時溜まりの季節
まずい、ほんの少しのつもりが、随分と長居してしまった。
ぽかぽかと春うららかな日差しの下で、どこぞの知らない野良猫の背中を撫でながら、寂れたベンチに腰掛けて溜息を吐いた。目の前の遊具では、近所のわんぱくな小学生たちが、ジャングルジムにランドセルをひっかけてブランコだのシーソーなどできゃっきゃとはしゃいで遊んでいる。のどかな光景だ。という事は、小学校はもう授業を終えた頃合いか。小学校の授業はいったい何時に終わるんだ?ああ、大人になると、昔々は日常だったこともこんなにあっけなく忘れていくのだなあ、なんて明後日の方向に思考が向かっていくのを制しながら、今一度猫の背中を撫でる。
いつの間にか随分と懐かれてしまったようで、最初は緊張気味に身体を丸めて撫でられていたその猫も、今ではゴロゴロと喉を鳴らして私の太腿にすり寄ってくる始末。そんな様子を心底可愛いと思っている傍らで、“毛が付いてしまうなあ”などと冷静に思っている私は、いったいどちらが本当の自分なのだろうなんて、そんな支離滅裂なことを考えていた。
花吹雪が、ぶわりと天高く舞い上がる。髪の毛がばさりと乱れて、思わず猫の背から手を離し、靡いて唇に引っかかってしまった髪の毛の束を払う。ふと、ごろごろ声のする方を見降ろせば、拗ねたような不服そうな目が、上目遣いに私の顔を見上げていた。
「じゃあね」
さて、とベンチから腰を上げた。猫は、存外さっぱりと喉を鳴らすのをやめて、ベンチの上に居直った。私を見送るような大きな瞳が、じっとこちらを見ている気配を感じながら、ざりざりと、公園の地面を踏みしめ歩く。
「遅かったですね」
「ごめん」
かちゃりと軽い音を立てて姿を現した家主は、思ったよりも穏やかな顔色をしていたために、私はこっそりと安堵した。あまり感情を顔に出さない彼のこと、腹の底ではいったい何を思っているかはしれないが、今のこの顔は、本当に何も考えていないように見える。もしくは、今日の夕飯の献立か、明日の大学の講義のことか。つまり、私の到着がこうしていつもより遅くなったことに対しては、特段の疑問も勘ぐりも無いという事だ。その証拠に、私の謝る言葉に対しては、うんともスンとも返事は無かった。
赤葦というこの後輩は、残念ながら本当によくモテるらしい。高校の頃からそうだった。狭い、高校というコミュニティの中で、確かに彼は異彩を放っていたし、木兎の相棒という事も相まって、一つ上の私たちの学年での認知度もとても高かった。そんな中、彼のどこかつかみどころのない、ミステリアスな年下らしからぬ雰囲気のためか、同学年のみならず上の学年の女子たちの中にも、彼への秘めたる気持ちを抱いていた女子は多かったように思う。木兎のように、わーきゃー言われるような人気ではなく、密やかに、焦がれるような気持ちを抱かれるような男だ。だから本当に質が悪い。恋人が知らない誰かからそんな風に思われているという事は、考えれば考えるほどに泣きたくなるものだ。
「機嫌悪いですか?」
狭いソファに座って、面白くも無いテレビを眺めていると、ふと彼の声が頭上から降ってきた。ゆっくりと振り返れば、ゆらゆらと湯気を立ち上らせるマグカップを携えて佇む赤葦の姿。何とも言えない、少し眉根を寄せた顔。えてして、不機嫌は伝染するものだ。私は、そんなにむくれた面をしてしまっていただろうか。
「別に、そんなことない」
「そうですか」
ことりと、テーブルに置かれたマグカップには、色の濃いブラックコーヒーが静かに揺れている。赤葦の淹れてくれるコーヒーは、私にとってはいつも少し苦すぎた。けれど彼は、涼しい顔でそれに口をつけ、少しだけ目を細めて、ほうと短い息を吐く。
会話が無くなり、静まり返る室内に、夕方のワイドショーのがやがやした音声だけが響く。ほとんど点いているだけのようなもので、赤葦に至っては、先ほどまで読んでいたらしい雑誌を開いて、ゆったりとその紙面に目を滑らせていた。その姿に、なんとなく寂しい気持ちになっている私は、なんと面倒な女なのだろうと、自分で自分の女々しさを呪った。
