覚めてみる夢の話
「“若利はよく分からない”」
突然、神妙な声で紡がれる彼の言葉は、ただ途方もなく現実感のないものだった。
「と、言われたんだ」
目をぱちぱちさせて放心する私に構いもせずに、牛島はそう続けた。そこまで聞き、ようやく先程の摩訶不思議な台詞の正体が、彼が恋人から、いや、元恋人から受け取った、辛辣な最後の言葉のリプレイであったと気が付いた。辛辣な…もしくは、彼ががそう感じていないのであれば、その表現は少し正しくないのかもしれない。
まじまじと彼の姿を目に映す。混雑したドーナツ屋の店内で、彼の身体はあまりに大きくてとても目立っていた。狭い店内で最低限の一人分のスペースとしてあてがわれた小さなテーブルは、牛島にとってはどうしようもなく手狭のようにみえる。そのチグハグさも、手に持っていたドーナツの小ささも、何もかもが彼を彼たらしめていた。
「分かるか?」
「…そんなこと言われても」
「難しい、とも言われた」
「まあ、否定はしないよね」
「そうなのか」
相変わらずうまく続かない言葉のラリーに、私は半ば降参の白旗を振りながら会話からの離脱を試みるも、目の前の男はそれを容易に許してはくれないようだ。
この牛島若利と恋仲になろうなどと、とんだ物好きもいたものだ、と終わった恋を懐かしむ様子も感傷に浸る素振りも見せない彼の顔を見て思う。それは、以前彼が私に唐突に告げてきた、「彼女ができた」という、嘘か本当か判別のつかない言葉をきいたときに感じたものと同じだった。あれは確か、まだ冬服にマフラーを巻かなければならない程度の寒さが残る頃、今から三ヶ月ほど前のことだっただろうか。
「短い付き合いだったねえ」
しみじみと言う。ここで、寂しそうな表情のひとつやふたつ見せるならば彼にも可愛げというものがあろうというものだけれど、残念ながら彼はどちらかといえば不思議そうな表情をたたえたまま軽く顎を引いて素直に頷いてみせたのだ。愛くるしい姿だと思う。世の女の子たちは、いったいこの男にどんな期待や幻想を抱いているのだろう、と思わざるを得ない。
「よかったあ…」
ため息のように、思わず本音が漏れてしまった。あ、と思って牛島の顔を確認するも、結局そこには先ほどから特段変化のない神妙にひそめられた眉があるばかり。
牛島と、共存できる人間は数少ない。無理に彼を理解しようとしないひと、そして、彼から理解されようと欲張らないひとだ。この二つを絶妙に守って距離を詰められるひとというのは、思うよりもずっと少ない。殊、ただでさえ脳味噌の構造を異にする女子ともなればなおさらだ。一見、複雑で難解で孤高のように思える牛島は、その実、非常にシンプルな男だった。何色にも染まらないし、逆に言えば何者にでも染まる。まっすぐに一本の芯が通っていればの話だけれど。
「ねえ、牛島」
「なんだ」
「彼女と、キスとかした?」
「いや」
「手は?繋いだりした?」
「いや」
「そう」
ざわざわと、店の喧騒が私達を隠すように包み込む。私は、きっと彼がよく理解しないことを見越して、同時に少しだけ期待をして、また小さな声で「よかった」とわざとこぼす。案の定、牛島はトレーの端っこに落ちていた目線をちらとこちらに寄越しただけで、特段なにも言ってはこない。安心と落胆が同時に襲い来る、そんな何度も何度も感じた気持ちだ。
「ねえ、手貸して」
「?」
テーブルの上に乗せられている、大きな左手にそろりと手を伸ばす。彼は、不思議そうに首を小さくかしげながら、黙って私のことを見ていた。両手で、そのごつごつと大きな手に触る。ひび割れやマメでボロボロになって、日々鍛錬を怠らない、バレー馬鹿の逞しい手。こんなザラザラした硬い手は、やっぱり女の子の手や身体に触れることには向いていない。
「…どうかしたか?」
また、彼が小さく首をかしげ、覗きこむように私の目を無遠慮に見据えてくる。私にしっかりと掴まれている手については、なにも言わない。たっぷりと砂糖を入れて飲んでいたカフェオレのカップから、甘い香りが立ち昇っている。
「なんでもない」
「そうか」
おとなしく私に手を弄ばれながら、あいかわらず変化の無い表情を見せる彼。彼女ができたという報告をしてきた時も、振られたことへの疑問を零した時も、それこそ今さっきまでドーナツを食べていた時も、同じ顔をしていたように思う。
「ねえ牛島」
「なんだ」
「次は試合、観に行く。頑張って。次は私にも、応援させて」
「ああ」
ただの、昔からのクラスメイトと牛島若利という才能が、こんな風に触れ合うことこそが奇跡に近いのだ。いつまでも、長くこの人を見ていたいと思う。それが、恋なのかと聞かれればたぶん、九割がたその通りで、残り一割の畏怖の気持ちが、これ以上の介入の足を引き止めている。
「来てくれ。待ってる」
突然、そうやって穏やかに笑ってみせるので、私の心臓はぎゅうぎゅうと握りつぶされそうになった。なんだか無性に切なくて、泣いてしまいそうだった。
そんな私を知りもしないで、牛島は真っ直ぐすすむ。ずっと、見つめていたい姿。いつしかこの気持ちを伝えられる日はくるのだろうか。けれど少なくとも、今はまだ、どうか気がつかないでいてと、天邪鬼な私の心は叫ぶのだ。
2016.06.20