GIVE ME ▲ MY HERO
「怖いね……」
腕の中で震えている小さな毛糸玉のような子猫を抱きかかえていると、寄り添うぬくもりがあることに少しだけ安心できた。怖がりと怖がりが一緒にいても、どうにも頼りなくていやになってしまうけれど、トクトクとはやく鼓動する心臓の音に耳を傾けていると、まだ大丈夫、まだ一人じゃない、とそんな気持ちになれた。
ズズン……と鈍く重たい音がして、地面が何度もぐらぐら揺れる。外ではこの世の終わりが来たような、恐ろしい轟音が鳴り響いていた。
怖いね。もう一度子猫に向かって小さく話しかけると、猫は「そうだね」とでもいうように、ニャアと一声、とてもとても弱そうな鳴き声を上げた。
ここは頑丈だから、絶対に崩れることはないんだよ。
そうやってあの人に言われたのをふと思い出したけれど、そんなのなんの気休めにもならないくらい、地面の揺れは大きく長く、いつまでも止まない。
どうしよう。怖いな。あの冷たく固い天井が崩れてきたらどうしよう。あの太い無機質な柱がぼっきり折れてしまったらどうしよう。屋敷が、揺れに合わせてミシミシぎしぎしと屋鳴りする度、自分の想像に絞め殺されそうな思いがした。
がちゃんがちゃんと大きな音を立てて、倒れたスチールの棚同士がぶつかり合いながら床の上でのたうちまわる様子が、まるで醜い生き物の今際のきわのようで思わず目をつむった。
「あ、待って」
あんまり怖くて、強く抱きしめてしまったからか、猫がするりと私の腕から抜け出してしまう。待って、と声を上げた時にはもう遅く、猫は歪んで少しだけ開いた扉の隙間からするりとその姿を消してしまった。まって、お願い、一人にしないで。そう呼びかけたいのに、私はあの子に名前を付けていなかったことを思い出し、絶望した。呼びたいのに、名前がない。呼ばれたいのに、名前がない。あの子は誰のものだった? 私は、いったい誰のものだった?
めちゃくちゃに壊れていく部屋の真ん中でびくびく身を小さくしながら、私はただ怖くてうずくまっていることしか出来なかった。
ねえお願い。
私を置いていかないで。
もうとうに枯れてしまったと思ったのに、涙はいまだしつこく頬を滑り落ちていく。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
ふと目を開けると、地面の揺れは、いつの間にかおさまっているようだった。もう大きな音も、ひどい地鳴りも聞こえない。いつの間にか、疲れ果ててしまった私は冷たい床の上で眠ってしまっていたみたいだ。さっきまでの騒ぎは、夢? そう思いながら、ぼやける目をこすりこすり、薄暗いあたりをぐるりと見回せば、やっぱりめちゃめちゃに荒れ果てた部屋の光景が広がっていた。
ぽつねんと私が一人。ひとりぼっち。
逃げてしまった猫も、やっぱり戻ってこない。
▲▼▲
「帰る家が無いのかい?」
あの日、薄暗い路地裏で私を見つけたヒーローは、目じりの下がった優しそうな笑顔で、たくましくて大きな手を私に差し伸べてくれた。何日も、飲まず食わずで途方に暮れていた私は、ただ無抵抗に彼の声に頷いた。
自分の家が嫌いだった。
お母さんが出て行ってからというもの、お酒におぼれた義理のお父さんが、私のことを何度も何度も飽きるまで殴りつけるからだ。お父さんは、お母さんによく似た顔をした私がとても憎たらしかったようで、大きくなればなるほど、振るわれる暴力は激しさを増した。それがつい一週間ほど前のこと、いつも通り吐き気を誘うほどの酒気を帯びたお父さんに、私は女としての尊厳を、めちゃくちゃに踏みにじられた。恐ろしかった。涙が出た。あまりに怖くて、叫び声は上げられなかった。この人は誰なのだろう。私はいったい何なのだろう。もう嫌だ。逃げたい。消えたい。死にたい。誰か、誰かどうか、助けて。もがけども、ひ弱な指先が何度も何度も空を切るばかりだった。身体と心が引き裂けるような痛みを感じ、目の前が真っ暗になった。何も考えられなくて、私はただの呼吸する人形だった。
そして次に目を開けた時、私の隣には、背中から真っ赤な血を流して絶命する、お父さんだった男の姿があった。
「一緒に来るかい?」