ごほ、と赤葦が静かに一度咳をした。咳払いというようなものではなくて、結構しっかりと痰の絡んだ、風邪の時の咳だ。ふと、横目で気にして見ていても、それが続くことは無かった。
「…風邪?」
どこか後ろめたい思いで、恐る恐る訊いた。後ろめたい。そんな気持ちの出どころは、自分でも良く分からない。
「もう治りかけです」
「そっか」
「はい」
そこで会話はまたなくなった。お互いの、コーヒーを啜る音と、テーブルの天板にカップを置く固い音、そして相変わらず、ニュースを読み上げるアナウンサーの声しかしない。
黙っていると、どうにも悪い思考に喰われそうだった。だから、下の公園で猫と出会った話をした。赤葦はそれに、「よかったですね」と静かに言って、こちらを見ずに口元だけちらりと笑った。大きな手が、ゆっくりと私の髪を撫でるのも、なんだかいなされているようで嬉しくない。思い始めれば止まらないのは、もう今に始まったことではなかった。こんな気持ちのままで、彼と向き合っていられるわけなど、到底無かったのだ。
「赤葦」
思ったよりもずっと低いトーンの声で、彼の名前を呼んだ。今度は、ちゃんとこちらを向いて、その静かな瞳が私を見ている。それなのに、天邪鬼な私はその目を見つめ返すことが出来なかった。意地になっているわけではない。ただ単純に、怖いだけだ。
「どうしました?」
静かな声で、彼が言う。そっと、読んでいた雑誌を閉じながら、ゆっくりとこちらに身体ごと向ける気配と、ソファの軋む音がした。
「名前さん」
なかなか喋り出さない私を見かねて、赤葦は再び小さな声で私を呼んだ。その声をよく聞いてみれば、鼻にかかったような風邪声だった。気が付かなかった自分にも、話してくれなかったこの男にも、どうしようもなく腹が立った。子どもの癇癪。そう言われてしまえば、本当にその通りなのだけれど。
「赤葦、あのさ」
「はい」
「あのさあ」
「なんですか」
「…やっぱいい」
それ以上、言葉が続かなかった。続かないも何も、始まってすらいないのだが、それでも私はもうそこから一歩たりとも動くことが出来そうにない。はあ、と小さな溜息の気配がした。本当に、自分だって呆れてしまう。
年上のくせに年上らしくできず、そのくせ甘やかされることを上手に許容できない、実に面倒な女なのだ。自覚は十二分にある。
赤葦と付き合い始めたのは、丁度私がバレー部のマネージャーを引退したころのことだ。そして、私が先に高校を卒業し、先に大学生になった。
先に、新たな世界、新たな友人たちに触れたせいなのか、制服を着ている彼とデートをすることに、抵抗があった時期もある。寂しかったろうと思う。たった一年生まれた年が違うだけなのに、その目に見える差は、私の気持ちのなかにどこか後ろめたさという影を落として、彼との間に無意識に壁を作ってしまっていた。それでも、この出来た彼氏は、そんな自分勝手な私に愛想尽かすことも無く、じっとその面倒な私の気持ちがおさまるのを待ってくれていた。
そして去年、同じ大学の合格通知を持って一人暮らしの私の部屋に来た赤葦は、今まで見せたことも無い切羽詰まった様子で私のことを抱きしめた。お待たせしました、そんな、聞き分けの良すぎる言葉を言いながら、ぎゅうぎゅうと力いっぱい身体をかき抱かれる感覚を思い出すたび今でも心臓が痛くなる。
その時確かに思ったのだ。もうこの人のことを、裏切るようなことはもう絶対にしない。いつだって彼は、こんなどうしようもない私を信じて許してくれたのだから、私も彼を信じ許していこう。
そう、心に誓ったというのに、こうして言葉に詰まる自分には、もうほとほと愛想が尽きた。
赤葦京治というこの男が、“世間一般的に”女の目から見て酷く魅力的なのだという事を改めて認識したのは、こうして晴れて同じ大学に通い始めてからだった。
