瞳にアメジスト
※誕生日の公式ツイッタージャックについてのお話。主≠仁菜
「あと二分だよ」
「うわ〜ドキドキする〜どうしよ誰も反応してくんなかったら」
「まさか」
番組の打ち合わせを終え、帰宅の途に就いたのは随分と遅かったらしい。そこからバンドメンバーや番組スタッフの人との飲み会が始まり、気付けば十一時半を越えていたそうだ。自宅に帰ると間に合わないから、そう言って珍しく血相を変えた電話をしてきたのが十分ほど前のこと。そして乱暴に私の家のチャイムを鳴らしたのが多分七分くらい前。大慌てで私のパソコンとタブレットを奪い、スマホの充電器を所望してきたのがほんの五分ほど前のことだった。
「やべログインできない、パスワード間違った」
「あといっぷーん」
「焦らせんなよ!」
先ほどまでのんびりとタブレットで海外ドラマを楽しんでいた私だが、そのおもちゃをこうして取り上げられてしまった今、出来ることと言えば慌てふためきながらサプライズの準備をする芹を眺めつつタイムキーパーに勤しむことくらいだった。遅刻しないよう厚意で付き合ってあげているのだというのに、失礼な話だ。
スマホの準備は出来た。パソコンの方も完了しているみたいだ。あとはタブレットだけ。
「貸して、やったげる」
「え、まじ?」
アルコールのにおいをさせながらも、随分と険しい表情をこちらに向ける芹。彼のそんな珍しい様子に、思わず噴き出してしまった。いつもなら「笑うな」と怒るところだろうが、今はそんなこともお構いなしに猫の手も借りたい状況のようだ。これ、と渡された紙切れには、几帳面な文字でアルファベットと数字の羅列が記載されている。そうか、企業アカウントなんてそう簡単なパスになどするはずがないか。
「ログインしたらいいの?」
今しがた芹がほっぽり投げたタブレットを拾いあげ、ツイッターのログインページでパスワードが一致しません≠ニエラーメッセージが表示された画面と向き合いながら声を掛ける。が、うんともすんとも返事が無くて、私は顔を上げて彼の様子を確認した。
(集中しちゃって……)
もう私の声など届いていないようで、スマホを両手で抱えている彼の表情は、真剣そのものだった。なにやらぶつぶつ独り言をこぼしながら画面に向き合う彼を横目に、私は先ほどのメモを頼りにゆっくりとパスワードを入力していく。慌てて入れようとして間違えるのも頷ける複雑なパスワードだ。
あと三十秒。ふたり一緒に日付を越えるのは無理なのだろうと諦めていたところに、突然ばたばたと舞い込んできた誤算。何気ない素振りで迎え入れたが、本当はとても嬉しかったのだ。そんなことを伝える前に、当の本人はこの通り。せっかく隣にいるというのに、彼の心は今別のところにあるようだ。これには少し、妬けてしまう。
あと十秒。……四、三、二
「よし出来た!」
全ての機器の日付が0時を越えた時、彼の誕生日を祝うレコードショップのツイートのリツイートを皮切りに、彼の発信するツイートが画面のタイムラインに流れ始めた。
「……すごい通知の数」
こうしてアーティストのアカウントを間近で見るなんて、初めての経験だ。彼やLiar−sのほかのメンバーが個人名義のアカウントを持って呟いていた時には時々見たりもしていたが、実はこの画面を見る事すら久々だった。そんな中、この一気に跳ね上がる通知数にただ眺めているだけの私まで慌ててしまう。
「すごい、みんな芹のこと祝ってる」
「そりゃ芹さんの日ですからね〜」
無事滑り出したところで、彼の険しかった顔にだんだんと余裕の笑顔が見え始めた。次々に飛んでくるお祝いのメッセージを、パソコンとタブレット両方を使ってひとつひとつ大切そうに眺めながら、また手の中のスマホに向かう。
今日は、四月の十七日。結崎芹の生まれた日。こんなにたくさんの人たちが、画面越しに彼の誕生日を心の底から喜んでいる。
「マジで粘ってよかった」
「なにが?」
「公式アカウント一日だけ貸してって、加賀さんにめちゃくちゃ頼んでさ。最初はダメの一点張りだったけど、ハル達の後押しもあってようやくOKしてくれたんだよな」
「そうだったんだ」
画面に踊る彼の言葉は明るくて騒がしいものばかりだというのに、こうして画面を見つめるその表情は随分と静かだ。メッセージの一通一通を見て、時々短く息を吐きながら、またおもむろに指を動かし続けるという時間が、しばしの間続いた。
いつもはLiar−sのために使っていたツールを、芹が自分自身のために使っている様子は、なんだかとても感慨深いものだ。彼だけに向けられた言葉を、一文字もこぼさないよう丁寧に見つめる瞳は、いつにも増して無邪気に輝いていた。
私も、時々自分のスマホで芹のツイートを追いながら、その真剣な横顔を見つめて過ごす。こんなに芹のことを愛している人たち。こんなに芹に愛されている人たち。私だって結構なファンのつもりでいたけれど、なんだか彼らの間にはまた特別な絆みたいなものがあるようで、少し切なくさえ思ってしまう。
「なにこれSERIMIC CHORDだって」
