小春のえくぼ
※双子の父になった国見の未来夢。
ねつ造でこどもの名前も出てきますのでご注意ください。
「ねー! ちょっと、名前ー!」
ぐつぐつ煮え始めた鍋の中身をかき混ぜていると、ふとそんな夫の声が耳に入った。
寝ても覚めても眠たそうな目をして、珍しく楽しそうに笑ったと思ったらまたすぐにニュートラルモードに戻っている。そんな、慌てず騒がず焦らない超合理的でマイペースな彼が、ここ最近よくこんな風に声を大きくして私のことを呼んだ。その様子には、なんだか可笑しいやらかわいいやら、愛しいやらで、どうしたって顔がほころんでしまう。そのままの顔で彼の前に出ると、決まって不服そうに目を細めて睨むので、駆けつける前には一呼吸おいてから扉を開けるのが毎回の恒例だった。
火を止めてキッチンを離れ、今日も愛しいあなたたちのもとへ。
「っちょ、助けて」
リビングの戸を開けるや否や、そんな必死な台詞が飛び出して、またも表情が緩みそうになった。いけないいけない。
下すっぽんぽんのままはいはいで逃げ惑う娘と、箱ティッシュを傍若無人に引き出して遊ぶ息子の姿が目に入った。新米パパの夫は、そんなふたりの怪獣のどちらから対処すればいいのか分からずてんやわんやと両方にその手を伸ばして慌てふためいている。かわいいなあ……目の前の光景すべてが真っ白で幸せで、あ、真っ白というのは別にティッシュが散乱しているからというわけではなく。
「オムツ、途中だったんだけど、ティッシュが」
そんな途切れ途切れに己の危機的状況を訴えかけてくるパパが可笑しくて、とうとうわたしは噴き出した。案の定「笑うな」と不機嫌そうな声が返ってくるものの、もうどうにも止まりそうにない。
「ゆかりのオムツわたしやる。おしり拭いた?」
「拭いた」
誰に似たんだか、娘は一秒たりともじっとしていられないたちで、最近覚えたはいはいで軽快に部屋の隅の方まで飛ばしていく。お嬢さん、そんな恰好で恥ずかしいですよ、とその暴走機関車を抱きかかえて強制連行すると、横では英がもうほとんど空っぽになったティッシュの箱を息子から取り上げていた。かっこうのおもちゃがなくなってしまい一気にご機嫌斜めな模様で、今にも泣くぞ!!≠ニいうようなくしゃくしゃの顔でぐずり始める息子を見て、また彼が慌て出す。
こんな感じで、わたしを取り巻く日常は実に賑やかで飽きることが無い。
おめでとうございます。しかも双子ですよ。
初めて受診した産婦人科で、先生のその言葉を二人で聞いた時、正直どうリアクションを取ったらいいのかがよく分からなかった。多分、英も同じだったろうと思う。親になるという、予感はしていたが、まだ覚悟は出来ていない、そんな時だった。一気にふたつの生命を宿したこの身体。無言のまま、ぽかんとした顔でお互い向き合うと、もともと童顔な彼の顔がいつも以上にあどけなく見えてしまった。
先生も看護婦さんも、そんな私たちを見てとても穏やかに微笑んでいた。もういい歳の大人だというのに、まるで子どもに戻ってしまったかのような心細さを、多分お互い感じていたのだと思う。
日も暮れ始めた夕方の帰り道を、とぼとぼ無言で歩いた。いつもは私からねだって繋ぐ指は、その日は随分と自然に互いに絡まり合うように繋がれた。
いつもと同じスーパーによって、いつもと同じように一番安いお肉を買って、いつもと同じように私が料理をして夕飯を食べた。これから、自分が、自分たちがどうなっていくのか。そんな漠然とした不安に苛まれながら、ただ静かに手を繋いだまま、身を寄せ合って眠った。
ずっと喉元まで出掛かっていた、どうしよう、という言葉は、何とか零さずに堪えることが出来た。それは彼も同じだったんじゃないか。だから、いつにも増して黙りこくって、気持ちを探り合うように指ばかり絡めあって。ねえ英。不安だね。どうしよう。こんな未熟な私たちが、二人もちゃんと愛せるのかな。カーテンのすき間から差し込む月明りを頼りに、眠る英の顔を見ていると、その瞼が時折ピクリと揺れていた。