キャンパスで見かける彼の周りには、いつだって男女問わず友人たちの姿があった。ゼミの仲間であったり、サークルの仲間であったり、その時々により違うものの、彼がひとりぽつんと過ごす姿はあまり見たことが無い。
彼自身、口数の多い方ではないのは確かだ。愛想だってそんなにいい方ではないと思う。けれど彼の、相手にとって居心地のいい距離感を保つ無意識の能力は、知らず知らずのうちに多くの人を引き付けているようだった。高校という狭いコミュニティの中でだからこそ、と思っていた私の考えは何とも浅はかで、その実、その狭い囲いが取り払われた今、彼の世界は一層の広がりを見せているらしい。
穏やかで、気が利いて、人に対する遠慮と配慮が抜群に上手い。そんな彼に対して、特別な気持ちを抱く女の子の一人や二人いても、なんら不思議なことではなかったのだ。
だからこそ。そんな当たり前すぎた事実に遅ればせながら気が付いてしまった私の内心は、時折とてもおだやかではなかった。
友人たちと笑い合う表情も、私の知らない時間を過ごす彼も、知りたいけれど知るのが怖い。もやもやと一年間。いつか自然と慣れていくだろうと思ってそっとしておいた感情は、未だ突然のように顔を出して、そのたび私の頭を悩ませる。
不機嫌になることもしばしばあった。わざと電話を取らなかったこともある。けれど、赤葦はそれを非難したことは一度たりとも無かった。どうしてそんなに、聞き分けが良いのだろう。もっと怒ってくれてもいいのに、もっと我儘を言えばいいのに。私は君の中で、いったいどれだけの存在なのだろうと、気づけばそんなことを考えている自分はとてもみじめで息苦しい。
そんな中、偶然見てしまった光景はぽっきりと私の心を折るには十分すぎるものだった。
ゼミの終わった金曜日、駅前には飲み会終わりのサラリーマンや学生たちの群れがいくつも出来上がっていて、私はその中の一つ紛れるように加わっていた。アルコールでぼやけた頭ではあったけれど、足取りも呂律もしっかりとしていたし、酔っぱらった友達に肩を貸す余裕だってあった。
もう少しで終電だ。そんなことを思いながら、ふと改札の方向へと目を移すと、そこにいたのはほかでもない、赤葦だった。彼はしゃきっといつも通り涼し気な顔をして、すっかり酔いつぶれた様子の女の子の肩を支えていた。その子のパンプスが片方脱げて、赤葦が腰をかがめてそれを拾おうとしたところ、ぐらりとふらつく身体が倒れそうになった。危ない、と、とっさに私も思った。けれど、寸でのところで支えきった赤葦の首にすがるように腕を回すその子の顔が、酒に酔いながらもどうにも切なく歪むのが、震えるほどに怖かった。
はっきりと分かった。あの子は赤葦が好きなのだと。
あんなものは不可抗力だ。そこに疑いは微塵も無かった。それなのに、私は逃げるようにその場を後にして、そのあとぐるぐるとマイナスな想像ばかりをしながら、一晩を泣き明かしたのだった。
それから、無意識に彼のことを避けるような時間を過ごして早二週間。まともに会話することも家に遊びに来ることも、もう気づけば二週間ぶりのことだった。
「名前さん」
再び、柔らかい声に呼ばれてはっとする。きし、とソファの音鳴りがして、そろっと身体が暖かな温度に包まれた。彼の着ている肉厚のパーカーのフードの部分から、特に甘く濃い柔軟剤の匂いがした。じわっと染み込むような体温に、私はたまらず泣きたくなった。このままこの肩に額をこすりつけてしまえば、きっと涙に流されてそれこそ一言も話など出来なくなってしまう。
耳元に、静かな赤葦の呼吸を感じながら、私は必死で目を開けて零れそうになる涙を押し込める。こほ、と小さくまた咳が聞こえたと思ったら、今度は二回、ごほごほと先ほどのような湿った咳が出た。抱きしめられた身体に直接感じるその振動に、私まで患っているような気分になった。
思わず、その背中に手を回して揺れる背中を少しさすると、赤葦がくすくす笑うのが分かった。また、涙が込み上げそうだ。
