちんまりとしゃがみ込みながら、携帯を耳にあてている姿を眺め続けるのは少しきつい。
変わらないものを、ひとつふたつと思い巡らせ数えていくも、決定的に変わっていく彼女の姿があまりに鮮明でどうしようもないのだ。目を閉じて、楽しげな喧騒に耳を傾ける。そこに、幼いふたりが見られることを期待して。
2016.06.18