「えー! 今気付いたの遅くねぇ!?」
「ごめんごめん」
静かな部屋に、そんな唐突な会話が時折響く。なんだか変な感じだ。そう思いながら、私はコーヒーを淹れるためキッチンへと向かった。
何となく、邪魔をしない方がいいかと思い、そのままキッチンでお湯が沸くのを待つことにした。その間、スマホを眺め、彼に届いているメッセージの一つ一つをなぞるように追いかけていくと、みんながみんな彼がこうして再び直接ファンと交流をしているのを心底驚き、そして喜んでいるのが分かる。このすべてが自分に向けられた言葉だなんて、想像しただけでも胸が熱い。ふと、リビングの方を振り返ると、相変わらず端末を見つめながら背中を丸める後姿が見えた。邪魔、しないでおこう。私は、喉まで出掛かった「コーヒー飲む?」という言葉を飲み込んで、黙って二つマグカップを準備した。
少しして、こぽこぽお湯が沸き始めた音を聞きながら、ふとスマホに目を落としてみると、丁度芹がおしまいのツイートを流したところだった。またな、という約束の言葉。またなか。どうやら、今日一日独り占めというわけには、やっぱり行かなそうだ。そう思うとなんだか複雑な思いもするが、それでもみんなが心底嬉しそうにまたね≠ニ返事を連ねる様子を見ると、どうにも顔がほころんでしまった。
たくさんのメッセージに混ぜて、私も一つだけ。私は手短にリプライを打ってから、再びコーヒーの準備に戻った。
「なー、お前さー」
丁度コーヒーを淹れ終えて、自分の分のマグカップにミルクを注いでいたところに突然後ろから声を掛けられ、思わずぎくりと肩がはねた。……びっくりしすぎていつもの倍の量入れてしまった。
「ちょ、びっくりした」
ぎくしゃくと後ろを振り向いてみると、そこにはやけに優しい顔をした彼が佇んでいる。そのままずんずんこちらに向かってきて、あっという間にすっぽりと腕の中に囲い込まれ、片手に牛乳のパックを持ったまま、私は身動き一つとれなくなってしまった。
「芹」
控えめに名前を呼ぶと、返事の代わりに長い長い溜息が返ってくる。真上からのしかかってくるように体重を掛けられて、危うく転びそうになるのを何とか踏ん張りつつ、そんな彼の吐息を首筋に感じていた。
「もうツイッターいいの?」
「またな≠オたから、今はおわり」
「みんなの返事見なきゃいけないんでしょ」
「……なんだよクルーにやきもちか?」
「そうじゃないよ」
気付けばもう夜の一時だ。朝が来れば普通の平日が動き出す、お互い仕事だってある。三百六十五分の、たったの一日。けれど、どうしようなく特別な一日なのだ。想像していたものとは違ったけれど、劇的に、けれど穏やかに、この特別な夜が更けていく。
「お待たせ」
「なに?」
「さっきの、直接言って」
「さっきの?」
「SERIMIC CHORDにリプライしてきたやつ」
「え、気付いたの」
「気付きますよそりゃあ」
みんなからの大量の返事に紛れて、気付かれていないかと思っていた。普段あまり使わないもので、アイコンだってデフォルト設定のままでアカウントも素っ気ないローマ字だったというのに。目ざとい男め。くすくすと笑いながらようやく解放してくれたと思ったら、私が牛乳を握りしめたままだったことに今更気が付いたらしく、芹はぶっと噴き出した。いったい誰のせいよ。口には出さなかったけれど、唇を尖らせた私を見て察知したらしい彼は、「ごめんごめん」と笑いながら謝った。
「……誕生日おめでとう。これからも、だいすきです。=v
先ほど書いたシナリオを、たどたどしく読み上げる。じっと私を見下ろす彼の目が、いつになく柔らかで、なんだか緊張してしまう。頬がとても熱くて、きっと熟れたリンゴのように赤く染まってしまっているのだろうと思うと、無性に恥ずかしかった。
「ヤバイ」
「え?」
「勃った」
「はあ!? 馬鹿! ゲス!」
「嘘だよーあはは、痛い痛い」
「もう!」
と、そんなロマンチックになりかけた空気を平気でぶち壊してくる男、それもまた、みんなが愛する結崎芹なのである。
私は思わず出てしまった手を引っ込め、熱い頬を両方の掌で冷やすように包んだ。私の攻撃が止むと、芹は防御姿勢を解いて、準備が出来ていたコーヒーのマグカップを取った。おそろいで買ったネイビーのカップは、彼が大切にしているものとよく似た色をしている。
「美味い」
「……太るから、ケーキは朝ね」
「え、あんの?」
「そりゃあるよ」
だって、今日はあなたが生まれた日なんだから。なんだか照れくさい、この言葉はそのまま胸にしまっておくことにしよう。そう決め口をつぐみ、何のケーキだろうとご機嫌な独り言をこぼしながら再びリビングのソファに向かっていく芹の背中を、しばし見つめた。
みんなの芹を、今少しだけ、独り占めさせてください。私は、先ほど一緒にメッセージを送り合った顔も知らない仲間たちに心の中で謝りながら、ミルクで真っ白になってしまった自分のコーヒーのカップを手に取り、愛しい背中のあとを追った。
2017.04.17