「どうしました、俺、なんかしましたか」
「…っ」
「泣いてちゃ分かんないです」
「……」
「ん?」
たまらなく優しい声で、未だくすくす笑いが冷めやらない様子のまま彼は言った。ゆっくりと、大きな掌が私の頭を包み込むように大事に大事に撫でる。本当に、どちらが年上なのだかしれない。
「あの子は誰」なんて、糾弾するような言葉は言いたくは無かった。それなのに、それ以外でこの胸に湧いたもやもやを言い現す言葉が見つからない。私は只々、零れ始めた涙に溺れるよりほかは無く、その間も彼の手はしっかりと私の身体を離さずにいてくれたし、ゆっくりと繰り替えされる呼吸は、とろけ合いそうなほどに近かった。
「赤葦」
結局、我慢の甲斐なく涙は次々とあふれ出していた。しがみつくように、彼のパーカーの背中を握る。メイクが付いてしまう事にも構わず、顔を彼の肩口に埋めた。相変わらず穏やかに笑っている彼が、また一つごほ、と咳をする声を聞いて、再び息が詰まりそうになった。
「ごめん、赤葦」
たまらず零れた謝罪の言葉は、どこまで私のこの気持ちを伝えてくれたか定かではない。
「いつも、逃げ出してごめん」
赤葦が、短い息を静かに吐き出す音がした。そしてじわじわと、身体に回された腕に力が込められていき、このままくしゃくしゃに丸めて食べられてしまうのではないかと思うほどの抱擁を受け止める。私も負けじと、その背中に回した手に力を込めた。
「ほんとに…あんたはいつもいつも、何も言わずに不安がる」
ぎゅううと絞り出すような苦しそうな声音で、彼が言うのが聞こえた。その声を聞いて、私の心臓は握りつぶされそうなほどに痛い。
「さすがに、堪えます。ちゃんと、話してください」
風邪気味の、鼻にかかった声で言う。痰交じりの咳。治りかけだと赤葦は言っていただけれど、こうしてぴったりと触れ合っていると、どことなくいつもより体温が高い事が分かった。
温く甘ったるい空気に、現実感を失いそうになりながら、手を回した背中がゆっくりと上下する動きを噛みしめる。
どんな時間を過ごしていたのだろうか。私が一人、目を逸らして逃げ惑っていた期間。わざと着信に応えなかったあの時、もしかしたらこの人は、熱で朦朧とした中それでも私のことを呼んでくれていたのかもしれない、なんて思ったら、やっぱりこの涙は止めようも無い。
「ごめん」
「謝らなくていいですから」
「うん」
「俺に黙って勝手に泣くのやめてください」
「うん、ごめんなさい」
「だから…」
結局、口をついて出てしまう謝罪の言葉に、赤葦はふっと吹き出すように笑う。そんな、穏やかな声にそぐわないくらいに、抱えられているその腕の力がますます強い。
ゆっくりとその腕が解け、離れた身体が名残惜しいほどに、その体温と溶けていたのだと気づく。遠慮がちに、顔に貼りつた髪を払ってくれる指が、くすぐったく肌に触れた。目を見合わせて、その顔に見入っていると、彼が笑う。「泣くとすげえ不細工」そんな失礼なことを言いながらたまらなく優しく微笑む赤葦の目の白い部分が、うっすらと赤く見えた。大きな手にすっぽりと両頬を包まれて、親指で涙をごしごし拭われる。もう、メイクも落ちきっているだろうと、今更のようなことを考えた。
ゆっくりと、赤葦の瞳が近づいてくる。吸い込まれそうな黒に、もはや言葉は出てこなかった。唇の薄い皮膚がほんの少し触れ合うだけで、火傷のような熱を感じた。
「…風邪うつっちゃう」
「いけませんか」
「ちょ、と」
「名前さん、しーっ」
細めた目で私を見下ろしながら、赤葦がその指で私の唇を押さえつけるようにして、笑う。
喋るたびにいちいち触れ合う唇に、もうどうしたって抗えないほど、心と身体が彼を求めていた。すべて見透かしたように、黙り込んだ私を唇からじっくり食べていく彼の温度は、やはりいっそう高いようだ。
言葉を忘れてきた時間が、いとも簡単にこの気持ち隙間を埋めていく。
2016.04.07