積み木遊び
どっか連れてって
そう名前から呼び出されたのはもう六時間ほど前のことで、そのぶっきらぼうなラインのメッセージが随分と昔のように思える。
幸い今日は仕事も至極順調で、デスクに向かいつつ今日の晩飯は何にしようか≠ュらいのことを考えていたところだったので、俺は二つ返事でその誘いに乗った。
名前とはもうかれこれ高校時代からの付き合いで、お互い別々の大学に進学しても別の会社に就職しても、その関係が途切れることは無かった。ぱったりと連絡が途絶えて何か月も音沙汰がないこともしばしばあるが、それでもこうやって忘れた頃に連絡をよこしてくるのはいつも名前の方だ。気を許されていると思う。いい友達だとも、思う。
「ウイスキー、ロックで」
「それハイボールにしてください」
「ちょっと」
「あのなあ」
そうやって、また強い酒を勝手にオーダーしようとする名前に待ったを掛けて別のものに注文をかえると、とっくに据わった目でじっとりと俺のことを睨みつけてくる。
「大して強くもねえくせに」
俺のその言葉に反論も出来ないまま、名前はむっと頬を膨らまして机にごつんと突っ伏した。寝るなよ、と釘を刺せば、平気、と存外弱々しい声で返ってくるもので、どう触れればいいのかもよく分からなくなった。
今回は、ゆうに約一年ぶりの再会だった。それでも、久しぶりに会えば話す話題には事欠かず、結局実のある話なんてしていないというのに夜はあっという間に更けていく。 気付けばもう飲み始めて五時間。薄っぺらい話題と濃い目の酒が、がぶがぶと俺たちの時間を飲み込んでいくのは、不毛な気もするがとても心地が良かった。
「酔いたいの」
ぽつりとそうこぼした声が、まるで泣いているのかと思ってぎょっとした。
「……もう心配しないでも十分酔ってるよ、お前」
恐る恐る言った言葉に、ふふっと小さく笑う様な声が、店の喧騒の中かろうじて俺の耳に届く。
「煙草吸っていい?」
なんだか急に口さみしくなって、上着の内ポケットに手を突っ込みながら呟くと、名前はテーブルに突っ伏したまま、少しだけ頭を揺らして頷いた。
あんなラインで呼び出されたのだ。いったいどんな仏頂面を提げてやってくるのかと思えば、待ち合わせ場所にやって来た名前は 拍子抜けするくらい嬉しそうな顔で、「元気?」なんて言うものだから、俺は色々と準備していた売り言葉をすっかり持て余してしまった。
一年間。そんな空白の時間を感じさせないほどに、名前と過ごす時間は素直に楽しかった。下らない振りにも応えてくれて、いつの間にか染まり切っていた会社や仕事の話なんかを聞くのも面白い。お互い、学生の頃のように無知でも無鉄砲でもなくなったという自覚はあったし、だからこそ今でもこうして付き合いが続いているのが嬉しかった。環境が変われば、価値観が変わる。それが変われば、今度は交友関係だって変わっていくのが自然というものだ。その中でも、こうして時々俺のことを思い出してくれるのは、悪くない。
「黒尾、彼女とはうまくいってるの?」
このくらいの、離れた距離が丁度よかったのだ。こういう限られた時間の間は、きっとこいつにとって良き男友達の俺で居られたし、それに対する不満など一つも無かった。もう、大人になった。色々とぐちゃぐちゃ雑念にまみれるような青臭いガキでいる時間は、とっくに終わったのだ。
「……いつの話してんだよ、もう一年以上前に別れたっつの」
それなのに、どうしてそうやって勝手に踏み入ろうとする。
人の気も知らないで。思わず噛み締めた奥歯が、きし、と痛んだ。
「そうだっけ、ごめん」
それまでの馬鹿みたいに楽しそうな笑顔を突然引っ込めて、空になったグラスの氷をコロコロ鳴らす名前は、たぶん知っていたのだ。今までずっと、知りながら知らんふりをしていたのだ。とんだ性悪女だと思う。
「お前は?」
「……なに?」
「今、ひとりなの?」
マスカラで塗られた長い睫毛をふっと伏せて、名前はこくんと頷いた。
十分すぎるほどの時間が、二人の間には降り積もっている。大切な、長い年月だった。けれど、それを壊してしまうことなどきっと一瞬で、続ける事より造作もないことなのだ。
「まだ飲むのかよ」
「飲むよ」
もう十分に酔っているはずだ。それなのに、いざ注文した飲み物が運ばれて来れば、名前はまた再びちびちびと美味しくなさそうにグラスに口を付け始めた。もうカラカラまで絞られたレモンを、しつこく絞ってみたり、意味もなく氷を鳴らしてみたり。もう欲しくも無い酒を、名前は未練がましく飲んでいる。
終電の時刻も近い。ちらりと腕時計に目を落とすと、その素振りを見た名前の目が、微かに揺れたのが分かった。
「まだ、飲み足りない」
まるで縋り付くような目で俺を見ながら、ひんやりと冷たい手で腕時計の文字盤を隠す。
理由が無ければ、俺がいなくなるとでも思っただろうか。その憶測は、たぶん正しい。まあそれも、今までの話だ。
「なあ、名前」
「なに……」
「もういいよ」
俺のその言葉を聞いて、気まずそうに細められていた目が、くるっと丸く見開き俺を見た。まるで、出会った頃と変わらない黒目がちな綺麗な目。
俺、この目が好きだったんだよな。
忘れたはずの色々な感情と思い出が、一瞬のうちに頭を駆け巡る。
もうとっくに色の落ちた素のままの唇が、何か言いたげに小さく開いた。
「もう、いいよ」
念を押すように、もう一度言うと、名前の瞳が不安げに揺れた。
変わってしまうだろうか、終わってしまうだろうか。大切に積み重ねた時間も、きっとあっという間に無かったことになるのだろうな。
未だ、俺の腕時計の上から退こうとしないその手をつかみ、無理やり指の間をこじあけ指を絡めた。細い指が、一瞬怯んだようにじたばたするのが分かったけれど、ぎゅっと力を込めて握り締めれば、そのまま観念したように動かなくなった。
「お前さ、俺のこと信用しすぎじゃない?」
目を細めて見ると、名前は耳まで真っ赤にして唇を噛んでいた。
ざまあみろ。
そんなガキみたいな台詞を口にしながら舐めた唇は、薄いウイスキーの味で濡れていた。
20170402