ピアニシモ
音楽雑誌のチェックに、様々なアーティストのホームページやSNSのチェック。一番骨が折れるのが、この世にごまんといるユーザーから好き勝手に発信される、誹謗中傷や嘘か本当かも分からないような目撃情報、噂の類のチェックだ。もし、火種になるような事実が隠れているとすれば先手を打って確認や是正を行わなければならないし、あまりに悪質なユーザーのものについては然るべき措置で差し止めを依頼したりしなければいけない。
「……はぁ」
好きで就いた仕事だけれど、こういうネガティブな作業はどうにも気分が沈む。私は、色彩のうるさいパソコンモニタから一度目を話して、すで冷めてしまったコーヒーを啜る。膨大なデータを処理するため、ある程度までは優秀なロボット検索機能が情報を絞ってはくれるが、優秀がゆえに残る情報は本当に目も背けたくなるようなものばかりなのだ。
事務所のアーティストたちは、マネジメントの対象であると同時に大切な仕事仲間だ。そんな身近な人たちをあれこれこき下ろされている書き込みなんて、誰が好き好んで見たいというのだろう。
「ちょっとは休憩したら?」
「え、あ、八雲さん。おかえりなさい」
「うん、ただいま」
ハッとして顔を上げると、隣りのデスクの先輩が丁度外出から帰社したところだった。レヴァフェの学生組を、都内の新宿のスタジオまで送り届けに行くと、つい一時間ほど前に出て行ったばかりなのに、思ったよりも早いお帰りだ。
「早かったですね」
「思ったよりも、道が空いてて」
静かに腰を下ろす八雲さんの横顔を、何となく眺めてしまった。つやつやと光を宿すその髪が、さらりと揺れてその顔を隠す。まるで、私の視線に気付いて恥ずかしがるように。
八雲さんは、入社当初からお世話になっている同じ部の先輩だった。主に内勤の私は、このマネジメント部では、マネージャーとして実働する人の補佐的な役割を担うことが多く、申請書類の作成や今取り掛かっているネットの情報収集などの業務がそれにあたる。
向いていない、と、正直思う。
先ほども感じたばかりの、暗雲垂れ込めるような気持が再び心に浮かびあがり、私は自分のモニターに向き直って再び溜息を吐いてしまった。ほとんど無意識に近かった。
この仕事が嫌いなわけでは無く、むしろ大好きだった。愛しているからこそ、マイナス意見を見るのはつらい。まだまだ子どもだとあきれられてしまうかも知れないが、自分の心情抜きに仕事に向き合えるほど出来た人間ではないのだ。
「苗字さん」
「え!? あ、はい!」
「怖い顔。眉間に力入ってるよ」
ふと名前を呼ばれてそちらを見ると、八雲さんが髪を結びなおしながら、いつもの苦笑に似た笑顔を私に向けていた。……いつからみられていたのだろう、恥ずかしい。
「なんかまた見つけちゃった?……まあ、あるよね、こればっかりはしょうがない」
き、とチェアを軋ませながら、八雲さんが「どれ?」と身を乗り出し私のモニタを覗き込む。ふっと近づく距離で、スーツに染み付いた八雲さんの匂いが濃く香る。なんだか、落ち着く香りだ。彼自身は吸わないけれど、微かに煙草の匂いも混ざっていた。この業界で、煙草を嗜む人は多い。喫煙所やお酒の場で、色々な情報交換が行われビジネスを動かす場合だって往々にしてある。煙草は苦手、なんてことを口にする彼も、仕事となればそうやっていろいろな我慢を重ねているということなのだろう。それからその奥に、甘いお菓子のような香りもするのだから、なんともちぐはぐで少し笑ってしまった。
「え、なに? なんか可笑しい?」
私の笑いに気付いたのか、八雲さんが少し慌てたように振り返る。揺れる髪が、また彼の目元をひらりと隠す。
「いえ」
私の集めた色々な情報は、かい摘んだうえで全てマネージャー陣へと引き継がれる。プラスマイナス、その割合で言えば1:9、よくて2:8がせいぜいなのだけれど、彼らは真剣な目でそのデータに目を通し、決して卑屈な顔をすることは無い。この、いつだって優しい八雲さんも然りだ。