ヒーローが、また優しく言った。街の灯りがまぶしくて、その表情が逆光でよく見えない。清廉な白い服を着て、全部を包み込めそうな、大きな胸を開いて私を見据えていることだけが分かった。
穴の開いた心に、大量の水が流れ込む。苦しくて、息が出来なくなりそうだった。
「わたし、人を殺したの」
言葉にすると、なんて恐ろしいことをしたのだろうと、身体が震えた。溺れる魚がえらをパクパクやるように、私は自分の放つ言葉で窒息寸前だった。
ヒーローは、こつん、と白い皮靴のかかとを鳴らしながら、ゆっくりと一歩私の方へと近づいた。びくりと震える肩に、嘘みたいな優しい指先が触れる。心になだれ込む水の、勢いが増す。
「誰にでも、一つくらいの秘密はあるさ」
なんて魅惑的な響きだろう。
心を満たす優しい水が、私の視界までももやもやとゆがめてしまうので、そのときのヒーローの顔は、よく見ることが出来なかった。
彼は、あざだらけの私の顔や腕に、信じられないくらい、優しく触れた。
「一緒に、来るかい?」
もう一度そう問いかけるその人に、涙でおぼれた私はうまく返事をすることが出来なくて、けれども彼はその胸に飛び込む私をしっかりと受け止めてくれた。
乾いた心が水びだしになって、今度は喉がひどく乾いた。忘れていたお腹が、とうとう空いた。
私はあの日、ヒーローの手で、もう一度生まれることが出来たのだ。
「私はクレイ。君は?」
「……忘れちゃった」
「そうか。じゃあ、いい名前を考えなくてはね」
過去の私は、もういない。
私は、それからずっと、クレイが名前をくれる日を待っている。
クレイは私にとって、もうずっと、たったひとりのヒーローで、安寧の象徴で、正義だ。彼と過ごす時間は、清く美しく穏やかなもので満たされていた。
彼はとても忙しい人で、私が起きる前に屋敷を出て、私が眠ってから返ってくる日々を送っていた。本当はおきて彼を待っていたいと思うけれど、お手伝いさんから「寝る時間ですよ」とベッドに押し込められてしまったら、どうにも下がるまぶたを止めることが出来ないのだ。けれど毎晩、仕事を終えてようやく帰ったクレイが、小さな声で「ただいま」といいながら、私の髪をなでてくれていることは、夢の中でも感じ取ることが出来た。
たまの休みの日には、いつもはお手伝いさんに任せきりの食事をクレイ手ずから作ってくれて、広い庭の小さなテーブルで二人、日の光を浴びながら食べたりすることもあった。
クレイの話す話はとても難しくて、私にはほとんど理解できなかったけれど、好きなことを話しているときのクレイは本当に楽しそうなので、私はそんな彼を見ているだけでも十分に幸せだった。
時折、クレイはひどくふさぎ込んでいることもあった。そんなとき、彼は誰のことも部屋に寄せ付けないのだけれど、私のノックには必ず応えてくれた。声を出しているわけでもなく、コンコン、と小さく扉をたたくだけなのに、クレイは疲れたような声で「入りなさい」とやさしく言ってくれた。それから私の顔を見て、やっぱり君か、とぐったりして笑った。どうしてわかったの? と問うと、わかるさ、とだけぽつりとつぶやいて、それきり答えてはくれなかった。大きな掌で私の頭を撫でて、その鋼鉄のように鍛え上げられた胸にそっといざなってくれるので、私はいつだって彼と出会った日のことを思い出した。本当の両親のこと。義理の父のこと。肉を刺した時の手に伝わる命の終わる感触。お金もなく雨に濡れて街の隅に巣食うネズミのような生活をしていた日々のこと。いろいろなことを思い出した。けれど最後の最後に思い出すのは、「一緒に来るかい」と言ってくれたヒーローの真っ白さだ。
「ねえクレイ、私はいったいなんて名前だったかな」
すっぽりとクレイの腕に抱きかかえられながら小さく問いかけると、クレイはしばし無言のまま私の髪をするする撫でてくれる。小さな猫でも愛するように、彼はいつだって私を大切にしてくれた。
「さあ、もう眠る時間だよ」
彼は、いつだって私を大切にしてくれた。
クレイにとって、私は一体なにものなのだろう。
この屋敷にきてから、どのくらいの時間が経ったのかも分からない。数日のような気もするし、もう何年も経っているような気もする。怖いものは何もなくて、清潔で安全な生活を与えられた。ひとりきりで過ごす時間がほとんどだったけれど、時々クレイのそばに寄り添う時間があるだけで、十分だった。カラカラにかわいた砂の大地にぶくぶく水がわくような潤みを、かみしめるように感じていた。クレイがそばにいる。私はクレイのそばにいてもいい。私にはクレイしかいない。