「あ、ティッシュもう無いや」
「えー……」
「さっき雄太がまき散らしたやつで最後だったみたい」
押し入れから箱ティッシュのストックを出そうと覗いたが、そこはすでにもぬけの殻だった。いつの間にかラスト一個を使い始めてしまったらしい。ちなみにおむつも取り替えてもらってすっきりしたゆかりは、さっきと打って変わっておとなしくおしゃぶりを加えてコロコロとカーペットの上を転がっている。そして、今回の星である息子の雄太は、パパが片づける傍からゴミ箱に手を伸ばし、第二次ティシュチャレンジを挑もうと奮闘していた。英がうんざりしながらそのゴミ箱を持って逃げ惑う様子がどうにも面白い、というのは黙っておくことにしよう。
「はぁ、薬局行ってくる」
「じゃあオムツもついでに」
「分かった」
「雄太と行ってくれば?」
「えー……それは勘弁してもらえると」
「冗談だよ」
うだうだとそんな文句を言いながらも、その手が一向に息子との戯れをやめようとしないのがなんだかとても嬉しかった。一見鬱陶しそうな顔をしながらも時々ぴくりと上がる口角だとか、いつもよりも回数の多い瞬きだとか、彼はそういう不器用な愛し方をする人だ。友人にも私にも、それがまさか自分の子どもにも同じなのだということは、すこし予想外だったけれど。
「ん……どうした?」
「え?」
「ぼんやりして」
「…なんもないよ」
「嬉しそうな顔」
昔のことを思い出していた。そんな風に言えば、彼は笑うだろうか、それとも困ってしまうだろうか。いつの間にか立派な父親の顔をしている英のことが、たまらなく好きなのだと伝えたら、君はいったいどんな顔をするのだろう。
「嬉しいんだもん」
心の端から零れた気持ちをそのまま返事として口に出すと、英は一瞬きょとんと目を丸くした。きっと何の事だかさっぱり見当もつかないに違いない。けれど、それから彼は「そっか」と小さく呟きながら、まあるい溜息みたいに笑って見せた。
「……よし、行くか雄太」
「え、一緒に行くの?」
「うん、俺パパだから」
今度目を丸くするのは私の方だった。いたずらっぽく笑いながら、満足げに私のことを一瞥し、「な」と息子に笑い掛ける。いつのまにかティッシュへの興味は完全になくなったようで、雄太は父の見せる珍しい笑顔が気に入ったのか、コロコロと丸い目をきらめかせながら、その柔らかい頬にえくぼを作っていた。抱っこ紐の長さを慣れない手つきで調整している様子を、私はただ茫然と見守るほかない。
優しい大きな手が、息子の身体を抱きかかえると、それまでもじもじ動いていたのがぴたりと止んだ。英に抱かれるのは割合心地がいいらしい。抱っこも上手になって、時間は掛かるがオムツもかえることが出来て、ミルクのあとには二人並んでゲップをさせて、眠れないとぐずればうつらうつらしながらもいつまでだって起きている。手の掛かる子が二人もいるのだ。私一人じゃダメだった。英一人でもダメだった。私たちは二人いるから、だから四人でぴったりなのだ。
お日様にぽかぽかと温められて、とろとろのチーズみたいにくっついてやがて一つになっていくような、説明しがたい気分になった。
あの日あの瞬間、途方に暮れた私たちは、今だんだんと家族になっていく。
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
「うん、すぐ帰る」
簡素なアパートの扉を開けると、昼下がりの暖かい風が頬を撫でる。
ゆっくりと遠ざかっていく二人を見送りふと振り返れば、陽の当たる場所で娘がすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
2017.03.26
2017.03.29 掲