甘いのは私ばかりなのだろうか。受け入れられないのは、仕事と割り切れないのは、私ばかりなのだろうか。
「八雲さんは、すごいですね」
気付けば、そんな唐突なことを口にしていた。
彼の、アーティストに向ける愛は人一倍強いのだ。伊澄社長や、厳しい加賀さんなんかを見ていると、アーティストとはビジネス≠フ目線で話しているように思うことも多いけれど、八雲さんだけはいつだって彼らの仲間≠セった。それが、いいのか悪いのかは分からない。ただやっぱり気になるのは、そんな仲間≠ェ酷評される事があるという現実を、どう受け止めて消化しているのかということだ。優しい人だからこそ、そんな情報を見たあと、どうやって彼らと付き合っているのだろうかと、そんなことが素直に不思議だった。
「何が……?」
目をきょとんと丸くして、八雲さんが私の目をまっすぐに見つめていた。卑屈な頭の中を探られそうで、今にも逃げたい≠ニいうこの気持ちを引きずり出されそうで、その綺麗な瞳を見つめ返すのには勇気が要った。
「あんな頑張ってる子たちの、こんな、悪口書かれて…、その、悔しくないんですか……」
思わず、少し声が大きくなってしまっていた。聞こえてしまったのか、ななめ向かいに座っていた加賀さんが、がたりと腰を浮かす音が聞こえて一気に身体が硬直する。やばい、たぶん、言ってはいけないことだった。そんな風に思いながら加賀さんを見ると、メガネの奥からいつもに増して厳しい目線を私の方に向けていた。
「悔しいよ」
ふっと、まるでうたうような軽やかさで、八雲さんが答えた。えっと呆気にとられてしまうほど、その言葉と、柔らかな表情が噛み合っていなくて、私は声を詰まらせる。きし、と椅子の軋む音が聞こえて横目で見れば、立ち上がりかけた加賀さんが、再び席に着く音であった。
「けど、僕らは、メンバーのその場限りの評価のために仕事しているわけじゃないから」
「その場限り……」
「来年、再来年、五年先、十年先、彼らが今と同じわけ無いでしょう?」
「……はい」
「知らないふりしてるけど、あの子たちが一番気にしてるんだから。彼らの未来を、僕たちが信じないで誰が信じてあげるの」
「そう、ですね」
「……今度みんなでご飯行こっか。亜貴と久遠が喜ぶよ。同い年だもんね、君たち」
滑らかな空気に包み込まれるような感覚だった。私は、なんだか憑き物がとれたようなまっさらな気持ちの中、こくんと首を縦に振ることしかできない。ふっと聞こえた、零れる息の音は、加賀さんの方からのようにも思えたがそれも定かではない。
「君がしてくれてる仕事は、彼らの未来を造るためのマイルストーンなんだよ。…いつもありがとう」
「…八雲さん」
「ちょっと…! ごめん! 泣かせるつもりじゃ…!」
ありがとう、なんて、今さっきまで後ろ向きに逃げることを考えていた私には、もったいない言葉のような気がして。気付けばつらつらと流れ落ちる涙が、もう止められなくなってしまった。
子供だった。怖かったのは、覚悟の意味をはき違えていたからだ。それに気が付いて、ショックと嬉しさであふれた、そんな涙だ。
「……二人とも、騒ぐなら外でやってきたらどうです」
呆れた様な加賀さんの声が聞こえた。オフィスから、誰からともない柔らかな笑い声もした。甘い私を、とがめるような人はここにはいないようだった。
「そ、外出ようか…苗字さん」
「う…はい」
「あーごめんごめん、泣かないでってば……」
わたわた慌てながら私の手を引く指がとても温かくて、それだけで胸がいっぱいになった。
突然開けた視界に戸惑いながら、私はその時確かに思った。
「八雲さん」
「ん?」
「これからも、よろしくお願いします」
この人について行きたい。この人の背中を追い掛けたい。そのありがとうという言葉を、この先何度だって聞きたい。
「……うん」
あなたが誰かのために与えられた時間やその心を使うなら、あなたのためには私が使う。そんな、じんわりと湧き上がる決意を新たに、私は八雲さんの指をしっかりと握り返したのだった。
20170402