ねえクレイ、私に名前をちょうだい。そして、その名前で、うんと私のことを呼んでね。
「クレイ、私ちょっとだけ寂しいな」
思わずこぼした私の声を聴いて、クレイは考え込むように静かな呼吸を二、三した。結局なにも言わないまま、彼は私の身体を軽々持ち上げて、私のベッドまで運び、髪をなでて「おやすみ」とささやいてくれた。
寂しいよ、クレイ。私にはあなたが必要だから、だから私を名前で呼んで。
翌朝目を覚ますと、すこしざらついた毛糸のような灰色の毛並みの子猫が、枕元でにゃんにゃんと鳴いていた。
▲▼▲
空腹を感じて、目が覚めた。
ドアも窓も歪んでしまって、一人ではもうこの部屋から出ることすら出来ない。
食べ物も水もこの部屋にはなくて、私はここで一人死んでいくのかと、だんだん思い知っているところだ。
眠ることにも飽きてきた。眠っている間はいいけれど、起きると頭がジンジンとしびれるように痛いうえ、いろいろなことを考えてしまって辛かった。
もう、クレイはここには来てくれないのだろうか。そう思うと、鼻の奥がツンと痛んで仕方なかった。空腹感より、死んでいくことへの恐怖より、もう二度と私のヒーローと会えないかもしれない事だけが、身を裂くように苦しかった。
「…………?」
ぎぎぎ、と、へしゃげたドアが鈍い音を立てながら、ゆっくりと開いていくのが視界に入り、はっとする。もしかして、と心臓が弾む。
「クレイ……?」
その名前を口にするだけでもうれしくて、私は呟きながらはじけるように扉の方へと駆け寄った。
だんだんと明らかになる、扉の向こうの人の影。灰色に煤け、ぼろぼろに破けて擦り切れた服を身にまとう、私のヒーローの姿が、浮き彫りになった。
「クレイ」
その全貌を見た時、嬉しくて愛しくて、忘れかけた涙が、両目からぼろぼろとこぼれ落ちた。戻ってきてくれてよかった。だってもうずっと、私は彼に捨てられたんじゃないかと、死ぬより苦しい思いをしていたから。
「クレイ、クレイ」
わんわん涙をこぼしながら、大きな体に縋り付いて泣いた。ねえクレイ、私のヒーロー。
「……寂しい思いをさせて、すまなかったね」
髪や肌まですっかりぼろきれのように汚れた彼も、どうしようもなく愛おしかった。すっかり疲れた顔をする彼は、もしかすると泣いていたのかもしれない。私はクレイの首に手を回して頬にそっとキスをした。煤と汗の匂いがした。
「クレイ」
太い腕が、私の背中を抱えてくれて、ハッとする。
「クレイ、腕が……」
彼の片方の腕が、無かった。差し伸べてくれたあの優しい腕が。抱きしめてくれるあのたくましい左腕が、無いのだ。
思わず彼の目を覗き込んでみると、彼はまた疲れたように笑った。
「……痛い?」
「痛くはないよ……前よりずっといい」
「クレイ?」
泣いているのかと思うほどか細くはなす彼の声は、耳をそばだてないと聞こえないほどだった。
「名前を教えてくれるかい」
「私の……?」
「そうだ」
「……クレイがくれるんじゃないの?」
いつもなら王様の冠のように威風堂々と象られた髪も、雨に打たれた獣の身体ようにじっとりとうなだれていた。いまだか細く掠れた声で話すクレイを、わけもわからないまま抱きしめると、私の胸の中、彼がほうとため息を吐いた。
「君は、君だよ」
彼の背中の向こうから、一度は逃げてしまった毛糸玉みたいな子猫がひょっこりと顔出してニャンと小さく鳴いた。煤けたクレイと小さな猫は、今はとてもよく似た色をしている。寂しかったよ。戻ってきてくれてありがとう。そんな気持ちを込め、猫にも手を伸ばしてみれば、ざらざらとした小さな舌が、遠慮がちに私の指の先を舐めた。
「こんな無様な男でも、まだ一緒にいてくれるかな」
一本のこった太い腕が、しっかりと私の背中を抱いた。そんなの、決まっているじゃない。声には出さず、今一度クレイの首に縋り付くようにその頭を掻き抱いた。絡んだ柔からな黄金の髪を梳きながら、私は必死に、自分の名前を思い出していた。
2019/06/15